• 締切済み

「~のところもありました」の意味

先日、私の子供が学校から、動物園に行ったときの作文を持ち帰りました。その中の一文で、子供の書いた文書で、 「くちばしが、あかやあおのところもありました」 が、先生により、 「くちばしが、あかやあおのフラミンゴもいました」 に変更されていました。子供に確認したところ、黒ベースのくちばしに部分的に赤や青の部分もあったことを書きたかったらしいのです。 しかし、担任により修正されたので、妻が学校に確認したところ、学校の先生が言うには、先の子供の文書も訂正後の文書も同じ内容だと言うのです。 私の考えでは、 前者は子供の言っていたように、「黒ベースで部分的に赤や青があった。」。 後者は、「くちばし全部が赤色や青色のフラミンゴがいた」 ということになり、文章から受け取る情景として、まったく異なると思うのですが・・・ 同じ学校のほかの先生に確認しても、2つの文章は同じことだといいます。 はて? 同じ文章だと証明できるでしょうか? それとも、私の理解が間違っているのでしょうか?

みんなの回答

  • CC_T
  • ベストアンサー率47% (1038/2202)
回答No.10

No.4文中訂正  ×句点  〇読点 句読点と書いてから1字消した際、消し間違えてますね(--; スミマセン それはそれとして。 No.1~3のお礼の中で気になり、後ほど本Q&Aを参考される方も居られるかと老婆心から記しておきます。 > やっぱ、公立小学校の先生はダメなのでしょうか? まさかそんな「全体のごく一部を切り取って他人を否定する」ようなことを子供の前でしてはいませんよね。それはなんら益がない行動で、特に子どもの前で先生をばっさり否定するって事は子どもが先生を侮る事に繋るので、学習上好ましい結果を生みえない愚行です。最前ご承知の事とは思いますが、念のため。 ~~~ 以下、「国語」カテではなく「子育て」カテ寄りの内容ですが。 そもそも私は、この程度の事はわざわざ先生に確認とるほどのこととは思いません。私は他の回答者の方々とは違って2つの文章に相通じる部分を感じているからってのはあるでしょうが、今回のように先生の訂正が不適切と感じたならば、文章表現が子供の心に沿った更に適切なものになるよう、子どもと一緒に考えてあげれば、それでいいではないかという気持ちでいます。子どもが自分の考えを自分の言葉にできるように導いてあげるって事は、最も身近にいて子どもの心に寄り添うことができる親にこそ負うところが大きいものでしょう。 子どもが考えた結果を持って「先生、こう直してみたよ」って自分の意見を先生に伝えに行くのはとても良いこと。でもなぜそれを親が代行しちゃったかなぁ・・・って、過保護・過干渉を感じました。親の満足の為に子どもの経験の機会を奪ってしまってはもったいないですね。これでは例えばもし次が有ったとしても、子どもが自分で考えを整理して積極的に先生と意見交換しにいこうと自ら行動を起こすようになるとは思えないのです。 子どもは自分の気持ちを表現するすべを学び、先生は子供の考え方を理解して子どもの気持ちにより近づくことができ、親は子どもとのコミュニケーションの充実と子供の成長、更に教育環境の向上といった結果を得る。今回の件でも、アナタや奥様の動き方によってはそんな「3者WIN」の関係に持って行けたのではないでしょうか。 もちろんこれは先生と生徒の間柄に限った事ではなく、交友関係を初めとする社会的全般における人間関係にも通じる話ですよね。 全ての先生に全く正しい事を全て教えてもらい、それを脇から見てだけなんて都合のいい子育てが出来る道理がないのはごC承知の通り。教師も学校も子育てにおいては一つのツールに過ぎず、親もまた学校活動や先生方から学ぶ点は大いにあるものですから。

  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.9

 こんばんは。文章1「くちばしが、あかやあおのところもありました」と文章2「くちばしが、あかやあおのフラミンゴもいました」  この二つの文章は適切な言い換えになっているとはいえません。文意を明らかに意図的に改竄している形です。  (1)の文意は「一羽のフラミンゴの嘴には赤いところもあれば青いところもあった」として、お子さんの目に留まった印象が強い部分を描写していると解釈できます。 これに対し(2)の文章は「複数のフラミンゴがいた」との事象を文章の主題にしています。  文法的に考えるのであれば、「が」の機能が幾つあり、それぞれに異なることを理解していない可能性があります。  (1)のケースは「現象文をつくる『が』」と説明される機能であり、フラミンゴがいたとの事実を踏まえ、そのフラミンゴの様子を描写する働きをしています。つぶさな観察の結果を反映しています。  これに対し(2)はフラミンゴがいた、ここまでは(1)と同じですが、それが群れなしていたことは記されてもいないことから「赤いくちばしのフラミンゴ」と「青いくちばしのフラミンゴ」が「その群れの中にいた」との説明は成り立たないことになります。  件の先生方の考え方としては、何はともあれ「フラミンゴがいた」との事実さえ書けていればよいとの指導マニュアルに沿った形での答えに終始していたのでしょうね。そのように書かせねばならない、などの乱暴な国語教育は文科省の指導要領にも流石に書かれてはいません。  小学校一年のお子さんの作文としては、「くちばしが、あかやあおのところもありました」の前に、動物園に行ったこと、そこには様々な動物がいて、僕が一番興味を感じたのはフラミンゴだったことが綴られていることも容易に推測できます。その上で書いたのであれば、一つの文章で全部を説明しようとして、余計にわけの分からない文章を書くよりは遙かに高い文章構成力をお持ちと考えられます。  もしその先生方に改めて質問するならば、「が」の違いを具体的に説明して欲しいとお求めになることをお薦めします。曖昧な答えをするようでしたら、先生方も過ちに気付いている可能性もあり、教師の権威などとくだらないことに拘っているだけの弁明でしかないと感じたら、「常識ある大人」である質問者様は十分におわかりのことと存じます。

  • Postizos
  • ベストアンサー率52% (1786/3423)
回答No.8

自分で正しい答えを教えればよろしいのだと思います。(まじめな意見です) 先生が間違う事はよくあります。というか間違う物だと憶える事も学校という場所で得られる事だと思います。 私の小学校経験で最も好いと思っている教師は、「先生は嘘を言うから気をつけろ」とよく言っていましたが、それによって逆説という概念もおぼえる事ができました。 それからすれば、今の担任の方はまああまり良い先生じゃないのかもしれませんが。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.7

「くちばしが、あかやあおのところもありました」 #5さんがご指摘になっているように、原文のままだと一羽のフラミンゴの描写であると解釈されてしまうため「ところ」を「フラミンゴ」に変更したのでしょう。 しかし、 「くちばしが、あかやあおのフラミンゴもいました」ですと、一番肝心な原文の意図が無視されてしまっており、一種の手抜き添削になると思います。 「黒い部分があったとしても、あかやあおが一定程度混ざっており、その色が目立っていたわけだから、あかいくちばしのフラミンゴ、あおいくちばしのフラミンゴ、という認識が可能なはずだ」 と先生は言いたいのでしょう。 「2つの文章は同じことだ」と言う根拠は、おそらくそういったことだろうと思われます。 ただ、質問者さんのおっしゃるとおりで、先生たるもの、生徒作文の原文の意図を無視してどうするのか、ということですよね。 子供さんとしては、「くちばしは単一色じゃないんだ!」ということを発見したことが大事だったはずです。 もっとも肝心なそこを無視して、 「あかいくちばしのフラミンゴ、あおいくちばしのフラミンゴ、という認識が可能であるから添削は間違っていない」 と強弁するのは、教育者の資質に欠けている先生である、と言わざるを得ません。 他の先生に確認したとのことですが、資質に欠ける先生同士でかばい合っているだけでしょう。 因みに、正しく添削するとすれば、 「くちばしの一部が、あかやあおのフラミンゴもいました」 のようになると思います。   

  • cxe28284
  • ベストアンサー率21% (932/4336)
回答No.6

もう回答者の方々が十分答えていらっしゃいますが、私もこの先生には腹が立ちました。 しかもほかの先生も一緒になって同じような、言い訳するのは、許せない。 お子さんは、くちばしにはあかやあおのところがあった。という意味が伝わってきます。 先生の言っていることは、青い色のくちばしのフラミンゴと赤い色のくちばしのフラミンゴがいた。 と受け取れます。質問者様の疑問はご最もです。

  • sayuliy
  • ベストアンサー率16% (207/1282)
回答No.5

こんにちは。 「くちばしが、あかやあおのところもありました」これを質問文にあるように解釈するにはこの前にフラミンゴについての説明だと分かる文が必要です。 また、この文章だと1羽のフラミンゴのくちばしに赤や青の部分があったと解釈されます。 その場合でも「くちばしには、あかやあおのところもありました」とするべきでしょうね。 しかし小学1年(質問文にはありませんが)ということですので、そういう話ではなく 先生の立場上、分かりやすく1文中に「フラミンゴ」「くちばし」「あかやあお」を入れて且つできるだけ短くしたかったのでしょうね。 この先は「教育問題」のカテゴリーなので「国語」カテではこのへんにしておきます。 参考にしてください。

  • CC_T
  • ベストアンサー率47% (1038/2202)
回答No.4

1)「くちばしが、あかやあおのところもありました」 2)「くちばしが、あかやあおのフラミンゴもいました」 先生が原文の何に引っかかりを感じて文章を訂正されたのか分かりませんが、私なら「くちばしが、赤や青の所もありました」と、『が』で接続しているのが相応しくないと感じます。原文を尊重するなら「(フラミンゴの)くちばしには、赤や青の所がありました」とでも訂正するところですね。 ~~~ 原文と先生の訂正文では文意が同一とは言えないが、同等と言えなくもないというのが私の結論でした。 文章2の句点の位置もやや疑問ですし、結局どちらの文章も「もう一つ」ってところで混乱しますね。 単文で比較すれば指摘の通りニュアンスが異なる印象も受けますが、文章1にはない「フラミンゴ」が文章2に表れているなど、恐らく前後の文章のつながりも関係しての訂正ではないかとも思います。 また、文章2=「くちばし全部が赤色や青色のフラミンゴがいた」と限ったものではなく、赤と青が混じったくちばしも許容されますし、基本色が赤や青であるという意味にも読めます。 更に「赤色や青色のくちばしのフラミンゴがいました」という文章にしても、くちばしには黒色が入っているからオカシイって指摘受ける事はまずないでしょうし、そういったフラミンゴを見た事がある人の間の暗黙の了解といったものも働いているかも知れません。 フラミンゴのくちばしについては「先端から中間にかけてが暗色で、中間から基部にかけてが他の色」というパターンが殆どです。その「常識・通例」に従ってこの文章を見たならば「2文は同じ内容である」という判断ができるでしょう。 適切な例えが思いつきませんが、  「内容が、可笑しかったり悲しかったりする所もありました。」 と  「内容が、可笑しかったり悲しかったりする絵本がありました」 という幼稚な2文で、どれほど意味が異なるでしょうか? それにしても、先生も短時間で数十人分の幼い文章を読んで添削するのですから、しきい値をどういったレベルに保つか、判断迷うのでしょうねぇ(^^;

noname#194996
noname#194996
回答No.3

>くちばしが、あかやあおのところもありました >くちばしが、あかやあおのフラミンゴもいました >学校の先生が言うには、先の子供の文書も訂正後の文書も同じ内容だと言うのです おなじではありません。 同じ状況を描写した文ではありません 少なくとも、同じ文章ではありません。 国語の授業ではなくて、何か別の言い換えの訓練だったのかもしれませんが、それにしてもそういった説明が必要だと思います。まったく理解に苦しみますね。 >同じ学校のほかの先生に確認しても、2つの文章は同じことだといいます ほぼ同じことを言っているのかもしれませんが、それが問題ではなくて、なぜわざわざ書きかえる必要があったのかというところが最大の疑問です。 彼らが狂っているのでなければ、結託して黒をしろといいくるめようとしているのでしょう。 お怒りは理解できますが、その教員達はもうだめです。 あきらめましょう。 日本の教員にもいろいろいるということで。

xxultrasevenxx
質問者

お礼

最後の部分、同感です。 ん・・・・これが日本の教育現場の実態なのでしょうか? というより、彼らの能力として社会人のレベルとして問題とも考えたりします。 でも、地域の公立小学校なので、いかんともしがたく・・・・ やっぱ、公立小学校の先生はダメなのでしょうか?

回答No.2

>黒ベースのくちばしに部分的に赤や青の部分もあったことを書きたかったらしいのです。 この文章から普通にイメージされることは、全体が黒色で、その中に、「まだら」に赤色・青色が点在しているということになります。 しかし、実際は、たいていのフラミンゴというのは、くちばし先が黒色でして、くちばしの元側がピンクに近い赤色と言うことなのではないでしょうかね。で、全体に占める割合としては、黒色部分(くちばし先)の方がかなり低いということ。 ですので、 >くちばしが、あかやあおのところもありました。 は、「たいていのフラミンゴのくちばしさきはくろですが、とおくからぜんたいてきにみると、あかだったり、あおだったりしていました。」となりましょうかね。 そうしますと、先生による修正(変更)が正しかろうということになります。

xxultrasevenxx
質問者

補足

他の先生で同様に、 「あかやあおに見えて・・・」 と言っておられる方もおられました。 がしかし、ここではくちばしの色が、赤とか青とか言っているのではなく、子供の文書表現が理解できずに、2つの文章が同一であると判断されている先生がおられるということが問題なのです。 どうも、そのときの先生と同じ問題の捉え方をされているようです。

回答No.1

質問者さんの理解で間違っていないと思います。 お子さんの書いた文章は確かに言葉が足りないというか分かりにくいとは思いますが、先生が直した文章は別の情景になってしまいます。 先生は国語があまり得意ではないのかもしれませんね。 もし書き直せるのなら、「黒いくちばしに、赤や青のところもありました。」としてみたらいかがでしょうか? 先生の修正はスルーして。 どこかで発表したり掲示したりするのでしょうか?  先生に分かってもらえないのはモヤッとするかもしれませんが、あまり言ってもお互い気分が悪くなるかもしれませんので、とりあえず自分だけは納得する形にしてみては。 お子さんは細かいところもよく見ていて、素晴らしいですね。

xxultrasevenxx
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 ことばが足りないのは、小学1年の作文なのであるとは思います。 文書の違いが理解できない先生の国語の授業を受けさせてよいのか疑問に思えました。 学校の先生って、会社員と比べて国語力が無くても生きていける環境なのかなとも思っています。

関連するQ&A