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仏教に詳しい方
カテ違いかも知れませんが、変なことお訊きします。 ”悔しさをバネにする”、という心理、 仏教的考えで説明するとどうなりますか? かじった程度の自分の知識で考えるに、 ”小我に陥っている”、とか ”憎しみを持ってはいけない、許すことが先” のような感じで、憎しみを別の方向に発散させることが 良いことのように思えないのですが…。
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- ruehas
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こんにちは。 仏教では、これは「煩悩」という罪に当ります。 仏教の理念はこの世の全ての生き物を生きる苦しみから解放し、「永遠の幸福」に導くことを目的としています。 我々生物はみな生きるために欲望を持っています。そして、悲しみや苦しみといいますのは、この欲求が阻止されたときに発生するものであるため、我々は生きている限りこの「生きる苦しみ」から解放されることはありません。そのため、仏教ではこれを「煩悩」とし、現世におけるありとあらゆる執着を断ち切ることによって永遠の幸福が得られるとしています。 ですから、お釈迦様の教えに従うならば、悔しさをバネにしてでも前に進むというのは執着を断ち切ることができないということであり、これでは何時まで経っても真の幸福を得ることはできない、ということになります。 また「許すことが先決」ということですが、このような煩悩の罪を犯しているひとは永遠に幸福になれないひとです。このため、お釈迦様はその罪を責めるのではなく、これを哀れみ、救うことが正道であるとし、これを「慈悲の念」と言います。
あなたの言ってることは正しいです。 ただし、現実的でない。 憎しみをもつなと言われてももっちゃうのが人間です。 それを責めることは被害に遭った人をさらに追いつめることになります。 正しさが人を苦しめるのです。 人を苦しめる正論。 正しいもクソもないでしょう。 憎しみをもっている人だって、 憎しみは良くないのはわかっています。 だから、葛藤して悩むのです。 そういう人の心を軽くするために、 悔しさをバネにとか。 憎しみをエネルギーに っていうんじゃないですか。 仏教的に言うと、労苦を力に、かなぁ。
お礼
そうそう、そうなんですよね。 たとえ憎しみを一時的に消せたと思っても、 実際にはどこかで”ゆがみ”として現れる。 と思うんですよ…。 お釈迦様は、 『憎しみを、そのまま表現するのはいけないよ』 と言っているだけで、その表現方法については、 各個人にゆだねられている。ということなのですかね…。 そのひとつに『悔しさをバネに』がある、のかなあ。。 いろいろ考えさせて頂きました、回答ありがとうございました。
- kanto-i
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心理学でいう「昇華」にあたるでしょうから、仏教でも昇華でいいように思います。 日本が漢字を採用しているので、同じ意味を使ったと思います。 ある意味分かりやすいですが。
お礼
”昇華”ですか…やはり仏教でもそういった考えはあるのですね。 よかったです。 回答ありがとうございました。
- 23567
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悔しさと憎しみは感情が根本的に違います。 精一杯やっても認めてもらえない=どうしたら認められるか? 向上心があり色々と試して認められる事もあります。 向上心が無かったら同じ事しか出来ずに認められないのでは?
お礼
悔しさ、憎しみ、そうですね。。 向上心ですか…そういえば最近足りないかも知れません…。 回答ありがとうございました。
お礼
詳しくありがとうございます。 >お釈迦様の教えに従うならば、悔しさをバネにしてでも前に進むというのは 執着を断ち切ることができないということであり、これでは何時まで経っても 真の幸福を得ることはできない、ということになります。 私も仏教的には何時まで経っても幸せになれない、 永遠に哀れまれるべき存在の一人であり、 それを救って下さるのがお釈迦様、ということなのですね。 これからも考えていきたいと思います、 回答ありがとうございました。