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1905年に日本が竹島を編入したのは、国際的に見ても正当なものだったのでしょうか?
質問が3つあります。 日本では明治政府が1905年に竹島の領有を宣言したと聞いたのですが、それまでは本当にどこの国にも属さない土地だったのでしょうか? 帝国時代の日本が無理やり(軍事力を背景に)自国の領土としてしまった可能性はないのでしょうか? また当時日本が領有の宣言をしたときに韓国は日本に対してどのようなリアクションをしたのですか? 日本と韓国で歴史的な記述から領土を決めようとしているようですが、私はサンフランシスコ講和条約で竹島の放棄が書かれていないため、日本の領土を韓国が不法占拠しているようにしか思えないのですが。
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大日本帝国は、確かにポツダム宣言を受諾して連合国に降伏しました。ただし、その段階では戦争は終結しておりません。停戦しただけです。戦争行為の一環として連合国軍が日本本土を占領し、様々な行為を行いました。日本国憲法の制定や極東国際軍事裁判の実行などが含まれます。 上記の戦争状態は、最終的にサンフランシスコ平和条約の締結によって終了し清算されました。その時点でポツダム宣言も無効となっています。 よって、竹島問題について、すでに無効となっているポツダム宣言の条項を云々するのは意味がありません。 ご質問への答ですが、 「サンフランシスコ講和条約で竹島の放棄が書かれていないため、日本の領土を韓国が不法占拠しているようにしか見えない」 日本国の立場としては、竹島の領有を放棄したことは一度もありません。ご指摘の通り、サンフランシスコ条約でも竹島の放棄は規定されていず、依然として日本の領土であると国際的に(少なくとも、サンフランシスコ平和条約に参加した国によって)認められていると言って良いでしょう。これが、「韓国が国際社会に対して竹島の領有を主張できない」理由です。 一方、大韓民国の立場としては、同国はサンフランシスコ平和条約に参加していず、この条約に権利義務を有しません。 韓国が竹島を占領した当時、日本と韓国は戦争状態(に近い状態)にありました。韓国は、日本との戦争の一環として日本領土であった竹島を占領し、未だ占拠していると言えなくもありません。戦争で敵国の領土を占領するのは普通のことではありません。 問題は、日本国と韓国が日韓基本条約を結んで国交を回復しているのに、依然として「日本が領有権を有していると日本が考え、かつ国際的に認められている場所」を占領し続けていることです。これは本来ありえない事です。 ただ、韓国自身は「昔から韓国の領土であったのでそれ以上のことはない。日本が不当に奪っていただけだ」という立場であるようです。これは、「サンフランシスコ平和条約に何か書いてあるらしいが、竹島はそれとは関係ない」という主張でしょう。
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- tiuhti
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質問1 まず、間違いなく言える事は、1905年の編入の時点で、明治政府は、「無主先占」による編入と考えた、という事ですね。No.10の方が回答されたように、明治政府は、それ迄は、日本領ではないと考えていたのですから、当然と言えば当然です。(そこら辺の事情は、↓の島根県庁の広報を参考にしてください。) http://www2.pref.shimane.jp/kouhou/photo/161/05.html 一方、日本政府が「1905年の編入は、領有の意思を再確認しただけ(それ以前から領土だった)」と主張する最大の根拠は、江戸時代に「伯耆藩の大谷、村川両家が幕府から竹島を拝領していた」という事にあります。(伯耆藩という藩はなかったので、おそらく鳥取藩の事) http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/ なぜ、これが重要かというと、領土問題では、単にどちらが先に発見していたか、といった事よりも、どちらの支配が及んでいたか(例えば、税金を取っていたとか)の方が、重要視されるからです。ところが、この大谷・村川両家というのは、武士ではありません。そして、鳥取藩自体は、鬱陵島と竹島は鳥取藩には所属していない、と考えていました。 だとすると、「『鳥取藩の与り知らぬところで、幕府が、鳥取藩の町人に領土を与えた』という事になり、常識的にはかなり変な話です。これと、最初に述べた明治政府の認識とをあわせて考えて出てくるのが、「1905年以前は、日本は、竹島の存在は認知していたし、経済的にも利用はしていた時期はあったが、領土にはしていなかった、と考えるのが妥当」という説です。 質問2&3 リアクションが、政府としてのリアクションの意味であれば、なかったと思います。当時の韓国側が日本に対して『直接』抗議するのが簡単ではなかったのはNo.4の方が回答された通りだと思いますが、言いたくても言えなかったのか、あるいは、最初から言う気がなかったのかは、確認のしようがありません。(日英同盟の例は、所詮、間接的に日本を非難しただけですから、比較例としてはあまりよくありません。) しかし、日本の領土への編入の事実をしった時のマスコミ等の理解は「無理やりとられた」というものだったようです。 ↓の記事は、「韓国側の1900年の勅令41号には竹島は含まれていない。1905年に竹島は日本に編入された」という立場の学者によって書かれたものですが、そこにもあるように、当時の韓国で日系の新聞が「鬱陵島は元々は日本の領土である」と主張して、韓国系の新聞と論争になったりしていました。 http://www.sanin-chuo.co.jp/tokushu/modules/news/article.php?storyid=105260145 その為、韓国側の新聞「大韓毎日申報」には、「独島が日本の領地だと言うのは、全く理にかなっていない」といった報道がされています。 また、この背景には、1880年代から、木材伐採や漁業を目的に、日本人が鬱陵島に侵入するようになっており、韓国側は再三日本に抗議し、日本も謝罪したり、日本人を強制退去させたりしていた事があります。 つまり、「日本の竹島領有=日本の帝国主義的侵略」というような理解は、この当時からあった、という事ですね。 尚、領土問題を考えるにあたっては、「無主地」というものがありうる、というのは、基本的な常識として必要です。「Aに属していなかったのだから、Bに決まっている」という議論が通用するぐらいなら、領土問題のかなりの部分は解決するでしょう。 最後になりますが、「韓国側の1900年の勅令41号に竹島は含まれていないのなら、1905年の日本による編入は、国際法上は、問題ない」と私自身は考えています。帝国的侵略だろうがなんだろうが、国際法上はそういう事です。国際法ってそういうものです。
- kyo-015
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>日本では明治政府が1905年に竹島の領有を宣言したと聞いたのですが、それまでは本当にどこの国にも属さない土地だったのでしょうか? 1905年に行ったのは島根県への編入ですね。 これは国際法に則り明確に日本の領土であると確認する為に行ったそうです。 1618年に伯耆藩の大谷、村川両家が幕府から鬱陵島を拝領し、竹島も遅くとも1661年までには拝領されていた事から日本としては自国領であると認識していました。 では、韓国の方ですが、 1899年に作成された地理書の大韓地誌、同じく1907年の大韓新地志によると「鬱島郡の行政地域は東経130度35分から45分までである」と記載されています。 竹島は131度55分にあるので明らかに範囲外です。 つまり、竹島を自国領土と認識していない、または存在すら知らなかったわけです。 http://toron.pepper.jp/jp/take/hennyu/taikanzenzu.html >帝国時代の日本が無理やり(軍事力を背景に)自国の領土としてしまった可能性はないのでしょうか? 上記の通り、当時は日本以外に竹島を領有権を主張する国は無かったわけですから、無理やりも何もありません。 >また当時日本が領有の宣言をしたときに韓国は日本に対してどのようなリアクションをしたのですか? 同じく上記の通り韓国は竹島の存在を知らないわけですしリアクションがあるわけもありません。 外交権を剥奪されてリアクション取れなかったと下で言ってる人がいますが、大嘘です。 その証拠に11月に外交権が剥奪される少し前に、1905年8月12日の第二次日英同盟第三条の条文に対して抗議が行われています。 在韓萩原代理公使から桂外務大臣へ1905年(明治40年)10月17日発『第384号』 英国公使は、韓国外部大臣より公文を以て、英韓両国間には積年の深厚なる友誼存続するに関はらず、此次英国政府が日本との間に訂立せる同盟條約中、韓国の地位に関して規定する所は、従前の約旨に違反する不当の條約なりとの旨意の照会を受けたる由にて、本日本官を来訪して意見を求めたるに付、本官は之に対し、同大臣は林公使より日英同盟條約の成立を通告したるに対して同意味の回答を与えたる旨を告げ、且つ本官は唯今の所、何等の措置を採らずして「イグノヲア」する積なる旨を答へたるに、同公使は本国政府に報告して多分同様の態度を採るに至るべき旨を陳べたり。 同大臣より林公使に与へたる回答は、沼野の病気欠勤中発送せられたりしが、英国公使宛のものは同外交官補に秘して発送したるものなるべし。 >私はサンフランシスコ講和条約で竹島の放棄が書かれていないため、日本の領土を韓国が不法占拠しているようにしか思えないのですが。 立派な不法占拠です。というよりも、竹島に近付いた漁船員を拉致したり殺害してますから北朝鮮の拉致問題と同じ国家的犯罪と言ってもいいでしょう。 講和条約に竹島について書かれていないのは日本の領土と認識されていたからです。 当時、韓国大使が草案段階の講和条約に対して「独島・対馬島・波浪島」も韓国領に含めるよう記載しろと要請しましたが見事に却下されています。 http://toron.pepper.jp/jp/take/sengo/kaidan2.html No.4さんがややこしく書いてますが、「A(韓国領)」と「B(日本領)」のどちらかしかないのですから「A(韓国領)でないのならB(日本領)である」になるのは小学生でも分かることですよね。
- yamabuki
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1番目の質問についてだけ回答します。 >日本では明治政府が1905年に竹島の領有を宣言したと聞いたのですが、それまでは本当にどこの国にも属さない土地だったのでしょうか? はい、その時点では、韓国はもちろん、日本も竹島に関する明確な領有意識は無かったと考えることが妥当だと思います。 韓国についていえば、1882年に鬱陵島検察使として現地調査を行なった李奎遠が「鬱陵島から千里四方に他の島はない」「芋山島(韓国が竹島=独島に比定する島)は鬱陵島近辺の小島だと住民が言っている」という報告をしています。 一方、日本も1877年に太政大臣(今でいえば総理大臣)が「竹島(鬱陵島の旧名)と松島(竹島=独島の旧名)は日本領ではない」という見解を布告しています。 もっと時代を遡れば、日本人が何度も竹島=独島に渡って漁業を行いましたし、また鬱陵島を調査した朝鮮の役人が竹島=独島と思われる島の目撃を報告していますが、19世紀末の時点では、上のような状況でした。 なお、上の表現からも分かると思いますが、竹島=独島との関わり方は、朝鮮よりも日本の方が圧倒的に深いものでした。それでも1905年以前の時点で日本が竹島=独島を領有していたと主張するには、ちょっと条件が不足していると思います。
- Ganymede
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【訂正】 「YY 体制」は「YP 体制」の誤りです。
- Ganymede
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民族派は YY 体制打倒を呼号する YY 体制とはヤルタ・ポツダム体制を意味し、民族派は、ヤルタ協定・ポツダム宣言に基づいた体制を打倒しなければならないと叫ぶ。 だが、ヤルタ協定は米・英・ソ3国の取り決めである。条約(協定)は、当事国しか拘束しないから、日本はこれに拘束されない。また、ポツダム宣言を日本は受諾したが、これは休戦協定に相当するもので、講和条約の発効を以ってその務めは終わっている。したがって、次の印象が生じる。 「二つの Y が未だに日本を拘束しているわけがない。民族派は、何の幻影に向かって呪詛の言葉を吐くのか?」 しかし、民族派の信念の是非はさておき、ネーミングの妥当性も脇に置いて言えば、必ずしもそれは幻影ではなかろう。この小文では、政治的主張には取り合わず、ポツダム宣言(以下、ポ宣言という)に基づく法体系が存在した事実について書く。 結論から言うと、ポ宣言自体と、ポ宣言に基づき制定された取り決め・法令とを、区別しなければならない。もちろん、サンフランシスコ条約(以下、サ条約という)発効後は、ポ宣言に基づく決まりを新たに発することはできず、ポ宣言を直接に適用することもできない。 しかし、それ以前に(ポ宣言に基づいて)発せられた取り決め・法令は、サ条約の発効を以って自動的に無効とはならない。「これを無効とする」という新たな法令が必要である。 そのことを具体的に、いわゆるポツダム命令について見てみよう。「ポツダム命令」とは、連合国ではなく日本政府が発する命令だった。ハーグ陸戦規則よりもポ宣言が優先したため(注)、GHQ はポ宣言に基づいて日本の根本的な変革を要求した。それを履行するための法の制定・改廃は国会の仕事だが、GHQ の要求があまりにも矢継ぎ早なので、国会の処理能力では追いつかなかった。そこで、次の緊急勅令が発せられた。 「ポツダム」宣言受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件(1945年9月20日施行) http://www.geocities.jp/nakanolib/rei/rs20-542.htm 政府ハ「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ聯合国最高司令官ノ為ス要求ニ係ル事項ヲ実施スル為特ニ必要アル場合ニ於テハ命令ヲ以テ所要ノ定ヲ為シ及必要ナル罰則ヲ設クルコトヲ得 (中略) 本令制定により、連合国最高司令官の要求を実施するためには、本令に基づく命令(いわゆるポツダム命令)によって法律を改廃し、または法律で定めるべき事項をポツダム命令によって制定できることになった。(引用終わり) その7年後、次の法律が制定された。 ポ宣言の受諾に伴い発する命令に関する件の廃止に関する法律(1952年4月28日施行、サ条約発効と同日) http://www.geocities.jp/nakanolib/hou/hs27-81.htm 1 ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件(昭和二十年勅令第五百四十二号。以下「勅令第五百四十二号」という。)は、廃止する。 2 勅令第五百四十二号に基く命令は、別に法律で廃止又は存続に関する措置がなされない場合においては、この法律施行の日から起算して百八十日間に限り、法律としての効力を有するものとする。 3 この法律は、勅令第五百四十二号に基く命令により法律若しくは命令を廃止し、又はこれらの一部を改正した効果に影響を及ぼすものではない。(引用終わり) つまり、ポ宣言に基づいて上記の勅令が発せられ、それに基づいて数々のポツダム命令が出た。それらは、旧憲法体制を支えた法律の一部を廃止し、新法を制定するのと同等の働きをした。 これは占領期特有の法体系であったが、サ条約の発効で自動的に失効したのではない。「廃止する」(または「百八十日間に限り、法律としての効力を有する」)という新たな法律なしには、失効させることができなかった。 また、同法律の3項が定めるように、ポツダム命令がもたらしたドラスチックな法的効果は、取り消されずに講和発効後も引き継がれたのである。 竹島問題に対しても同様である。ポ宣言に基づいた SCAPIN 677号は、サ条約発効後も 677号を改廃する新たな取り決めのない限り、当然にはその効果を失わない。ポ宣言の背後にはカイロ宣言があり、677号の島々の取捨選択に影響を及ぼしている。今一度、SCAPIN 677号とサ条約「第二章 領域」とを見比べておきたい。 連合軍最高司令部訓令(SCAPIN)第677号(1946年1月29日) http://www.hoppou.go.jp/library/document/data/19460129.html 日本国との平和条約(1951年9月8日調印、52年4月28日発効) http://www.geocities.jp/nakanolib/joyaku/js27-5.htm 例えば、677号で出て行ってサンフランシスコ条約には書いてない、北緯30度以南・29度以北の7島は、51年12月5日の GHQ覚書によって戻ってきた(伊豆諸島などは、出て行って2カ月も経たずに戻ってきた)。誰でも気付くことだが、竹島についても同様の覚書が必要だったのである。しかし GHQはそれを与えなかった。 畢竟、サ条約締結は拙速であり、日本はその犠牲を払ったのだった。条文のいくつかは玉虫色で、元締めの米国は二枚舌を使った。竹島問題も、北方領土問題も、それが一因となっている。しかし、それに気付いていたとしても、日本は早く国際社会に復帰したかったし、冷戦の激化ゆえ、米国も早く日本を取り込みたかった。日本は機を逃さず「単独講和」して、その後の繁栄につながったのだから、痛恨の島々喪失も「以って瞑すべし」と諦観する人は、高官の中にもいるらしい。 (注)ハーグ陸戦規則よりもポ宣言が優先した 陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約附属書 陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則 (いわゆるハーグ陸戦規則。日本も批准、1912年2月12日発効) http://www1.doshisha.ac.jp/~karai/intlaw/docs/hr.htm#rule 第四二条[占領地域] 一地方ニシテ事実上敵軍ノ権力内ニ帰シタルトキハ、占領セラレタルモノトス。 占領ハ右権力ヲ樹立シタル且之ヲ行使シ得ル地域ヲ以テ限トス。 第四三条[占領地の法律の尊重] 国ノ権力カ事実上占領者ノ手ニ移リタル上ハ、占領者ハ、絶対的ノ支障ナキ限、占領地ノ現行法律ヲ尊重シテ、成ルヘク公共ノ秩序及生活ヲ回復確保スル為施シ得ヘキ一切ノ手段ヲ尽スヘシ。(引用終わり) まず、予備知識として「軍律」というものが存在する。占領軍は、軍律を定めて占領地で発布し、被占領民(軍人・文民)に遵守させる権限がある。国際法上、明文の規定はないようだが、国際慣習となっている(ハーグ42条が間接的根拠とされる)。 そして、占領軍がその権限を濫用しないように制限したのが、43条である。逆に言うと、「絶対的ノ支障」があると「占領者」が判断すれば、「占領地ノ現行法律」を改廃させることができる。 また、占領には軍事占領、戦後占領(混合占領)、平時占領の3種類がある。42条は「事実上」と述べているから「軍事占領」であり、42条~56条の占領規定は、「軍事占領」に適用されると考えられる。これに対し、ポ宣言とサ条約の間の日本占領は「事実上」ではなく協定(ポ宣言、降伏文書)に基づくもので、「戦後占領」である。したがって、43条の適用を受けるかどうかについては議論がある。これについて、学界の通説は次のようになっている。 (当該の条項は)交戦中の占領軍にのみ適用されること、わが国の場合は交戦後の占領であり、したがって、原則としてその適用を受けないこと、仮に適用されるとしても、ポツダム宣言・降伏文書という休戦協定が成立しているので「特別法は一般法を破る」という原則に従い、休戦条約(特別法)が陸戦条約(一般法)よりも優先的に適用される。 (『憲法1(第3版)』野中俊彦他著、有斐閣。65ページ) 以上より、GHQ はポ宣言に基づき、日本の法律を改廃させる権限があったことが分かる。ポ宣言の関連条項を引用すると、次のようになる。 日本国政府は、日本国国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障害を除去しなければならない。 言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は、確立されなければならない。 このような新秩序が建設され……たという確証があるまでは、……日本国領域内の諸地点は、われらがここに指示する基本的目的の達成を確保するため、占領される。(引用終わり) このように、日本は(法令を改正するなどして)新秩序を建設するまで、占領され続ける運命だった。同様に、ドイツやイラクなども、被占領下で新憲法(基本法)および多数の法律を制定・改廃した。 (注 終わり)
- jamiru
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江戸末期には幕府は確実な日本地図と海洋図を持っています。 朝鮮は持っていません。 歴史的に韓国領有は無理があります。 国際的に調査領有は日本が先です。 その当時の朝鮮には国際法もなにもありません。 しかも領有するだけの技術力すら持ち合わせていません。 今、自国領土と言えるのはそれだけの技術力があるからです。 昔の朝鮮にあれだけの距離を難破しないで航行できる船は持ち合わせていません。 なので朝鮮が昔から本当に支配出来ていたとは証明できないのです。 日本には既に遠洋船舶の技術はありましたからね。
- buchi-dog
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No5の者ですが、訂正です。 誤 「戦争で敵国の領土を占領するのは普通のことではありません。」 正 「戦争で敵国の領土を占領するのは普通のことです。」
- Ganymede
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なぜ日本政府は「1905年に先占」を主張しないか 「先占」は、国際法上認められている領域権原の一つである。しかし、日本政府は竹島の「1905年先占」を主張しない。同年の竹島編入は、先占ではなく「再確認」であり、そのはるか前、遅くとも17世紀半ばには日本が領有権を確立していたと、説明するのである。 言うまでもなく、「江戸時代から日本領」と「1905年に先占」とは互いに背反するのであり、両者を同時に主張するのでは素人だ(ネットで散見されるが)。政府はそこまで愚かではないわけである。 日本国外務省 竹島問題 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/index.html それでは、江戸時代の領有権確立は、いかなる国際法理論に基づいたのか? このページでは省かれているが、政府によれば、開国前の日本は国際法の適用を受けない。国際法の法理である「先占」に拠らずに、歴史的な事実として竹島を領有していたという論法である。 【ご質問1】 > 日本では明治政府が1905年に竹島の領有を宣言したと聞いたのですが、 > それまでは本当にどこの国にも属さない土地だったのでしょうか? 日本政府の主張では、1905年以前から(遅くとも17世紀半ば以降)、竹島は日本に属していた。 【ご質問2】 > 帝国時代の日本が無理やり(軍事力を背景に)自国の領土としてしまった > 可能性はないのでしょうか? おっしゃる通り、「先占」の実態は、帝国主義列強が軍事力を背景に「どこの国にも属さない」土地を自国の領土とすることだった。そしてこの「どこの国にも属さない」は曲者であり、しばしば強引に「無主の地」と解釈して先占が行われた。 それでも、「領域権原の一つとしての先占」は一般的に認められているが、日本に対しては一部認められない。なぜなら、「特別法は一般法を破る」という法理があり、この場合、カイロ宣言・ポツダム宣言が(国際法の)一般法より優先するからである。 カイロ宣言(1943年12月1日。国立国会図書館による) http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/002_46/002_46tx.html > 日本国ハ又暴力及貧慾ニ依リ日本国ガ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルベシ ポツダム宣言(1945年7月26日。中野文庫による) http://www.geocities.jp/nakanolib/joyaku/js200726.htm > 八 「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク又日本国ノ主権ハ本州、 > 北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ つまり、日本が先占によって(一般法でいうと)合法的に取得した土地でも、それが「暴力及貧慾ニ依リ日本国ガ略取シタル」地域に当たるなら、日本は放棄しなければならない。竹島についてその疑いを拭い去れない時代背景は、後述する。また、韓国併合(20世紀初頭、3つの協約などを経て1910年完了)は、当時は国際的に承認されたが、35年後の日本の敗戦により、さかのぼって不当なこととされた(「三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス」)。 こうして、この拙論の表題、“なぜ日本政府は「1905年に先占」を主張しないか” の答を、我々は得ることになる。普通に考えれば、「1905年に先占」で日本の領有権は確立されるのに、なぜ主張しないのか? それは、敗戦国日本が普通の国ではなく、上記のような取り決めを課されているからだ。 そこで日本政府は、先占の代わりに「江戸時代から日本領」を主張する。しかし、歴史を言うなら韓国も負けてなくて、互いに古文書まで持ち出して泥仕合となっている。都合の悪いことに、領土と意識していなかったことを示唆する史料まで出てくる始末だ。 結局、両国政府および御用学者が言うほどには、1905年以前、日韓いずれの領有権も確立されてなかったようだ。それでも、「1905年に先占」を主張できない事情のある日本としては、「江戸時代から日本領」で押すしかない。 【ご質問3】 > また当時日本が領有の宣言をしたときに韓国は日本に対してどのような > リアクションをしたのですか? 日本は、1905年1月28日の閣議で竹島を「本邦所属」とした。しかし当時は、まさに日本が大韓帝国を併合しつつあった時代である。日露戦争中であり、05年1月1日旅順を陥落させ、講和の気運が生じていた。朝鮮半島からロシアの影響力を排除できそうになっていたのである。 韓国併合を推し進めた3つの協約のうち、第1次が04年8月22日、第2次が05年11月17日で、韓国の外交権や国政の権能を次々と奪っていった。すでに第1次で、財政と外交を監督する日本政府派遣の顧問を、韓国政府に置くことが決められ、「顧問政治」が始まった。また、外交上の重要案件は日本政府と協議しないかぎり処理できないようにされた。第2次では、韓国の外交権が完全に奪われた(『世界大百科事典』平凡社による)。 したがって、当時の大韓帝国にしてみれば、日本に対する公式のリアクションを取りようがない。第三国に不満を漏らすなどなら、ともかくとして。 (戦後について) 1945年、日本はポツダム宣言を受諾して降伏した。第8条により、日本の領土の範囲は連合国の決定するところとなった。46年1月29日、SCAPIN 667号によって連合国はその権限を行使し、竹島に対する日本の権利は失われた。 ポツダム宣言(1945年7月26日。中野文庫による) http://www.geocities.jp/nakanolib/joyaku/js200726.htm 連合軍最高司令部訓令(SCAPIN)第677号 http://www.hoppou.go.jp/library/document/data/19460129.html 3 この指令の目的から日本と言ふ場合は次の定義による。 日本の範囲に含まれる地域として (中略) 日本の範囲から除かれる地域として (a)欝陵島、竹島、済州島。 (中略) 5 この指令にある日本の定義は、特に指定する場合以外、今後当司令部から発せられるすべての指令、覚書又は命令に適用せられる。 6 この指令中の条項は何れも、ポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならない。 (引用終わり) ただし、これは最終決定と解釈してはならないと書いてある。それでは、連合国の最終決定は? 遅くとも講和発効前に、講和条約または他の取り決めで示されなければならない。ところが、サンフランシスコ条約には竹島のことが書いてないのである。 日本国との平和条約(51年9月8日調印、52年4月28日発効) http://www.geocities.jp/nakanolib/joyaku/js27-5.htm 第二条(a)に日本の放棄する島が列挙され、竹島は挙がってない。したがって、日本にとどまると解釈する人がいる。しかし、中学生でも知ってることだが、「A ならば B である」と「A でないならば B でない」とは同値ではない(同値なのは、「B でないならば A でない」)。また、当時の米政府高官が、「竹島は日本領」の内意を伝えていたという記録公開文書もあるが、内意では弱い。なぜ、新たな覚書(注2)も出さず、講和条約にも明記しなかったのか? (注2)新たな覚書 SCAPIN 677号で日本から除かれた島のうち、のちに返還されたものは、覚書や協定などを伴っていた。それらがなければ戻って来ない。例えば、サンフランシスコ条約に書いてない北緯30度以南・29度以北の7島は、51年12月5日の GHQ覚書によって戻って来た。 竹島に対する連合国の最終決定は示されなかった。SCAPIN 667号で出て行ったきり、その帰属は宙に浮いた。いや、浮く暇もなかった。曖昧さに付け入って、52年1月18日、韓国が「李承晩ライン」を設定したのである(ライン内に竹島を含む)。 サンフランシスコ条約の発効前という時期から見て、まだ竹島は連合国に属していたはずだ。いずれにせよ、日本は国際司法裁判所へ訴えようとしたが、韓国は応じなかった。開始に両国が同意しないと、この種の裁判は始まらない決まりになっている。国際法という代物は、土台そういう仕組みなのだ。 「韓国が法廷に出ないのは、出れば負けるからだ」と言う人がいる。しかし、「裁判さえすれば日本必勝」という思い込みは、単純すぎないか? 裁判は相手のあることであり、裁判官の面子などを調べて言っているのだろうか? 韓国は竹島を支配している以上、勝つ確率が 100%でない限り、法廷に出て来るまい。しかし、政治や外交の世界で 100%の事柄はない。他方、日本は率が低かろうが高かろうが、裁判くらいしか手がない。「ダメでもともと」だ。日本が裁判したがるのは、竹島を支配してないからである。韓国は逃げるも何も、竹島に居座って動きゃしない。つまり、「裁判したがる・したがらない」と「裁判で勝てそう」とは相関がない。 要するに、竹島が韓国に支配されていることは、国際法上の根拠が乏しいが、逆に明らかに取り決めに違反してもいない。開いた口がふさがらないが、韓国は国際法の追及を受けない泥棒をしたのである。条文の曖昧さに乗じ、(GHQ から日本政府への)権力移動時の間隙を衝いたのだった。ある意味、昔の日本を彷彿とさせる。大日本帝国は大韓帝国(1897-1910)に対して泥棒だった。因果はめぐる。 だいたい、日韓条約を結ぶために(予備交渉も含めると)1951年から65年まで十何年も交渉しながら、結局竹島の帰属を決められなかったのである。問題を棚上げして条約は結ばれた。日本に竹島を取り返す力がないことは、残酷なまでに明白となった。 日本も韓国も、しょせんアメリカ親分の子分である。日韓条約も、アメリカの指導でようやく締結に漕ぎ着けたと言われている。そのとき親分は、竹島は日本領と言ってくれなかった。そして最近も、米政府高官は「領域をめぐる問題には介入しない」と述べている。 米政府、不介入を強調 竹島問題 http://www.asahi.com/special/060419/TKY200604200302.html 何のことはない、サンフランシスコ条約の昔から、米国の二枚舌外交に日韓は翻弄されてきたのだ。親分は、子分のどちらにも良い顔をしたいのである。 以上述べたようなことは、もちろん日本政府当局者も心得ている。知らないのは子供(と子供並みの大人)である。それゆえ、日本政府は竹島問題について現状維持を決め込んでいる。日韓の首脳会談でも大して議題にならない。「国際法上も明らかに我が国固有の領土」と言うなら、なぜもっと強硬に交渉しないのか、もう理由はお分かりだろう。飛車も角も親分の駒に過ぎず、飛車と角の喧嘩は親分の不興を買うだけだ。 しかし、泥棒兄弟の兄貴としては、弟に泥棒されておめおめと引き下がれない。権利は、主張し続けなければ消滅してしまう。分が悪かろうと良かろうと、ダメで元々だ。それに、周辺海域で漁をしたい漁業関係者は困り果てている。要するに、醒めつつも、日本の領有権を主張し続けることになるのだろう。
- PENPENMAKKY
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1 無宗地です。但し日本人は江戸時代よりこの地に岩礁があることを知っており、度々渡航して海産物を採っていたようです。韓国からは行けない場所だと思います。 2 日韓議定書では韓国の領土は保全する(侵害しない)と約束しています。1の方が言われている外交権の剥奪は1905年11月に行われた(日露戦争のあと)ものです。 3 竹島に対しては何らアクションはありませんが、3月に韓国皇帝がロシア皇帝に密使を送り軍事支援を要請、発覚しています。
- nagarjuna
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#1です。補足追加です。 北方領土にしろ、竹島にしろ、尖閣諸島にしろ、現在の領土問題の淵源は、東アジア古来の比較的緩やかな領土観念に、近代に入ってから植民地主義の論理を受け継ぐ厳格な西欧国際法が導入される過程で発生した齟齬であると、私は認識しています。
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