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神様の愛を信じますか?
夢と希望と愛。いずれも人生における大事な要素であると自負していますが、お金と愛のバランスはどこまでが均等で、どこからが不均等になるのでしょうか?お金=愛となるでしょうか!?それとも、神様の愛って本当にあるのでしょうか?皆さんにお伺いしたいです。ジャンルとしては、神学の分野になると思います。
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私は科学者(定年過ぎだから元科学者かな)でも神様はいると「思って」います。 信じているのでは無く「確実にいる」と思っています。 でも私の神様はバチも当てないし、助けてもくれない、ただ居るだけ。 時々マンガの戦闘シーンで突撃前に上官が「おのおのの神に祈れ」と言うところがありますが、とても好きです。^^ お金と愛、愛はいくらあっても構いませんが、お金は最小限あるのが健康ですね。
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- kigurumi
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世界を見回すと、信仰対象のほとんどは実は太陽。 生命体は太陽が無いと生きていけない。 地球に生命体が誕生することになった原因は、軸が歪んでからといわれている。 軸が傾くことで、生命体が生存できる温度になった。 太陽が死んで復活するというのは、毎日死んで復活しますが、実は地球が自転しているからですよね。 自分がいるところの裏側に太陽の位置がなれば、自分のところは太陽の光(熱)が当たらないわけです。 でも自転しているので、やがてまた当たるようになる。 さらに地球は公転をしている。 夏は緯度にもよるが、ほぼ真上に太陽は昼間の昇るが、冬はあまり昇らない。 どうしてかというと、地球は傾いており、冬の間太陽は南半球側を主に照らすから。 それによって四季が存在することになった。 冬至というのが、一番北半球にしれみれば、太陽が昼間昇っている時間が少ない。 南半球だと逆に長い。 しかし やがて太陽は北半球に戻ってくるので、太陽の復活となるわけです。 で、太陽の光があることで、光合成ができ植物が育ち、それを動物が食べて育つわけです。 人間は農耕というものを発明する前は、自然界にあるものを採取して食べて暮らしていた。 だから、自然界が人間を育てているようなものでした。 自然の恵みに感謝し、植物が育つのは太陽と関係しているとわかっていたので、太陽に感謝していたわけです。 その太陽信仰がなぜか、人間そっくりな姿をした神様ってなっていったわけです。 ギリシャ神話でも星座を擬人化したように、太陽を擬人化して、冬至に太陽が死ぬが冬至をすぎると蘇るという天文学的なものが、擬人化されて、実在した人物ってなってしまった。 太陽を恐れ敬うってことに関しては、別段どうってことないですが、太陽はいくら人間が祈ったりお願いしたところで、核爆発の勢いを増したりやめたりしませんよね。 核融合の放射能を大量に地球めがけて放射している形になりますが、太陽は人間をどうにかしようとして核融合を起こしているのではない。 一方的にでもない。 物質のふるまいでそうなっているわけです。 その物質の振る舞いを感謝したり、「何かいけないことをしたので、神様は怒って雨を降らせないのだろうから、謝罪しよう」と思ったり片手に捕らえ方を決めているのは人間ですよね。 物語や解釈をつけているのは、人間ですよね。 雨が降らなかった時期が長かった後に雨が降れば[恵みの雨」と表現し、雨が続けば「うっとうしい」と人間が勝手に解釈しているわけで、別に雨は人間に恵みを与えたいから降ってきているのではないし、人間を困らせたいから地震が起きているのでもない。 自然は人間にとって恵みでもあり恐ろしいものであり、ちっぽけな人間からすると、コントロール不可能なもの。 それを、人間が願えば、自然が変化するなど言って宗教団体が利益を搾取して、信者から恵みを吸い取るってのは、、、 どうかなぁと思う。 「神に感謝せよ」と言って、感謝の証としてもっと金を神に寄付しろ とか 物質に執着すると死後神によって裁かれ地獄に落とされるぞ とかって、結局 自分がおいしーものを食べたいってことですよね。 だったら神という妄想を信者に植え付けることなく、「俺はみんなからいい人だって思われたいから言い人だって言って。もっとたくさん食べたいからお金ちょーだい」って正直に言えばいいのにって思う。 まあ 正直に言うと、怠け者 と嫌われてしまうので、神を持ち出してあたかも存在しているかのように妄想を信者たちに植え付け 搾取しているわけです。 自然は別に人間に利益を与えたいと思ったり、危害を加えたいって思ったりすることは無いが、事実利益を得ているのなら「ありがたやー」と自然の恵みに感謝することは、精神的に良いことだし、自然の驚異で作物が全滅したら「もう自然にはかなわない ここまでだと もうお手上げだ 笑うしかない」って笑うことで、精神を保ったりしてもいいと思う。 豊作だったとき、太陽に感謝しても別にいいし、感謝の気持ちを祠をたててそこに一部を奉納するってのも、精神的にいいと思うが、年貢を取りすぎるってのは、、、神を利用した強盗行為だと思う。 まあ そうはいっても、ぎりぎり生きるか死ぬかまで奪われていたわけで、結果 神に感謝せよという人々に反乱を起こして、神を道具として強盗していた人たちは、人間によって化けの皮をはがれ、成敗されていったわけです。 いまの世界を支配している人たちは、宗教が言うような神など存在しないと知っている。 そして、他の人たちは気付いていないことをいいことに、神を道具にして、気付いていない人たちから搾取しまくっている。 神の偶像の裏に黒幕がいるとわかったところで、体内に進入され体の一部となっているようなものなので、そいつらを殺すと自分も死ぬようなものです。 (破滅させると、自分の所属する集団が崩壊し、自分も生活できなくなり死ぬことになる) だから、このウイルスを殺さず、彼らに搾取されつづけながら共存させてもらうという道を選ぶしか今のところ無いわけです。 最終的に全人類にマイクロチップを埋め込み、すべて生き死にまで管理するつもりだそうです。 彼らは人の生き死にまで決定できる いわば神になるつもりらしい。 人口爆発を懸念して、人類の数を今の10分の一くらいにしないと、大勢の人の餓死者が出るからということで、コントロールする必要があるって考えらしいです。 食料危機の問題以外も、いろいろ今ある問題を解決できるからって、人類のために必要な処置だって考えているようです。 これは人類に対する愛?
- mojitto
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愛もお金もある人もいますし、片方しか持っていない人もいますし、両方ともない人もいます。 愛を金額にできないし、金額と愛が釣り合うとも限らない。 つまり愛とお金に関連性はなく、独立した存在だと思います。 (だからこそお金を愛することだってできる) 神の愛については“ない”と思っています。 もし神の愛があるのであれば、戦争や飢餓で苦しめられている救われるべき命を救わないという点で、神は罪深き存在になってしまいます。 (救わない理由があるとは思えないし、あるとすればその理由は人には受け入れがたいものであるでしょう)
- sunspot_number
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私は幼稚園がカトリック教の教会に併設されたものでしたので、 幼稚園では毎日、マリア様の像に向かって朝は「マリア様おはようございます。」、午後に帰る時は「マリア様さようなら。」と両手を合わせながらお祈りをしました。 でも大人になって今では非科学的な宗教は一切信じません。無宗教者です。 そう言っても、付き合いってものがありますから、残念ながら全く無視する訳にもいきません。 身内や親戚などで不幸があればお見舞いやお悔やみに行かねばなりません。 その方々の宗教に合わせたしきたりにのっとった行動をとらねばならないのが現実です。 無宗教者の私に言わせれば、本当に宗教(家)はずるいと思います。 例えば仏教だと、様々な事で「お布施」と称してお金をぶんどります。
お礼
素晴らしい。お金は最小限あることが健康的であり、愛はいくらあっても構いません。というフレーズに感動致しました。科学者でも神様を信じている人がいる!という事実を知った時に、いろんな意味で神様は存在する!この内容をベストアンサーにさせて頂きます。