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なぜ世界は存在するのでしょうか
私は小さいころから世界が存在すること自体が不可解かつ恐ろしくて仕方ありません。「神が作った」といえばそれまでです。しかし、そうなるとその神の「存在」そのものがなぜ存在するかを説明できません。 仏教では無記と言って、問うことが妥当ではない疑問、回答不可能な問題としているようです。けれども、そう言われたからと言って、この疑問が私の頭から止むわけではありません。 なぜ世界は存在するのでしょうか。この問いが寝入り際など、心が隙を見せる時に突然蘇り、私を先の見えない不安へと駆り立てるのです。(どうもこのような心理状態を離人症というようです。) 世界の存在の理由について皆さんのお考えや、哲学者、宗教者の考えをお聞かせください。よろしくお願いします。
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私は長年哲学的問いに苦しんで来ました。 この問いは存在論でしょうか。 我々がなぜ存在するのか?地球は?宇宙は?なぜ存在するのか? さらにそれらを認識する「私」はなぜ存在するのか?究極の問いです。 私はこの問いに対しては、適当に神の世界創世ということにしています。 結局、哲学的思索では混乱するだけだったので神任せです。申し訳ない。 それと、世界が存在しなければ「私」も存在しない。 だが、「私」が存在するから世界を認識できるとも言えます。 そうなると、なぜ世界を認識できる「私」が存在するのかという疑問も 浮かび上がって来ます。 デカルト的にいうなら、疑問を投げかけることができる「我」 だけが唯一確かな存在というでしょう。物理学的な答えはビックバンやフラストレーション等でお馴染みの解答ですが、 質問者さんは、なぜ世界は存在するかに「意味」を求めている可能性が あるとお見受けします。愚見ながら。 世界存在の意味=「私」つまり自分の存在の意味なのです。 これは非常に難しいことであり、 「私」が「私」になる、ということなのです。 宗教的に自らと私の一体化などと言うつもりはありません。 あなたが本当にその世界に本気に取り組みたいなら 哲学や宗教学、物理学や天文学、宇宙論に興味があるでしょう。 しかし、それに耐え得ないならば、「小さなこと」に目を向けるのも手です。 動物でも人間でも植物などなどでも、何らかを極めることに向いているかも知れません。科学の示す世界はそれらの延長線上にあると私は思います。 哲学ならば世界認識の方法や原理を、宗教ならば神や仏の宗教的世界観を 知ること。他の科学ならば、「存在」の「意味」や「価値」や「原理」や 「構造」を探ること。なんでもあります。 学問は、「宗教」から「哲学」へ。 「哲学」から「科学」へ。 「科学」から「自然科学」へ、その後、様々な「学」へとつながります。 すべて「なぜ?」という問いに発せられるものです。 「なぜ?」という疑問を失わなければ、さまざまな学問と触れあえますし、存在の意味と無意味まで知り得ることができましょう。
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神とは自然界多様性の中で絶滅せず生き残ろうとする種の意思と言ってもいいかもしれない。
どの宗教をもけなしたいわけではなく 宗教自体何のためにあるかといえば人を救うためであるはずで 人の心が自然を反映するものであると理解できるなら 宗教は自然との共生を志向すべきだ。 それも愛とか慈悲とかではなく 生物の多様性による他の生物によって人類の生も支えられているということに目覚めなければならない。 今ある人類が生き残っていくために。 量子論や散逸構造を研究するのもいいが全て人が生きていればこそのことで その生は他の生物によって支えられており 自然との共生関係があって初めてやっていられる学問なのです。 今の地球環境や人類の置かれた状況を考察すれば単なる専門バカでないなら 次に見る山は 地球上全体に自然と共生し生きる基本である衣食住の安定した国家群を形成することを志向すべきだと気が付かなければならないのではないか ? 今まさに人類はその山の麓に辿り着き人類が目指すべきものが見えている時であるといえます。 金融危機の経済活動の停滞による新たな社会形態の模索も 最後のチャンスとして神の見えざる手が一点に集約されて働いているとさえ言えるぐらいに。
- imogami
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量子力学の観点から言えば、逆説的ですが、あなたが世界の存在を観測したからです。 つまり世界に存在意義はありません。
イブはアダムのあばら骨で創られた。 それでアダムは自分のあばら骨を探し求めて一つになろうとする。
アダムとは心 自然を映し調和し 共生する ということになる。
No23で 多神教の世界観では全てのものには神が宿っているとし人格神的性格は持たず主観は個々人において違うと捉え。。。 は 人格神的性格の前に統一的という言葉を入れて読んでください。
ユダヤ教の神とは自然を擬人的に扱ったということなんではないでしょうかね?
- ufoooo
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ようは「なぜ神はいるのか」ということではないでしょうか。つまり人間はなぜ生まれたのかがわからなくて不安なんだと思います。やはり神はいるんじゃないでしょうか。結局、自分が納得されることが大事だと思います。どのみち、神がいるのか、いないのか、でしょうね。目に見えない形而上的なことはまさに無記なので、そのとおりです。結論はあなたのいうとおりです。答えは無記です。
こういう問題は、脳で思考しても答えは出ません。脳は宇宙では異分子、異端者で不完全な存在です。肉体労働などしてて、意識が手足に集中して、頭が休んでいる時に、心にひらめいたのが答えです。
世界が人格を持っているという表現は唯一神教的で、ユダヤ教では人間はバベルの塔を建てている段階で神に離反したとされ、その時から世界中の人間は違う言葉を話し始めたとされていますが、それはそれまで統一されていた人格が神から切り離され分裂したと解釈するほうが意味としては妥当性があるように思われます。 住み分けによって統合されたままの側か分裂させられた側かのどちらの世界に居るかで世界観や宇宙観は異なってくるという解釈ができることになります。 どちらの側に住んでいてもその中に生きていれば不安というのはあまりないのかも知れないけれども、交錯し混在した中にあれば、それぞれ他者性を感じる部分はあるものなのだと思います。 一神教の世界感では主観は統一されており、個々に想起される主観はそれぞれ同一の神の想念の表れとみなされ主観はそのまま客観としても扱われることになるでしょう。 多神教の世界観では全てのものには神が宿っているとし人格神的性格は持たず主観は個々人において違うと捉え、声無き声を聴くといった態度によりその解釈を他の生物種にまで拡大し自然との共存関係を構築しようとする。客観とは主観同士間のすり合わせにおいて共有できる部分を客観として扱う。 一般に多神を受け入れる日本人は他者と共有できる部分と他者性を混在させながら、すなはち主観と客観を混在させながら人と接することをしますが、 一神教では主観がそのまま客観と捉えるから会話において一神教の世界観と異なると他者性としての多神教的主観を洗脳的するような扱われ方に違和感を感ずるということはあるかも知れない。 一神教に対して排他的になるというよりその宗教的考えをもって布教的精神で他者の主観領域に強引に入り込んでくる感覚があれば敬遠したくはなるところはあります。 排他的傾向は唯一神系のほうがその宗教の性格上強固といえるでしょう。 今や地球環境を考えればかつて旧約聖書の時代にバベルの塔を作っている人間を見て神が恐れたことが今まさに現代において起こっていると解釈もできます。 一神教の影響を大きく受けている今の世は漠然とでも不安を感じるほうが実は神とつながった正常人と言えるのかもしれない。