述語論理におけるコンパクト性 いくらでも大きい有限
述語論理のコンパクト性より
「論理式の集合△は、いくらでも大きな有限集合を議論領域とするモデルによって充足可能ならば、△は無限集合を議論領域とするモデルによって充足可能である」
というものが、出てきますが、
そもそも、このいくらでも大きい有限集合と無限集合とは異なるものなのでしょうか(同じ意味ならば上の定理は何もいってないことになりますよね)。無限集合の定義というのがZFCの無限公理からのものなら帰納的に定義されているものなので、それならいくらでも大きい有限(k→k+1をいえる)というのと同じなのではないですかね・・・。
また、上の証明では
Anを「すくなくともn個のものがある」 たとえばA2は「∃x1∃x2(x1≠x2)」などとして
△∪{A1,A2,A3,A4,A5・・・An・・・}
を考えるわけですが・・・の部分はこのままでは無限の論理式を含んだ形になっています、がこれも無限の論理式をそのまま考えることはできないので「無限個の論理式とはどういう意味か」に相当する(おそらくメタ的な)定義があると思うのですが、それはそういったものでしょうか。もしくはそういう定義がないとすると、どう考えればいいのでしょうか。
質問としては、集合のレベルでの無限といくらでも大きい有限とは異なるものなのかということと、論理式の数においてその数が無限とはどういうことを指しているのかということです。
コンパクト性などはモデルと論理式の両方にまたがるメタ的定理なので、その内容に現れる無限という言葉は(「集合における無限」、「論理式の数における無限」として)それぞれの体系での意味としてとらえる必要があるにも関わらず日常語の意味(限りがないというラフな使い方)にひっぱられていることが私の混乱の原因としてあると思うのですが、この分野に明るい方いらっしゃいましたらご回答ください。よろしくお願いします。
お礼
どの説も重ね合わせを認めているわけですね。それで、他世界同士影響し合ってるけど観測は出来ない。観測できないけど影響はしてる。不思議です。