No.4のつづきです。
★(No.3お礼欄) カトリックの知ることができる神は、観念の神なのか、無根拠なのか。
☆ (1) 神は つねに《無根拠》です。
(2) そして人間がその中身を知ることのできないナゾです。
(3) 《カトリック教会のカテキズム要約(コンペンディウム)》が《第一章 人間は神を「知ることができる」》と言っている。これは どういうことか?
(4) ▲ ~~~~~
「主よ、あなたは偉大でほむべきかた。
・・・あなたはわたしたちを、ご自分に向けてお造りになりました。
ですから、わたしたちの心は、
あなたのうちに憩うまで安らぎを得ることができません」(聖アウグスチヌス)。
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☆ これは 《知ることが出来る》とは言っていません。
(5) 言ってみれば 経験世界を包み込むような《非経験の場》として神があるなら その神の下にひとは 生き動き存在する。マチガイを侵しつつそのつど我れに立ち帰り あたかも巡礼の旅路を行くごとく 最後にはこの神のもとにわがたましいは憩う。――と言おうとしています。
(6) なんでそのように最終の目的地が分かっているのか?――《非経験の場(それは場のチカラでありそのハタラキでもある)》が けっきょくナゾである霊としてわが心なる《非思考の庭》にやどる。とたとえて説明する。
したがって《最終の地》は すでにその霊としては決まっている。これを人間は言わば予感している。
(7) それは 《天の国》でもよいけれども 問題は すでに神がいま・ここに遍在しているというからには その天の国は 《いま・ここ》でしかない。つまり この現在時が 永遠の現在として 動態でありつつ 目指すべき場でもある。――アウグスティヌスは このように語ったものと思われます。
(8) ▲ ~~~~~
3 理性の光だけでどのように神を知ることができますか。
人間は、創造から出発して、すなわち世界および人間の人格から出発して、理性だけで確実に神を、万物の起源や目的として、また最高の善、真理、無限の美として知ることができます。
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☆ これは 好意的に解釈するならば 《そのように説明しようと思えばすることが出来て その説明の内容として神を知ることが出来る》 こう言っているのだと捉えます。つまり 仮りの姿としてです。大したことはなく 大したことは言っていません。
(9) 《創造から出発して》というところですでに《物語〔としての説明〕》の世界に入っています。神についての派生概念による説明だという意味です。派生概念は けっきょくタトエですから それをとおして《知った》と言ってもそれは そういうものなのかなぁというあらましの説明です。虚構による知識です。
(10) 《万物の起源(ないし 根源)》は 前回(回答No.4)出て来ました。そういう派生概念です。
(11) 《万物の目的》――これは 上のアウグスティヌスの文章の意味するところでした。
(12) そういう知識は確かに理性をとおして知ることがらではあります。
(13) 《最高の善、真理、無限の美》――《善および真理》は すでに前回 派生概念として捉えました。《美》をそのとき抜かしました。美がこの真善美として神にあって互いに同じチカラとして捉えられるというのは それは いわゆるヒラメキにおいてです。直感および直観。インスピレーションです。
(14) ヒラメキにおいて たとえば《世界の因果関係のすべてが把握できる》としたら その認識は言ってみれば《真理》です。
(15) この真理において しかもじつはワタシの実存としての人生あるいはつまりわがたましいの軌跡としての歴史が――たとえばかつて誹謗中傷を受けたわが身の潔白をあかす資料を含んで――知ることができるとするなら それは価値判断をふくむ。ゆえに その真理は 善です。《この上なき善》でありましょう。
(16) 同じくこの価値自由において真理であり価値判断を入れて至高の善である要素をふくむヒラメキにあって ひとは もしイメージとして捉えることがあるとすれば それは うつくしさというものである。これは 主観的なものであるだろうが 真理であり善であるというその内容に支えられて やはりこの上なき美である。とも言い得ることでしょう。
(17) というようなことは 神から派生する概念を用いてすでに経験世界におけるものごとをめぐる見方として・つまりは世界観として 知ることが出来ると言えば 知ることができます。そしてただしそれは あくまで派生概念におけるタトエとしてである。
(18) 《人間は、創造から出発して、すなわち世界および人間の人格から出発して》と言っていることは どういうことか?――よく分かりません。《創造》が 《世界および人間の人格》と言いかえられるわけが わかりづらいです。
(19) また (10)から(17)までに得られた知識は 別にどこから出発しようと 神の概念化を仮りに作業仮説としてのごとく用意すればあとは論理的な必然として得られるものです。わざわざ《世界および人間の人格から出発して》という謂われが分かりません。せいぜい《人間の存在および社会についての理論》としてそこに概念把握した神のことを投影して見てみるとすれば といった意味であるかと思われます。
(20) カトリックに義理立てすることはないのですが 《理性によって神を知ることが出来る》と言っているのは あくまで概念化した神の派生的な論理的な展開が これこれのように得られるのではないかという意味に採るとよいと思います。
(21) ただしもしこの《タトエにおける神――つまりは そういうオシエないし理論――》を神だと見なすとすれば それはマチガイです。文字(想像物)を神としたことになります。つまり《観念の神》であるしかありません。カトリックのカテキズムは あんがい中立の立ち場で書いていると思っていましたが 果たしてどうなんでしょう? (むかしむかし大昔に読んだことがあります)。
お礼
回答ありがとうございます。 がんばって読んでみます。