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治承三年の政変
盛子の摂関領没収、重盛の知行国没収で治承三年の政変が起きたわけですが、後白河院はなんら軍事的背景をもたずにこれらの行為を行ったのでしょうか? あまりに無謀に思えるのですが何らかの見込みがあったのでしょうか?
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知行の没収は、当時の慌ただしい政権交代劇にあって、一つのきっかけではあっても、問題の根っこではないんじゃないですか? その様に考えれば、後白河院は清盛の武力を当てにしていたのでしょうし、その清盛と弓を交えれば「治承三年の政変」という結果は当然じゃないのかなと… 話を整理しましょう。 まず前提として、院と平氏の対立軸に気を取られてはいけませんよね。平治の乱も含めて、平氏は正盛以降、院近臣として頭角を現します。そしてその関係は後白河院と清盛の間でも例外ではなかったんですね。『成頼卿記』をはじめ、当時にあっての清盛の院近臣としての活躍を見れば、もともと客観的に見れば、そうそう悪い関係ではなかったんですね。 ではなぜ袂を別つ状況になるのか?について、様々にいわれますが、一つの意見として人物評価で申し訳ございませんが、近年では後白河院は暗愚だったとされていますよね。清盛にしてみたら「コイツ(後白河院)では政権はもたんだろう…」という心配はあったのでしょう。 そんな裏側もありながら、後白河院と清盛の蜜月は高倉天皇の生母である滋子(清盛の妻・時子の妹)の仲介により、なんとか維持されてきたんです。ですから、滋子が亡くなる安元2年(1176年)を境に、関係は急速に冷え込んでゆくんです。 滋子亡き後、清盛は高倉天皇を中心に据える方向へ、緩やかに舵を切り始めます、その様な状況を感じた後白河院は安元3年(1177年)鹿ケ谷事件を起こします。このあたりで決別は決定的となり、治承2年(1178年)高倉天皇と清盛の娘・徳子との間に安徳天皇が生まれ、最終的には治承3年11月(1179年)に、ご指摘の政変が起きるわけですね。 このような事から、基本的な同政変のとらえ方として、後白河院を外すこと以上に、高倉天皇に実権を移してゆくという目論見が清盛にあったのでしょうね。そして、回答文中、一連の事件について西暦を付してありますのでご確認いただきたいのですが、ほぼ一年おきに刻々と情勢が変わっているんですね。そのスピード感に後白河院はついて行けなかったという面もあるのかな?と思います。ですから、後白河院が平氏に対抗する軍事力など持てる余裕は、時間的にも権勢の実力からも、持ちえなかったのでしょう。 ですから、後白河院は無謀にも清盛に戦いを挑んだのではなく、清盛に捨てられつつある我が身を思い、清盛に対するアンチテーゼとして、後鳥羽院は清盛との対決軸を深化させていったのでしょうね。
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- shirokuro1533
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#2です。 失礼しました<m(__)m> 最後の最後で、後白河院を後鳥羽院と誤植しております。訂正しお詫びいたします。 2回目の回答なのでついでにもう少しだけ… はたして清盛は高倉天皇を中心に据えることを前提に、治承三年の政変を起こしたのか?について, 後三条天皇期から保元の乱の間に3~5名の公卿による「内議」という秘密会議があるのですが、この流れの延長線上で、同政変の前に高倉・平氏・平氏派公卿を構成員として「内議」が執り行われます。 その様な事から、同政変は院近臣平氏がよりどころとする、院政の主体の交代劇と評価する向きは多いですよね。 蛇足も踏まえて参考になりましたら<m(__)m>
- tanuki4u
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http://okwave.jp/qa/q7796079.html 前に似たような質問がありましたので、北面の武士はどうしたのかと調べたら、「結果として動かなかったが、それなりの兵力はあった」ようです。
お礼
御回答ありがとうございます。 結局後白河法皇の荘園料でまかなわれる私兵ですよね? それなりの兵力あったんですかねえ?
お礼
基本的に清盛の側から権力を奪う仕掛けが入り、そこで対抗措置としてやむなく実力行使に出たが当然勝てるわけがなかったというわけですか。 納得させられるものの、よくもまあ勝ち目のない仕掛けをしたものだと思います。