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ヘーゲルと国際政治の思想
- 国際政治の思想を読み解くヘーゲルの完成度
- ヘーゲルの著作に見られる徹底した表現
- ヘーゲルの国家観と倫理的基準の関係
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質問者が選んだベストアンサー
> どんな倫理的基準も国家間の関係には適用できないのだというリアリストの見解は、マキャベリからスピノザ、ホッブズを経てヘーゲルへとたどることができるが、 ヘーゲルにおいてその最も完成度の高い、最も徹底した表現をみたのである。 これは『法の哲学』のこの箇所のことを指していると思われます。 ----- 「国家は私的人格ではなく、それ自身において完全に独立した総体である。かくてその関係は単に道徳的および私法的関係とは異なるものをなす。われわれは往々国家を以て私法的かつ道徳的なものとしようとしたが、私的人格にあってはその立場は、それ自身において法たるものを実在化する法廷を、自己の上に有するような立場である。 しかるに国際関係ももちろんそれ自身においては法的であるはずであるが、しかし実世界においてはそれ自身における存在もまた力を持たなければならない。ところで国家に対抗して、それ自身において法たるものを決定しかつこの決定を実現するような力は現存しないから、この法は国際関係に関してはつねに当為にとどまらざるをえない。国家間の関係は独立性相互の関係であり、この独立性は相互の間に協約を結ぶが、しかし同時にこの協約を超越して存在するものである。」(『法の哲学』高峯一愚訳 論創社) ---- 「国家」という単位で考えたとき、「国家」は「欲望の体系」である市民社会を包摂する、普遍性、一般性を体現するものとして措定されています。けれども国内にあっては至上であるとされる国家主権も、ほかの主権国家によって承認されることなくしては成立しえません。それゆえに国家間レベルで見るならば、国家は普遍性の担い手であるというよりも、互いに一個の特殊性の担い手として現れるのです。その意味で、複数の国家が競合する場は、まさにホッブスのいう「自然状態」にあるといえる。そこにおける国際法というのは一種の道徳的な「当為」としかいえない、という流れです。 ヘーゲルは国家間の関係を支配する「国際法」の存在を否定しているわけではありません。けれども、道徳的な規則には従わない人がいるように、それに従わない国家によって、国際法はしばしば無視されてきました。それはどうしてかというと、服従を強制させるような、いかなる公平な権威も存在しない、といっているのです。 ここには根底に国際連邦による永久平和を構想したカントに対する批判がこめられています。ヘーゲルはむしろ、いかなる超越的規範もなく、「自然状態」にある各民族や各国家がそれぞれに特殊利益を追求しようとする姿の向こうに、世界精神の歴史的な意図が貫徹されている、と考えるのです。 > 国家間の関係にも倫理的基準は適用できる、それも紳士的な基準が本来適用できるんじゃないのか?とも思ったのですが…? 「人倫」というのは、個人の内面の道徳とはちがい、つねに家族や市民社会や国家という具体的な人間関係のなかでの倫理を意味します。 家族は愛によって結ばれた共同体です。それに対して市民社会は、諸個人が自分の幸福を求め、自分の労働を通じて自分の欲求を実現させることを目的とする共同体です。 人は家族にあるときと、市民社会にあるときでは、生き方を変えないわけにはいかないし、役割も、心構えもちがってきます。このように考えていくと、倫理も孤立した個人のレベルで完結するものではなくなってしまう。「人倫」というのは、簡単にいうとそうした諸関係のなかでの倫理ということです。 確かに国家というのは、ヘーゲルにあっては個人の自立性と普遍性との合一が実現する「人倫の最高形態」です。けれども、先にも書いたように、国家がほかの国家と競合してある国際社会にあっては、質問者氏の言われる > 紳士的な基準 をいったい誰が強制しうるといえるのか。ただ力のみが支配する抗争の場が世界史という「世界法廷」ではないのか、というのが、ヘーゲルの考え方です。
お礼
なるほどなるほど、言葉はところどころ難しいですが、言わんとされているところはよく分かる気がしました。しかしヘーゲルを国際政治の舞台で翻訳するとリアリズムの筆頭になってしまうんですね…マキャベリと同じ系列ですか、ちょっとショックでした。やはりどうしてもリベラリズム的な考え方をする思想家の方が親しみが持てる気がするので…勉強になりました、ありがとうございました!