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日本と西洋や中国との、城や城郭への収容について

城や城壁について教えて下さい・ 大雑把にいうと、日本の城や城郭には、戦闘員(武士)とその家族位が収容されますよね。 一方、西洋や中国に場合には、城や城壁の内部に、商人や職人などの、いわゆる国民をも含んでしる場合があるように思います。 この違いは、同一民族間同志の戦いか、あるいは異民族との戦いか、という差から発生するのですか?

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  • shirouuda
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回答No.5

すでに、書かれているように、 徳川氏による大阪城攻め(冬の陣・夏の陣) 豊臣氏による小田原城攻め、 他に羽柴秀吉時代の三木も領民抱えの城攻めでした。 どこの国でも、純軍事的な目的で立てられた「城」で戦う場合は、 そこに領民はおりませんし、 経済・政治の中心地の「城」なら、城下町が形成されて、乱世なら、都市民は自治的に城壁を築くでしょう。 日本の場合、 1,そもそも、都市国家から、後漢時代に貴族が従属民を率いて郊外に「村」を作った中国と、村と村を支配する領域国家もどきの中心地の城下町が戦国末期から発達していった日本では、歴史が逆なのです。 2,商業が小規模。日本は江戸時代まで国産の通貨はありませんでした。朝廷の貨幣は流通しませんでしたし、武士政権も江戸幕府で初めてまともに流通する貨幣が造られました。城下町が大きくなりにくいのです。 3,戦国時代末期までは、大名権力は小さく、ほとんどの城は、家臣や村が作りました。ものすごくたくさん(2万ぐらい?)あったのですが、当然、その一つ一つは小規模。城下町も無かったり、小さいものです。戦国も末期になって、やっと、大規模で集権的な大名が現れ、また、それに応じて城も城下町も大きなものになっていきました。 4,「守る」とは「巻き込む」と同じです。日本の戦国時代は、年々、より低い階層からの戦争参加が進みました。戦争が、「お侍さんが達が勝手にすること」から、「敵兵の略奪から村を守るために殿様の戦争に参加せざるを得ない」という形になっていったのです。つまり、戦国末期の武士達は、「巻き込む」ために「守った」のです。 ☆異民族皆殺し?モンゴル人は中国人を皆殺しになどしてません。異民族の戦いは降伏や吸収合併が難しく、残酷になりやすいのですが、皆殺しはレアケースやハッタリでしょう。遊牧民族が水田を奪っても利益はありませんからね。生かして徴税するのが普通です。 ☆後北条氏の善政伝説ですが、まるっきりのウソではなく、もっとも、文書行政の発達した戦国大名だったのは確かなようです。しかし、4公6民はウソ。なぜなら、○公△民は、江戸時代の税制の比喩表現ですから。江戸時代以降の人による創作だということです。

park123
質問者

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回答ありがとうございました。 <異民族皆殺し?> <生かして徴税するのが普通です。> ですか。 中国では <貴族が従属民を率いて郊外に「村」を作った> のですね。そのため城郭がつくられたのですね。 多方面からの視点による説明ですね。

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その他の回答 (18)

  • shirouuda
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回答No.9

日本人だから「裏切る」もおおざっぱすぎると思います。 昔の自民党のような組織 各議員は地方有力者が多く、自民党の公認が無くても選挙に当選する力を有する議員が多い。 自民党に属している理由は利益。だから、利無しとなると離党する。それでも議員であり得る。 共産党のような組織 共産党の公認無しでは議員になれない人が多い。裏切ることは議員を辞める事に等しい。 戦国大名の家臣は、昔の自民党議員みたいな存在です。ですから、利無しとなると、武田家や斉藤家の滅亡のように、大量裏切りが生じたりします。彼らは、自前の土地と兵を持ってますから。 しかし、太閤検地以降、豊臣政権に公認された者が大名、大名に公認された者が武士、と手続き上の存在になりました。共産党に近くなったのです。ですから、関ヶ原前後で大名に対する家臣の裏切りは少なかったのです。が、大名自身は、豊臣政権の断トツ筆頭権力者となった家康により「非公認」とされて瞬間滅亡されています。

park123
質問者

お礼

博識のある方同志の質疑を興味深く読んでいます。 例に挙げられた、現代の2政党の特質についても、面白かったです。

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  • shirouuda
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回答No.8

TANUHACHI氏> 読み間違っておられるようです。 特に、 「天守閣のあるような城」 に「城」を限定などしてません。それ故に、 自治的な「城壁」「どこの国でも」などという言葉を使用しています。 また、「環濠集落は城では無い」などとも考えていませんよ。 特に、「どこの国でも」という私の表現に留意していただければ幸いです。

park123
質問者

お礼

博識のある方同志の質疑を興味深く読んでいます。

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  • TANUHACHI
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回答No.7

 こんばんは夜分に失礼します。先日お話しした、領域の問題と関連しての追記です。 「都市形成」と権力構造の問題ですが、何やら戦国時代の英雄物語と勘違いされている方がいらっしゃるご様子ですので、先ずはこの点からお話ししていきます。 >どこの国でも、純軍事的な目的で立てられた「城」で戦う場合は、そこに領民はおりませんし、 経済・政治の中心地の「城」なら、城下町が形成されて、乱世なら、都市民は自治的に城壁を築くでしょう。 ハハッ、いささか乱暴な話ですね。中世後期の自由都市を象徴する「堺」や「今井町」等の事例を見るまでもなく、権力者がそこに自治を認めたのは人的結合の強さとそれに支えられた経済力があったからであり、武力的に云々などの理由ではありません。  そして何よりも「そうした自検断」を支えたのは村掟もしくは惣掟と呼ばれる「地下法(じげほう)」もしくは「在地法」と呼ばれる法規範を自らが構築し得たほどの組織があったからです。  「城」といっても全てが時代劇の舞台となるような城郭をイメージのものでもありません。櫓と呼ばれる楼門のような場所を入り口にしつらえただけのものもあります。今井町のそれは集落の周囲に土塁や濠を巡らせる「環濠集落」であり、街の内部には入り組んだ「筋違い道」がみられます。それは城の機能ではないかと件の回答者は仰るかもしれません。しかし待って下さい、この回答者の「城に対するイメージ」が「天守閣を持ったそれ」であるなら、今井町や堺の事例は「それとは全くかけ離れた存在」になります。そも権力を象徴する「城なる存在」を構築できるのは支配者ならではのはずですから、そうした地下に対する権力を行使し得ない者が城を構築することなどできない話になります。堺や今井町が「自治都市」でありえたのは「権力からの認可を受け、その範囲内での自由」との意味です。  そして「城に居住していたやから」は城の当主とその一族や今で言うメイドや執事です。家来衆は城の外に住居を構えますが、それとても本宅とは別の宿舎のような形です。本宅は在地にあります。在地にあるということは、ひとたび城を離れれば彼らも農地を耕作する人間とさして変わらないことを意味します。  こうした「兵農一体」が「兵農分離」の近世的な形に変化し始める顕著な事例が、例の「豊臣平和令」であり、その特質は「職業による身分階層の分離および固定による社会構成の再編成」に示されます。

park123
質問者

お礼

博識のある方同志の質疑を興味深く読んでいます。

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  • rabbit_cat
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回答No.6

確かに、異民族間でも皆殺しがレアケースなのは間違いないですね。 ただし、少なくとも、異民族相手の戦いのほうが、同民族相手の場合よりも、籠城側が味方の裏切りの心配がずっと低かったというのは事実でしょう。 なんというか、日本国内での戦いは、それこそ大和朝廷の時代からから戊辰戦争まで、後詰めが期待できない状態での籠城すると、たとえどんなに立派な城を作っておいても、ほぼ必ずといってよいほど内通者が出てしまって、まともに籠城できないんですよね。 とにかく、味方が戦略的に不利な状態で籠城する、ということが事実上不可能なんです。 本来、都市をまるごと囲む城塞っていうのは、まさに、味方が戦略的に不利な状態に追い込まれてしまった時に備えて作られるものなはずなんですが、日本では、ほとんどそういう役には立たないわけです。 日本にまともに城塞都市がなかったから、後詰めなしの籠城(本来の意味での籠城)では裏切ってもよい、という暗黙の了解が生まれたのか、逆に、先にそういう暗黙の了解が生まれてしまったために城塞都市が無意味になってしまったのか、というのはよく分かりませんが。

park123
質問者

お礼

再度の回答ありがとうございます。 <異民族相手の戦いのほうが、同民族相手の場合よりも、籠城側が味方の裏切りの心配がずっと低かった> ということですね。 日本では、内通者が出てしまい、立派な城でも役に立たない、ということですね。

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  • shirouuda
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回答No.4

実は、質問の前提が「よくある間違い。」です。 戦国時代を通じて、日本も「領民」を含んだ戦いをするようになっていってました。 これは、 城下町の形成や軍制の変化によるものなのですが。 また、後に詳しく書かしてください。出勤前なので。

park123
質問者

お礼

期待しています。

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  • TANUHACHI
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回答No.3

 簡単にいいますと、領域支配の及ぶ範囲を示した結果です。 この場合の「領域」とは都市空間であることと同時に、領民に対する領主の支配との意味です。  中国でも西洋でも「城壁」はウチとソトを隔てるための具体的な目印の機能を果たしています。つまり「城壁で囲まれた内側での経済活動を保証するがそのためには税を納めろ」との王による支配が貫徹します。  それが一歩でも「城壁から外側に出た」ならば、そこは領主の支配が及ばない世界ですから、身の安全の保証もされないことになります。  現在のドイツにも「~ブルグ」との地名が幾つかありますが、これも「~地方にある城壁に囲まれた都市」との意味が語源となっています。  これに対し「日本の城郭」は建築物としての城を示すものであり、そこに城下町の形で都市が形成される形で、西洋や中国のそれとは異質なものと考えても支障はありません。

park123
質問者

お礼

早急な回答ありがとうございました。 領域の違いなのですね。 城壁は <囲まれた内側での経済活動を保証する> ものであり、城郭は <建築物> である、のですね。

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  • rabbit_cat
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回答No.2

> この違いは、同一民族間同志の戦いか、あるいは異民族との戦いか、 生するのですか? 一番大きな理由は、日本では城壁を作ってまで守る価値がある経済力のある都市を支配下におくような大勢力が、同時代に並立して、対立するようなことが、ほとんどなかったので、猛烈に金をかけて巨大な城壁を作ろうというインセンティブが働くことがほとんどなかった、ということでしょう。要は、コストパフォーマンス(費用対効果)が悪すぎて、経済的に見あわなかった、ということです。 ただ、やっぱり、確かに、同一民族の戦いだから、というのは大きいのかもしれませんね。 たとえば、鎌倉幕府の鎌倉は、ほぼ完全な城塞都市と言ってよいのでは、と思うのですか、内通者が出たせいであっという間に落ちてしまいます。 また、豊臣の大阪城はまさに完全な城塞都市で、冬の陣では20万人に囲まれても全くびくともしていなかったにも関わられず軍事的にみれば不可解としか言いようがない休戦を豊臣方が受け入れた結果、自滅してます。 どちらも、やはり、同一民族どおしの戦いということで、ちょとでも不利になれば味方かどんどん寝返ってしまうわけで、せっかくの城塞都市がほぼ無意味になってしまいました。 これが、異民族相手なら寝返ってもどうせ皆殺しなんで、味方の寝返りの心配が少ないんで、城塞都市の力が全力発揮できるんですけどね。 ということで、同一民族どおしの戦いだと、寝返りが頻発するんで、莫大なコストをかけて城塞都市を作っても効果が期待できない、というのはあるような気がします。

park123
質問者

お礼

早急な回答ありがとうございました。 <同一民族どおしの戦いだと、寝返りが頻発する> 一方 <異民族相手なら寝返ってもどうせ皆殺し> という違いなのですね。

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回答No.1

北条氏康のように城下の民の事を考えているかそうでないかの違いです

park123
質問者

お礼

早急な回答ありがとうございました。 北条氏康のように民政に強い関心を持っている領主が、存在してるかどうか、の差ですね。

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