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寿永二年十月宣旨は、後白河院の院政期にあって、後白河院の実質支配を背景
寿永二年十月宣旨は、後白河院の院政期にあって、後白河院の実質支配を背景とした院宣という形ではないのはなぜでしょうか。教えてください。
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- Pinhole-09
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回答No.1
後白河院はなかなかの策略家です。 「院宣」は天皇の「詔勅」とおなじ権威がありますが 「宣旨」は格下で詔勅や院宣で取り消すことが、 できます。 治承四年の平氏への頼朝追討の宣旨以降、いろいろな 追討使の宣旨が出されましたが、その後追討使停止の 院宣が出されています。 頼朝の上奏文に答えた、寿永二年十月の宣旨は、 1・義仲に対し遠慮と警戒があり、脅されれば院宣で 取り消す 2・宣旨ではあるが実質的に後白河院の意向であると 判っている この理由で院宣にするのを避けました。 後日頼朝から「天下の大天狗」(世を惑わす者の意)と 罵られた後白河院は、一例としてこのように院宣、宣旨 を使いわけ、清盛、頼朝、義仲等を手玉にとった偉傑です。
お礼
ありがとうございました。このような意思があることを思うと、やはり歴史の面白さ、人間のしたたかさを強く感じます。勉強になりました。