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真に日本的なものとは
ありますかね?
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日本の文化的気質のベースを成すのは、中国・江南地方 にある最古(8~9000年前)の水田遺跡を核心部とする、 日本~中国・江南地方~雲南~ブータンの「ジャポニカ米 稲作農耕文化圏(=温帯モンスーン地域=常緑照葉樹林帯 =血液型A型地域)」である。 その特徴は、集約農法に適した強固な地域コミュニティの 集団主義の協調性、雨季に拘束された年間を通じた計画 的生産の几帳面さ、といった“A型の性格”である。 ところがジャポニカ米以外の稲作農耕地域はもとより、先述 の同じ文化圏においても、他の文化圏にはない日本文化の 特徴は、上記の稲作農耕を伝来した渡来人と混血した縄文 人=太平洋全域に分布する航海能力を持つポリネシア人 の島国文化である。 隔離された土地に常に同じ顔ぶれが過ごすため、相手に 合わして遠慮する日和見的性格は、稲作農耕文化の集団 主義とは微妙に異なる融通無碍なものだが、この世界の 代表的集団主義がオーバーラップした稀有な集団主義的 性格は、たまたま工業化の大量生産作業に適しており、 アジアの片隅にこつ然として先進工業国を興せしめたのだ。 ま、残念ながら、戦後のアメリカの西欧化教育や、高度経済 成長における核家族化・共働き・地域コミュニティの希薄化 などによって、そうした日本文化の長所は食いつぶされ、 自己チュー化が進み、親が子を殺し、子が親を殺す精神的 荒廃を招いている。
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どうもです。 そんなに清々しいのがお好きなら、ノスタルジックな 打ち水、そして風鈴の調べ はいかがでしょう。
お礼
ありがとうございます。 風流という主観において 共通主観はあるものの 決定的なものはないのでしょう。 私の間違いは 主観が客観に勝るものだと思い込んでいたところにあるようです。 そのへんをご容赦ください。 よろしかったら続編で、またお願いします。
え~。 ご質問に対して戻ってまいりました。 今まで質問者さんご自身がコメントなさったキーワードを拾い集めてみました。 「水で清める」 「清潔」 「日本的な 清明で繊細なデザイン」 「(空)白」 「日本人にも外国人にも相応にウケる」 「かなり固い 石っころ みたいだ」 「その器用さも日本的かな・・」 「日本人にとっては自然な事なのに、外国へ行ってみると、そうじゃない」 再検討結果 Q:真に日本的なものとは ありますかね? A:ウォシュレット お気に召さないのなら、お礼は不要です。
お礼
はは 面白いですね まあ 何となく まではいくんだけど 行きつかない そんな感じです いつでも ご自由にどうぞ
おはようございます。 ひとつ、書かせていただきます。 昔、聖徳太子が言った(といわれている)言葉 和のこころ これを提案いたします。 和 日本の古名にもなっていますね。 やまと:大和 和のこころとは、日本人が昔からあらそいごとを好まず、ともかく人々どうしでなごみあい、ささいな不満があったとしても、それらを我慢しあい、なにごとも水に流してまえむきに生きてきた、そういうような明るい透明な精神の伝統を感じます。 まあ、古代中国へ遣わした日本代表たちも結構和の精神を発揮して、向こうからみれば礼に欠ける、そうとうえーかげんな、ざっくばらんな態度で終始したということらしいですが、それでいいんじゃないでしょうか。 こっちの提案である 和 でなく 倭 だな(昔から栄養が足りず小柄だったのでしょうが)、 と向こうからいわれても、ま、いっかーとにこにこわらって受け入れてきたおおらかな気持ちがあって、今の日本があるような気がします。
お礼
ありがとうございます。 >こっちの提案である 和 でなく 倭 だな(昔から栄養が足りず小柄だったのでしょうが)、 と向こうからいわれても、ま、いっかーとにこにこわらって受け入れてきたおおらかな気持ちがあって、今の日本があるような気がします。 そうそう そうだった と 思う 明るい清らかさ というんでしょうか 海を越えていって お~い 来たよ 話そうよ・・ っていう 無心さ みたいなもの 日のい出る天使も 日の沈むところの天使も同じ という こだわりの無さ 明るさ 今も持ち続けていてほしいと思いますね 和をもって尊しとなすべし これって 案外重い言葉のような気がするんです 逆らうこと無きを旨とせよ こう続く言葉が、やはりいつの間にか頭の中に入っちゃってる 人として失ってはいけないものを示しているような気がする 太子もそうだったと思うんだけど 激動の時代の中にあっても、失ってはいけない人間性みたいなもの・・ 太子が自らに言い聞かせた言葉であったかもしれない 不滅の言葉だと思いますよ 平和であれ と願う心 傷つけてはいけない という優しさ・・ 邪気を払った心というか 崇高な理念が示されているような気も しますね いわゆる 頭が下がる・・ というものなんでしょう 和のこころ というと すぐ思い浮かぶのは 日本的な 清明で繊細なデザインです でもそれは 平和の和につながっている 豊かな自然がそれらを育んできたんでしょうかね そんな気もします 自然と美と心・・ だんだんと 近づいてきましたか・・
補足
なんとなくですが・・ 豊かで美しい自然が培ってきた 清明な心 みたいなもの 清らかさ 明るさ が日本的といえるのではないかと思います 前に「水」と言いましたが そのへんを指すことにもなるのではないか という感じもします 伊勢神宮に参拝した時に 五十鈴川の水で手を清めた時に思ったのは こんなに安らかで きれいで いい・・ といった感じでした 川の水で清めるという 場のしつらえも素晴らしいと思いました 無信仰でもいい 或いは どんな信仰を持っていてもいい ここへ来てみなさい・・ 誰でも受け入れる というか 何かそんな雰囲気がありました 豊かで美しい自然が培ってきた 清明な心 清らかさ と 明るさ 日本に限らないと思いますが 日本的であると思います そのへんかな~・・(?)
- sssv
- ベストアンサー率14% (7/49)
ふっと 思ったのですが。 「清潔」ではないでしょうか?日本人は綺麗好き。 あと「温泉」でしょうか?
お礼
ありがとうございます。 >清潔・・温泉・・ 女性的で自然な捉え方ですね 綺麗さを求める、という事の底には 常に新しさを求める、という感覚があるような気がします 温泉にしても 気分転換のようでいて 実は、ちょっとした生まれ変わりの体験なのかもしれませんね 恰好をつけた言い方をするなら 生々流転の中の清新さ・・みたいなもの なんでしょう ここには無常感の暗さはないようです つまり、日本的な明るさみたいなものがあるようです いいんじゃないでしょうかね 自然な感覚でいい 付け加えさせてもらうと 清潔の延長線上にある清浄さ、清廉さ これを強く感じさせるのが神社建築あたりですね まあ、それに限らないと思いますが 和様、和式というデザインには、そういった感覚を覚えます 温泉に入ってリラックス・・ 大らかな安らぎと、明るさ、清らかさとが一緒になっている 日本的な精神性の一面だと思います。 伊勢神宮なんかも、そんな感じですけど・・
- hosiboshi
- ベストアンサー率9% (15/158)
わびさび 桜 お茶 昭和
お礼
ありがとうございます。 次々に浮かんでくる日本的なもの ありますね・・ 数年前ですが 京都へ行ったときに 日本の伝統文化を、主に外国人に見せて紹介するための所へ行きました お茶 お花 日本舞踊 と見せてくれました 形というか、一通りの作法でした 外人さんは、物珍しさもあって喜んで見ていましたが こちらは 何となく物足りない うん やってるな・・ という感じで、伝わってくるものがない まあ この類は 「しつらえ」というものがあってこそ、一つのものなんだと思います 部分的な取り上げ方だけでは十分ではない感じがします >わびさび きれい わび きれい さび という言葉もありますね 日本的感性の極至とされているようです ですが・・ これが わび ですよ さび ですよ と言われると嫌気がさしてきます 時間的な固定感覚がない状態でこそ見えてくるもの 人それぞれが一瞬の内に見る存在感みたいなもの のような気がします 感性の在り方はさしているが、対象そのものではない といった気もします 日本的な読み取り方、受け取り方なんでしょうね・・ 日本人的な精神的解釈を指している事は間違いないと思います >桜 お茶 昭和 どれも味がありますね 話始まるときりがない でも こういう表現の仕方、日本的でいいと思います 余計なものを加えない感じで、サラッとしている 空白の余韻があるというか 「わび」的なんでしょうね 日本人でいながら日本的なものを問う という 何か 発掘作業みたいな感じもします なかなか難しい・・ 実感です。
失礼、貴殿のご質問を読み間違えてしまっていたようです。 ご自身で解を導いていただくのが最良と拝察し、 一つを例示したまでのことです。 >すこし戸惑いを感じます 了解です。 丁寧なお礼をつけて下さり感謝します。 どうも有難うございました。 以上です。
お礼
ありがとうございました。
こんにちは。 「天皇制」こそは真に日本的なものだと思います。 昔も今も、 そして私たちが日頃大いに自覚する、もしくはしない程度であっても、です。
お礼
ありがとうございます。 >「天皇制」 確かに 静かな重味がありますね。 天皇をはじめ、皇室一家の健やかな姿を見ていると 安心感が湧いてきます (古い人間だからかな・・ ) 今現在、日本に住んでいる人達はみな 生まれた時から、天皇陛下という言葉を聞き それが特別な存在であることを知らされています 日本の国の礎を築き、日本の統治の要であり続けた存在であった事を誰でも知っていますね 確かに重い存在だし、確かに日本にしかないものです 世界中に王室はたくさんあっても、これほど伝統のあるものは他にはないでしょうね でも、どうなんでしょうね 国民の象徴 と言われるようになった存在が「日本的」なのか 或いは、「日本独自」と解釈すべきなのか 日本にしか、ないという事をもって、真に日本的なものだと決めてよいのかどうか・・ すこし戸惑いを感じます そうかな・・ とも思いますし いや まてよ・・ といった感じも持ってしまいます ここで 「日本的」という意味を、もう一度考え直す必要があるかもしれませんね 「日本独自」というものに限ってしまうかどうかです 日本独自、独特のものが日本的である、日本的なものに含まれることは間違いないと思います けれども 真に日本的なもの、といった場合においては 微妙ですが・・ 日本独自のもののみを言うことはできない といったような解釈もできるかと思います 補足欄に私が思うところを少し書いてみます ご参考になさって お気付になった事がありましたら、またお願いします。
補足
「水」 というものが日本の文化や生活の源(みなもと)ではないか といった感じがしています ギリシャのターレスが 万物の根源は「水」だと言ったそうですが 日本は 山紫水明という言葉があるように 美しい自然に満ちていますが とりわけ 水の存在は大きいのではないでしょうか それは、農耕の源でもあり、人が生活してゆく上において欠くことのできないものです また 様々な芸術、文化にとっても、「水」の存在は大きな影響を与えてきたように思います 豊かな自然と水が日本の国を育んできた、といっても過言ではないと思います 気候、風土、といったもののみを、真に日本的だとは言い切れないかもしれませんが 何となく そう言ってもいいような気がします きれいな水 明るい水 潤いの象徴・・ 真に日本的だとは思いませんか・・?
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
★(No.6お礼欄) ~~~ 今の人達は、そんな憧れを抱いてはいないと思います 寛容はインターナショナル的という言葉に含まれ、僅厳は自由さへの責任というものになった 古き良き幻想・・ それはそれで あっていいという事じゃないでしょうか ~~~~~~~~~~~ ☆ ちゃうよー。 ☆☆(回答No.6) ~~~ よく受け取れば これらの日本人の心は 単純にして純真で しかもそういう――自死という――負の方向におもむくものでありながら その意志はあんがい堅いのです。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《自由さへの責任》は重なるところがあるようにも思いますが 焦点としてこの《意志の堅さ》に注目しています。 ぢゃあたとえば 同じく暗いマイナスの方向性においてですが(いつもよく例に出す話ですが): ▲ (春姫と次郎の悲恋物語) ~~~~~ http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Himawari/2308/lovestory2.html 奈良の都から国司の貢米を視察するため巡察使葛城親王という方が、〔福島・郡山の〕安積の国司のもとに遣わされてきた。国司たちは貢米を3年も滞らせていたため、華やかなもてなしにも機嫌が悪かった。しかし、葛城親王はこの国に来たときに風に飛んできた一枚の美しい姿絵をたいそう気に入り「この絵の女を呼び出せ」と命じた。 その絵は百姓小糠次郎の恋女房春姫の姿絵であった。二人は村中でも評判の仲のいい夫婦であった。次郎は畑仕事をしている時でも思いが通うようにと、春姫の姿絵を木の枝に掛けながら仕事をしていた。親王の命に、次郎はなかなか承知をしなかったが、「村のためになるのなら。すぐ戻ってきます。」という春姫の言葉にようやく首をたてに振ったのだった。 春姫は心をこめて親王をもてなし、おかげで年貢の納めを3年も延ばしてもらうことになった。都に帰った親王であったが、春姫の美しい姿を忘れることができず、ついに春姫を都の後宮に仕える釆女(うねめ)としてとりたてる命を出したのであった。愛する夫次郎と離れることが、なによりつらい春姫ではあったが、都よりの命令に背むくことはできなかった。「必ず戻ってまいります。」春姫の言葉にただただ涙するばかりであった。 都についた春姫であったが、都の華やかな暮らしにもかかわらず、一日たりとも幸せを感じることはなかった。空ゆく雲を見ては夫次郎を思い、風の音にふるさとの山川を目に浮かべる日々が続いた。 「安積の片平へ帰ろう」そう心に決めた春姫は、仲秋の宴でにぎわう宮中を抜けだした。猿沢の池のほとりに釆女の衣装とはきものをそろえて脱ぎ、池に身を投じたかのように見せ、数百里彼方のふるさとへと旅立った。 一方、次郎も春姫の姿絵を枝にかけ悲しみに耐える日々が続いていた。2年の月日が流れても春姫の帰りを待ちに待っていた。しかし、身はやつれ目はうつろになり畑打つ力も失せてしまっていた。 ある日次郎は春姫を慕うあまり、春姫のまぼろしを追いかけ、高い崖から落ちてしまったのであった。 「あなた、ただいまもどりました。」春姫は見る影もなくなった姿で我が家の戸をたたいた。しかし中からは何の返事も返ってはこなかった。「あなたぁ、どこへ・・・。」村人から次郎の最期を聞かされた春姫は、声もなくその場に座り込んでしまった。 夫会いたさに歯を食いしばって歩き続けた春姫はもはや生きる望みも消えていた。やがて山の井の清水で村人は変わり果てた春姫を見つけた。 村人たちは村のために死んだ春姫を弔い釆女神社を建ててその功に報いた。村のためとはいえ、悲しい運命にもてあそばれた春姫・次郎の悲しい物語である。 ~~~~~~~~~~ ☆ この物語の主題は 《寛容と謹厳》ではありません。《意志自由およびふたりのあいだの約束をめぐる誠実》です。 ただし日本人ないし日本社会にあっては これまで前向きな姿勢で《生きて》この主題を最後まで問い求めることはかなわなかった。という情況や事情の問題です。 主題は 人類に普遍的な内容です。その問い求め方が 日本人に特有なところがある。 平気でポンポンと自死をえらんで行ってしまう。・・・ 少し話の筋が違うけれど イジメにおける自死の問題もあるようです。どうでしょうかね。 むろん マイナスがよいと言っているのではありません。
お礼
ちゃうか・・ そうか・・ そうだ・・ じゃ なんだ・・ あれだ・・ あれって なんだ・・ あれって あれだ・・ そうか・・ これだ・・ これって これか・・ もう いいよ・・ てな 感じ ありがとう。 >意志の堅さ・・ かなり固い 石っころ みたいだ >春姫と次郎 そう 物語になっちゃうんですよ 負への心 反対もありますよ 正への心 壺坂霊験記 どっちもいい といえばいい この頃 暗くなってない・・ Bさん 余計な心配だって とは思うんだけど・・。
- ukiyotonbo
- ベストアンサー率11% (91/788)
真と言うより純日本的かな。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E9%9B%BB%E8%BB%8A_%28%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%29
お礼
ありがとうございます。 これは・・すね かなり というか 結構 流行った 田舎へも出張してきて バラック小屋でもご開帳した (なつかしい話・・話ですよ・・ ) まあ その後遺症で 浅草の観音様を見に行こうという人が増えたんだが 雷門の前を なぜか素通りしてしまう という そういう不思議な現象が起きた まあ なんですよ・・ 聖と俗というものの紙一重 笑いを超えた 聖の中の俗 俗の中の聖 といったもの 変わりませんね 人に対する 大らかな祈りさえあるような なつかしい神話です・・。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
惻隠の情と同じような内容なのですが そのことの起こる情況が違うかたちで そのような気持ちや心を相手に推し測って欲しいというその思わくを挙げてみます。 言いかえると 自分のほうから心ないし意志を 言葉に出して言わない。それが 自然と相手に分かって欲しいと思って待っているその姿勢であり思わくです。 これは オシツケではありません。惻隠の情を自分に向けて欲しいということでも必ずしもなく 何とか通じないかなと単純に思って 相手の反応を俟っているかたちです。 分かってもらえなければ もうそれで おしまいとする。いたってあっさりとした思わくだと思われます。 言ってみれば 人間というものは 互いに情感の共同性のもとにあって たえず相手の気持ちや心が――或る程度何らかの重みのある問題にかかわっているなら――分かり合えるといった素朴な共生感なのだと考えられます。 問題は 当面する問題がかなり大きく重要な内容にかかわっている場合にあります。 その例としては 相思相愛の相手とむすばれたいというふたりの意志を確認したあと それぞれの両親やまわりの目上の人たちの了解や祝福が得られないといった場合を取り上げることが出来ます。 もうひとつは とにかくも何らかのきわめて重要なモノを 自分が一たん所持しているあいだに 壊してしまったり無くしてしまったりして 所有者である相手にゆるしを乞う場合に もはやひとことも言葉が出ず ただ立ちつくすといった場合です。 これらは やや昔の話になっていると思いますが――現代人のあいだには見られないと思いますが―― それらの場合におけるいちばん極端な話というのは いづれの場合も 当事者が もし相手とする人たちから 自分たちの願いや思いを同じくしたかたちで分かってもらえなかったとき けっきょく最後の最後には自死をえらぶというときのその思わく これは 日本人に特徴的なものだと考えられます。 たいへん大事で高価な陶磁器を割ってしまった場合 つぐないをするために――身も心もこおりついてしまった状態でいつづけ ついには―― 自死に到るというようなおのが思いの伝え方 これは 日本人っぽいように思います。 周囲の反対で結婚がゆるされないカップルの場合は いわゆる道行きに出る。これは 死を決した逃亡です。まわりの考えにさからうと決めた時点で ふたりとも自死をえらんでいるものです。 よく受け取れば これらの日本人の心は 単純にして純真で しかもそういう――自死という――負の方向におもむくものでありながら その意志はあんがい堅いのです。 日本人は中途半端でチャランポランだと見られるところも多いと思うのですが 意志のつよいところも 事例がすくなくても これは日本人だと――事後において――思われ納得もされるようなものとして じっさいにおいて見られる。のではないか。 しめくくりの言葉があるとすれば たぶん現代のわれわれとしては そのこころをよしとして 結着の仕方は もっと前向きに推し進めること。これが よいのでしょうかね どうでしょう。
お礼
ありがとうございます。 惻隠の情の裏側の世界 まあ あるでしょうね・・ 駆け落ち なんかもそうでしょう そういった形で了解を求める・・という事もあるかと思います 許されない恋なら、お前たちにはそれしかない そうしろ とは言わないが 勝手にするがいい ただし どうなろうとも 誰も見向きもしない といった心の了解を求めてしまう 不道徳の黙認も一種の共生感なんでしょうね また 身をもって償う という感覚も 当然の事として受け入れてしまっている 古きながらも・・ですが 自死を選ぶ心の美 といった了解がある 暗さではなく それを清廉として見る・・・といった まあ まあ まあ 他の いい加減を許す心と 自らへの いい加減を許さぬ心 寛容と僅厳というドラマは 今もあるでしょうね でも でもなんですが そうした時代劇心理からは解放されつつあるんじゃないでしょうか 心の美に殉じるといったことは古い・・ それらを語る、語られてきた物語が数多い というのは 一種の憧れ・・である と見た方がよさそうです 今も昔も変わらぬ 日本的な憧れの世界である という事です はっきりいうと 今の人達は、そんな憧れを抱いてはいないと思います 寛容はインターナショナル的という言葉に含まれ、僅厳は自由さへの責任というものになった 古き良き幻想・・ それはそれで あっていいという事じゃないでしょうか 日本的なものとは 記憶の彼方に留めるべき幻想ではない そんなふうに思うのですが・・・。
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お礼
ありがとうございます。 この質問に関して 客観性と主観性を混同していた事に気付かされました。 >日本の文化的気質のベースを成すのは、中国・江南地方 にある最古(8~9000年前)の水田遺跡を核心部とする、 日本~中国・江南地方~雲南~ブータンの「ジャポニカ米 稲作農耕文化圏(=温帯モンスーン地域=常緑照葉樹林帯 =血液型A型地域)」である。 客観的に見た場合ですが 真に日本的なものとは、ここにあるような気がします。 質問の続編を立てますので、よろしくお願いします。 ご教授ありがとうございました。