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涅槃・・・宇宙への飛翔

涅槃とは 宇宙への飛翔 法界という宇宙的意識への飛翔 直観で そんなふうに思うのですが もし 証明が可能なら やっていただけますか?

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回答No.15

 ★(No.8お礼欄) ~~~~   >宇宙的意識  待っている とは思いませんか  孫悟空を待っている  大空位を歩遊して 身秘密を成ず  という  待っているものと 待っていることを知っているもの  との出会い  法界ここにあり、一心ここにあり  という  ~~~~~~~~~~~~  ☆ これにしたがえば おそらくこちらから出かけるのではなく ナゾの何ものかが向こうからおとづれる。それを俟つ。というところでしょう。    ▲ 〔親鸞:自然法爾(じねんほうに)章〕~~~~    自然といふは    《自》はおのづからといふ。行者のはからひにあらず。    《然》といふは しからしむといふことばなり。    しからしむといふは行者のはからひにあらず     如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。        * 爾(に・じ):しかり。そうである。   ▼ (道元:現成公案) ~~~~~~~~    自己を運びて万法を修証するを迷とす。    万法進みて自己を修証するは悟りなり。    ~~~~~~~~~~~~~~~~~  あるいは 誤訳ではないかと言われる観世音菩薩。  世音を観るのでしょう。  宇宙つまり世界が その音なら音として 小宇宙なるワタシに《写像》――この用語でよいかどうかは ねむりねこさん おしえてください――されて来る。自然法爾にて 向こうからおとづれる。  言いかえると 《待っている》のは ワタシのほうがではないでしょうか。  ただしこう考えても 世音を観ることが出来たかどうか 残念ながらわたしには心もとないかぎりです。  ということは やっぱしヒラメキ論に行き着くように思われます。

noname#189751
質問者

お礼

ありがとうございます >しからしむといふは行者のはからひにあらず     如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。 >自己を運びて万法を修証するを迷とす。    万法進みて自己を修証するは悟りなり。 うう~ん ゴジラが素直になっちゃった 素直すぎる・・ ごめんBさん 参考までに 観音とは 音を観る 観える音 ともいうようだ 解釈はいろいろで 知る働きと その対象は一つであるという 無分別智をいっているようだ 直観の知恵の働きを指す らしい >自然法爾にて 向こうからおとづれる。 これです あとは何も言うことはない 何も足さない 何も引かない というCMのようなやつ おとづれる ためには 何かが必要となってくる 全部預けてしまうという他力の意密 あるいは 全部捨てて座りきるという身密 なんでしょうかね・・ >自然法爾にて 向こうからおとづれる。 法界力のゆえになんでしょう そこで何が起きているのかは ヒラメキという カミナリなんでしょう きっと・・ すごいカミナリに違いない 電圧もかなり高いんじゃないかと思います。

noname#189751
質問者

補足

自らが飛ぶ という所作をしなければ 広い空は見えてこない 実践なしには 何も訪れはしない 訪れる という事は 実践という飛翔の結果 求めよ さらば与えられん 父のごとく 母のごとく 待っている 明るさへの飛翔

その他の回答 (15)

回答No.16

 ★(No.15お礼欄) ~~~~  全部預けてしまうという他力の意密  あるいは 全部捨てて座りきるという身密  なんでしょうかね・・  ~~~~~~~~~~~  ☆ これは 加持祈祷の空海でしょう?  親鸞は ハカラヒなきを他力という です。  義なきを義とする。これが 他力ないし自然法爾です。  つまり片や真言の立ち場もあるでしょうが ふたつをごっちゃにしては まづいですよ。  

noname#189751
質問者

お礼

ありがとう 人を分けて、教えを分けず そんなふうにも思うのですが 一応の区別は、確かに必要 >他力  義なき義 法然、親鸞のみが他力とは思えない 空海さんの教えを言い切った言葉 加とは如来の大悲をいう 持とは衆生の信心をいう 絶対他力がここにもあるんじゃないでしょうかね 大慈悲心が衆生に働きかける そのことを至心に信じる という 加持とは、ただの儀式やショーじゃない 護摩行とは炎のショーじゃない いずれにしても 大悲を信じる ということを言わぬ、説かぬ では空海さんの後継ぎではないと思います あ~あ・・ また ゴジラに捕まってしまった

noname#189751
質問者

補足

>自然法爾にて 向こうからおとづれる。 実践という飛翔の結果を示されたものなのでしょう つまり、涅槃という結果は、実践の結果であり 涅槃の証明とは、実践をおいて他にはない という事になるのでしょう 空海さんの話が出てきたところで、ピンときた人もいると思います 明星飛んで口に入る という 空海さんの若き日の悟りの記述です 宇宙的意識への飛翔であったかもしれない・・ そんなふうにも思います 結論からいうと 涅槃・・・宇宙への飛翔 という 浅い直観の証明は 《おとずれる》という より 深い直観をもたらす「実践」である と思います。 私は 涅槃というものを暗くは考えません それは感覚外知覚の到達点であり、一つの指標のようなものだと思っています 宇宙の心に触れる といった事のようにも思います 浅い信仰の中において、ふと そんな夢をみる・・ 怠け者の夢です・・ 今回は Bさんに二重丸です 《おとずれる》という言葉は いいです 信心の深みにおいて《おとずれる》 実践あるところにおいて《おとずれる》 おとずれた ものを ありがたく頂きましょう Bさん ありがとう 皆さん ありがとう。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.14

一般的・常識的には、「信教の自由」という問題と思いますけれど >「涅槃とは 宇宙への飛翔 法界という宇宙的意識への飛翔」 「宇宙を意識することが、現代(人)の涅槃だ」ということでしょうか 無理があるとは思いません。

noname#189751
質問者

お礼

ありがとうございます >「宇宙を意識することが、現代(人)の涅槃だ」ということでしょうか 無理があるとは思いません。 現代人の涅槃・・ 大変な言葉が出てきましたね 超宗教的な言葉みたいな感じです 宇宙時代における意識の変革みたいなものです でも これも確か アポロ飛行士が見た 青い地球はきれいだった かなりショックを受けたみたいですが 月面で 大きな石の傍らで撮った写真がありましたが この写真を見ていると なんとなく 神というものを考えてしまう 古代の岩磐、岩境というものなんかも浮かんでくる 神の造形というやつなんでしょうね ちっぽけな人間が 神の造形に触れる ということ 自然から宇宙へと変わっていっても 人間そのものは変わらない 超越的なものに対する直観の働きは変わらない 気がします 直観が超越を捉えるという 意識の飛翔は変わらない ということにしておきましょうか・・

  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.13

> 寒くなってくると (...中略...) > 静かな優しさが感じられます。 このほうがずっといいと思います。それは星空、constellation/air/atmoshere/starry sky。 宇宙universやcosmosじゃないでしょう。 「科学的知識としては」星空は宇宙で結構なのですが、 言葉へのアプローチとして、 知らないうちにありのままの手触りを迂回していること、無意識に構成的であること、 概念化したぶん知的背景をくぐった語を直観と見間違えてしまうこと、 こんな邪魔があなたの表現に見え隠れしたりして。 それでもまあ、あえて迂回的に、構成的に、俯瞰的に見通し作業をやってみるなら、 宇宙はむしろ偶然必然の出来事に満ち満ちた煩い場所で、あんまり 静寂の極点であるはずの涅槃に繋がらないようなイメージです。 ですから、あなたの心の風景の夜空のほうが、よほど無理がありません。 たぶん、一言で言えば、拡散であるように受け止めました。

noname#189751
質問者

お礼

ありがとうございました 素直な表現がいい・・と いうことで 坂本九ちゃん みたいな感じで 見上げてごらん と >拡散 一度 星くずが目の前で光って尽きていくのを見た事があります 距離にして約10mくらいだった さっと さらさらと 光って散っていきました 「はやぶさ」の最後よりきれいだった たぶん 二度と見ることのできない光景だったと思います ロシアに隕石が落ちた一週間くらい前にも、近くに大きな光がす-と落ちるのを見ました 翌朝、もしかしたら隕石が落ちているかもしれないと思って 近くの田んぼに行ってみました 田んぼの畦道や、田んぼの中を見て周りましたが、何もありませんでした(馬鹿みたいですが本当です) 祖父に聞かされた話では やはり、少し離れた田んぼに、明らかに隕石が落ちたことがあったそうです けっこう あるんですね そういう事が 星に願いを込めますか・・ 涅槃といわずに 小さな夢を・・

noname#180711
noname#180711
回答No.12

>まだ 法界そのものには到達していないような気がします。 意識のレペルが 超越的心理に少し触れただけではまだ という気がするのです 思い過ごしでしょうかね  いや、そうだと思いますよ。まあ、私は法界というものに、あまり関心がないんですね。そんなご大層なものではなく、身の丈にあった範囲で満足です。宇宙も子供のとき以来、思いを馳せるということもありません。飛翔というより、私は「卑小」ですねえ。  ともあれ、お元気そうでよかった。皮肉はそれを確認したかったからです。なかなか、あなたのように寛いだ形で話せる人はいないとおもいますよ。私も見習わねばならないなと思っていました。  法界についてはその他の方のご意見を見守ることにしましょう。では。

noname#189751
質問者

お礼

ありがとうございます え~と 余計な話をば 西村公朝さんという方が(仏師なんですが) 東大寺の不空絹索観音のことで語っていた事があります なんでも 不空絹索さんのお働きは、宇宙全体に及んでいる というのです 法界という宇宙の隅々にまで及んでいる らしいのです 確かに 普通の優しい観音様とは、ちょっとというか大分違います 怪物とも評されるくらいですが  凄味があるというのか その 堂々としたお姿から発する 祈りのパワーは圧倒的な感じがします でもま これも人が造ったものには違いない よく こんなものが出来上がったと思うのですが 祈り という 超越的な心をよく表していると思います 祈りの届かぬところは無い・・ という造形なんでしょう まあ この像を好きという人もいれば、嫌いだという人もいます 私も正直いって 大好き・・ではない(嫌いではないのだが) 鑑賞用の仏様ではない という事なんでしょうね 真に迫った表現は嫌われる・・んでしょう。

回答No.11

涅槃・nirvanaですか。nirvanaは、語源的に、よく分かっていないようですよね。一般的には、煩悩の炎を吹き消した状態、とかいうことになっていますけれども、 nir = without vana = cover nir+vana = without cover(覆い、覆うものがない) という説もあったりして(たとえば、宮崎宥洪著 真説般若心経 角川書店)。。。 この説が正しいとすれば、涅槃すれば、頭の上を覆うものがないのだから、人間は宇宙へ飛翔できたりして(笑い)。 冗談です、真に受けないでください。 この覆いは、煩悩障・所知障とかの意味ですので。 それはそれとして、 法界ですか。。。サンスクリットだと、dharma-dhatuですね。 これまた、難解な概念を引っ張り出しますね~。 dharma・法:教え(仏教)、規則、法則、存在、真理etc dhatu:場所(region)、種族、基体etc dharmaもdhatuは、どちらも、超~多義語で、それが組み合わさってできたdharma-dhatuというターム・術語は、super超~多義語なんですよ。ということで、dharma-dhatuが本当のところ、何を意味するのか、誰にも分からないんじゃないですかね。時に、存在(=法)の基体に近い意味に解釈されたり、真理の世界と解釈されたりもする。仏教の教えがやってくる世界ともかいしゃくされたりしている。 なのですが、法界=宇宙的意識という解釈は通常しませんね。 少なくとも、私はそのような解釈を見たことがありません。 なので、宇宙的意識or宇宙的神霊(?)とするのならば、これは、法界ではなく、密教でいう大我(maha-atman・マハトマ=brahman?)や法身仏とかになるんじゃないですかね。 宇宙意識ではなく、真理の世界というのならば、「法界」でもいいと思うんですけれども。 そもそも、質問者のいう《宇宙的意識》が何を意味しているのかも、私にはまったく意味不明ですし。。。 (意味が分からないのは、たぶん、私の頭が悪いためなんでしょう) また、《飛翔》という言葉も気になります。 ウパニシャッドなどでは、アートマンが天の世界(お月さんにあるとかいう不死の世界)に登っていく・上昇するみたいな言葉を使ったりもしているようですが、仏教には、そういう考えや用法はありませんから。 現代的な言葉であえて言えば、《没入》とかなるんじゃないですかね~。あるいは、《超越》とか《飛躍》とか。。。。 それはそれとして、 kazamidori365さんやbragelonneさんが指摘するとおり、 《梵我一如》や「それは(ブラフマン)は汝(アートマン)なり」とかでいいのではないでしょうか。 涅槃や法界という小難しい用語を出すまでもなく、これで事足りると思います。 かく言う私、《涅槃》や《法界》が何を意味しているのか、まったく分からないままに、その時々の気分で、どちらも用語も、いい加減な意味で使っております(笑い)。 余談なのですが、No4のお礼欄に、古代の蓮の種が時をこえて花をつけたとかいう話がでていますね~。 植物の種って、一種のクリプトビオシス(cryptbiosis)なんですよ。種は、保存期間中は、代謝をまったくしていないから、生物学的には、ある意味で死んでいるも同様なんです。少なくとも、「生きている」とは言うことができない。 《クリプトビオシス》に興味があるようでしたら、 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%97%E3%83%88%E3%83%93%E3%82%AA%E3%82%B7%E3%82%B9 をご覧になってください。 これまた、余計なお節介ですが、 蓮の花が泥池で綺麗な花をつける、という話は、 《自性清浄心》は欲望や煩悩などに汚されることなく、美しい花(=悟り)を開かせる、って意味ですわ。 あるいは、 煩悩という泥のなかで悟りは花開くとか、煩悩即菩提とか、この娑婆世界(=不浄の世界)こそが菩薩の修行・活動の場である、 という意味ですわ。

noname#189751
質問者

お礼

ありがとうございます >煩悩障・・ たぶん私もこれなんだと思います 煩悩が強すぎる だから 飛翔なんて考える 飛び立つ ということを考える 鳥が飛び立つときに すこし踏んばるのですが その姿は面白い感じがします 空を見上げて すこし体重を後ろに掛ける そして 思いきって 足で蹴るようにして飛び立つ とくに冬の寒い時 冷たい風に向かって 飛び立つ姿は なんか いつも心に残る感じがします 私は 自分の直観を大事にしすぎるのかもしれませんね いつも 心に響くものを求めてばかりいる 知識では救われない という癖がついてしまったんでしょうか・・

noname#195588
noname#195588
回答No.10

引用文に誤字を発見しました。 誤:人間はそられの電光の領域 正:人間はそれらの電光の領域 他にもあるかもしれませんが、とりあえず。

noname#189751
質問者

お礼

ありがとうございます。

noname#195588
noname#195588
回答No.9

ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッド 第6章 2・15 これを、このように知っている人々、および荒野において信仰を真理として瞑想する人々――彼らは炎に入り、炎の中から昼に、昼の中から満ちつつある半月に、満ちつつある半月の中から太陽が北に行く六箇月に、これらの暦月の中から神々の世界に、神々の世界の中から太陽に、太陽の中から電光の領域に入る。思考から成る人間はそられの電光の領域に行き彼らをブラフマンの諸世界に行かせる。これらのブラフマンの諸世界において、彼らは最も遥かな遠くにまで住む。彼らは帰ってこない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ウパニシャッドを読んでいる途中なのですが、 涅槃ではなく、解脱なら 宇宙というのもありえるかもしれません。 太陽の内部から別の世界に行くというのは まあ、せいぜいサイエンスフィクションでしかないでしょうが 人間は死んだら星になるというのなら、 まんざら荒唐無稽ではないのかもしれません。 しかしなあ、どうでもいいのかもしれませんが、 ウパニシャッドは結構、内容が差別的ですね。 明らかな迷信もあるし。まあ、そんな感想を持ちつつ。

回答No.8

 はすっぱなわたしの回答に色取りを添えていただきありがとうございます。  ところで 用語にかんする苦言です。  ★ ニルワーナ  ☆ は どうしてもけっきょくこの身の朽ちることにつながっていると考えます。    ただ単に《さとりの智慧を得ること》という用法もありましょうが それならあくまでこの世界(宇宙)に足をつけた世界観であり実践であると考えます。  ★ 法界  ☆ これは 世界のありのままのすがたといった意味でしょうし またはそうでなければ 法身と同じく 変わらざる真理のことを言っていましょう。  法身ないし真理は 諸法無我というかぎりで そのアートマン(我・霊我)を否定するのですからアートマンが宇宙の主宰神である真理であると想定されるところのブラフマンと同じであるからには 無我説において法身ないし真理は じつは明らかに否定されています。  ブラフマンとアートマンとの一致としての梵我一如なるすがたはけっきょく《真理ないし法身》が我れにやどると言っていますから その意味での《法界》を持ち出すのは 《無我・非我(アン-アートマン)》の立ち場とは矛盾しましょう。  ことほどさように ゴータマの曖昧理論は 罪がふかい。  ブッダター(仏性)は 説かなかったのですから。  そしてしかも ブッダターが 後世においておぎなわれたということは けっきょくのところ・とどのつまり この仏性は ブラフマニズムにおける霊我・真我なるアートマンとまったく同じであると帰結されます。  もし空観において 心やさしくなって ゴータマの諸法無我説を無理にでも活かそうと思えば 次のようになりましょう。   ○ ゴータマの無我説は 梵我一如に代えて 無無一如を言う。~~~     梵我一如      神の霊:ブラフマン(梵天)      我の非思考の庭:アートマン(霊我)     無無一如 (空観)      神の霊:無(ア‐ブラフマン:無い神)      我の非思考の庭:無(アン‐アートマン:非我)    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 無我説は 無神論としてのひとつの信仰形態に落ち着きましょう。  言いかえると 真理としての法界つまり法身は 《無い神》としてじつは立てられているという見方です。名もない神をしんじるという恰好です。(名もない神を受け容れたという領収証を切っていると見なされます)。  ですから 後世のいやしくもブディストを名乗る人びとは もっとかんたんにすればよいではないかと考え タターガタ・ガルバ(如来蔵)もしくはブッダター(仏性)を造語しその《非思考の庭》における信仰形態を あらためました。   ○ ブディスト大衆の知恵になる仏仏一如 ~~~~~    仏仏一如     神:アミターバ・ブッダ(阿弥陀仏) /       マハーワイロ―チャナ・タターガタ(大日如来)     我の非思考の庭:ブッダター(仏性・自性清浄心)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 神ないしその霊は――非経験の場またそのチカラなのですから―― 有限なる人間が否定しても肯定しても 同じことになるわけです。  有る神と無い神とは どちらも 全体としてひとつなる神のことです。  霊――つまり 雲をつかむようなナゾ――なのですから 朽ちざるを得ない身の人間がその言葉でどう捉えようと まったく神にしてみれば痛くも痒くもないとなります。  ★ 飛翔  ☆ は神のほうが 霊として その場を提供しているのかも分かりませんが せいぜい孫悟空の飛び回りをおこなうに過ぎないと思われます。  それよりは足を地につけて一歩一歩地道にあゆむよりほかに道はないと思われます。  そのとき しかも非思考の庭では ヒラメキが宇宙を飛び翔けているでしょう。  ★ 宇宙的意識  ☆ は われらがインスピレーションの動き回るにまかせているのが 正解だと考えます。

noname#189751
質問者

お礼

ゴジラの叫び 今回はかなり丁寧 ありがとう >宇宙的意識 待っている とは思いませんか 孫悟空を待っている 大空位を歩遊して 身秘密を成ず という 待っているものと 待っていることを知っているもの との出会い 法界ここにあり、一心ここにあり という まあ 一般的ではないようですが・・・

noname#180711
noname#180711
回答No.7

>ご心配をいただいたようです。まだ早い  それなら結構なことですね。やれやれ。これが最後みたいな台詞だとか、流れ星と自分を重ね合わせる台詞を見かけて、驚きましたけれど。いや、私はあくまで通りすがりの第三者なので、特に心配する義理はないのですが、何となく気になるではないですか。 ちょっとサービスしすぎましたか。  さて、ご質問。論証は簡単でしょう。宇宙的意識という新しい言葉を、仏教の法界に引きつけて定義すればよいだけです。すると涅槃=法界=宇宙的意識という等式が成立する。宇宙的意識というのは、誰にも正しいそれが分からないので、何と定義しても構わないでしょう。まあ、こういうインチキ証明もありますし、逆にそれ以外、証明のしようがない。  むしろ問題は涅槃=法界=宇宙的意識という等式を実感する例をあげることの方ですが、どうでしょうねえ。私は法界というものがよくわかりませんね。仏様に等しい平等の観点をもつということです。あたかもクモの糸を垂らしたお釈迦様のように。が、そういう立場にはまだ遠いですね。しかし、いくつか思い当たることがあります。  芸術作品を見ているとき、作者と作品を切り分けて鑑賞しなければならないと私は常々思っています。作者がいかに人格的に破綻していようと、作品が優れていれば、評価せざるを得ません。ムカつくやつだなあと思っても、作品がよければよし。こういう平等の観点が一つ。  あるいは大学生の頃、塾講師のバイトをしました。生徒に分け隔てなく接しようとするうちに、あたかも全員の親であるかのような錯覚に陥りました。ダメな生徒も、出来のいい生徒も分け隔てしない。こういう平等の観点がまた一つ。  ・・・私はね、こうやってみると法界は案外、どこにでもあると思うんですよ。お客さんに接するプロフェッショナルな意識。「いただきます」といって、食物に感謝して、好き嫌いせずに、いただく時。いくらでも身の回りにある。  法界が宇宙ということですが、何で宇宙に話を飛ばす必要があるのかなあ。ロマンチックではありますが、もう少し日常を見つめてみたらどうでしょうか。もし、天へ旅立つ心配の必要が当分ないというのなら、というわけですけれども。  皮肉が過ぎたでしょうか。

noname#189751
質問者

お礼

ありがとうございます。 >法界は案外、どこにでもあると思うんですよ。 そうですね その通り だと思います ただし >平等の観点 普遍性に満ちている というだけでは まだ 法界そのものには到達していない ような気がします 意識のレペルが 超越的心理に少し触れただけでは まだ という気がするのです 思い過ごしでしょうかね 皮肉は いくらでも結構です 大丈夫ですから

  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.6

宇宙って知っていますか。 テレビですか。 本ですか。 ラクダも針の穴を通る。 世界も折り畳まれてあなたの中に再度展開する。 世界は具体的に、重みを持って生まれ出る。 もうすこし、腑に落ちることがらをそのままの言葉で、 あなたのまわりの、めぐる空や季節や人や命を通して、 表そうとしてはどうですか。 かつて太陽系の神秘しか持たない時代に、 たった一間四方の沙羅双樹に囲まれて、シッダールタは涅槃に入ったのですから。

noname#189751
質問者

お礼

ありがとう 寒くなってくると オリオン座がよく見えてきます その一角は、大きな星々が沢山あって見事です 寒くなってくると それらの星々を見るのが楽しみです 星座はランダムな配置なようでいて 見ていると そうではなく思えてくるのが不思議です 星に心が通じるはずはない・・のですが そうではなく思えてくる 何かで繋がっている そんな感じです これからの季節は 北斗七星のおおきな柄杓や 白鳥座が目についてきます 天の川の向きに沿って、白鳥が飛んでいく 永遠の十字架かも・・といった感じがしないでもない 星を見るのはいいですよ 疲れがとれる 静かな優しさが感じられます。

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