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江戸時代の広域捜査
他藩・他領へ逃げ込んだ犯人を捜索したり捕縛したりするにはどのようにしたのですか。 他藩と言っても、加賀前田家から富山藩や大聖寺藩が分かれてできましたが、このような藩では、相互に連絡を取り合ったのでしょうか。 なお、関八州取締出役は除きます。 集英社新書『伊予小松藩会所日記』には、「目明しは隣藩とも協力できる体制をとっていた」とされています。 よろしくお願いします。
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ご存じかも知れませんが、陸奥守山藩という陣屋の 2万石の小藩がありました。 この陣屋日記「御用留帳」が残っており、ご質問に 答えられるような記録も載っています。 宿屋、小農を営むやくざの顔役の金十郎が盗人探索 の実績から藩の正式の目明し任命され、その働きです。 当時犯人の他領逃亡はしきりに発生したそうですが 犯人が隣領内に逃げ込んだ場合の両大名家の折衝の 決まりはなかった。 各藩独自のしきたりがあるので面倒な、正式交渉を避け 目明しが隣領の目明しに顔がきくのを利用して犯人の 探索、捕縛、引き取りを行うということである。 その一例 金十郎は守山藩の百姓が隣の三春藩の祭り見物に 行き、そこで殺された事件で犯人を逮捕し、守山藩に 連行するという難処理を遂行て褒められています。 目明しは任命されているが、正式の役人ではなく庶民で あり他藩に入るのは自由です。 勿論内密処理といっても三春藩は面倒を避け黙認です。 以上は殺人、盗人などでも小犯罪で、大犯罪となると そうはいきません。 幕府の大目付に届け、全国の大名などに手配して貰う おおごとになります。 中公新書 阿部善雄著 「目明し金十郎の生涯」より
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- mekuriya
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そもそも通行手形を持っていないと関所を越えることはできません。もし通行手形を持っていないと職業、出身地、旅の目的、目的地などと吟味されることになります。手配された人相書きに似ていると照会が手配元に行きます。逃げこむといっても容易なことではありません。
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ご回答ありがとうございます。 通行手形や関所での取り調べなどは、表向きは教科書どおりでしょうが、いくらでも抜け道があったようです。 そこで、逃げ込んだ場合はどのような対応になるのか,という疑問です。
- AragoDiophanes
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まず敵討ちの場合はいわずもがな、被害者の親族が自身で捜査します。 どれだけ自藩ならびに他藩が協力するかは個々の事情によります。 通常、自分の藩や他藩でも縁組などによってそれなりの縁がある場合が多いので、彼らが手助けをすることになります。 次に武家における刑事犯ですが、これは「置き捨て」か討手がかかるかはケースバイケースです。 特に藩の面目を著しく潰すような状況の場合、それなりの腕と数を揃えて追う場合が多いです。 武家ではなく百姓町人の場合も同様ですが、これは逃げた本人の代わりに親族、同村の人間や監督者(村の主だった人物や庄屋など)を罰して見せしめとする場合もあったようです。 そもそもが現代とは比較にならないほど相互の監視が強い社会なので、藩領を越えて逃げ切る前につかまる、もしくは野垂れ死ぬケースが多かったようですね。 いずれの場合も、隣藩や主筋・分家筋の藩とは密かに連携を取り合う場合が多かったようです。 密かに、というのは幕府に知られた場合、今度は藩と藩主の監督不行き届きを責められる可能性があったからです。 そのためどの藩も自分の本家筋の藩、藩主の実家(他家から養子を迎えている藩も多くありました)や 幕閣の親しい老中といったコネを普段から作っておき、いざというときに備えたのです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 敵討ちの場合がありましたね。 この対応は、よく解ります。 西国観音霊場詣りや四国巡礼などに紛れ込むと、なかなか見つからなかったようです。 >いずれの場合も、隣藩や主筋・分家筋の藩とは密かに連携を取り合う場合が多かったようです。 >密かに、というのは幕府に知られた場合、今度は藩と藩主の監督不行き届きを責められる可能性があったからです。 参考になりました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 中公新書『目明し金十郎の生涯』が出ていることは知りませんでしたので、大変参考になりました。 裏組織の犯罪は、現代でも警察が「その筋」とのつながりから情報を得るケースが多いですが、昔とちっとも変っていませんね。