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「8月18日の政変」について

「8月18日の政変」について、詳しく教えて下さい!!! 色々なホームページを見たのですが、イマイチ理解できなくて・・・ すいません よろしくお願いします。。。

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回答No.1

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>「8月18日の政変」について、詳しく教えて下さい!!! 文久3年(1863)8月18日に一橋慶喜や薩摩藩および会津藩などの「公武合体派」が長州藩などの「尊皇攘夷」を主張する者たちを御所から排除した政変。 文久年間に起こったので「文久の政変」とも呼ばれている。 (1)「攘夷」を唱える長州藩と公家は、孝明天皇の大和行幸の機会のおり、攘夷の実行を幕府および各地の大名に知らしめるために、「勅許」を得ようと画策をした。 (2)「大和行幸」とは、前年の文久2年(1862)12月に孝明天皇は攘夷の勅書を14代将軍徳川家茂に送り、これに対して、家茂は明年3月までには攘夷を決行する、と回答したが、実行はされず、社会情勢を訴えるため、文久3年3月に家茂が上洛して、孝明天皇に釈明をするが、結局、孝明天皇に押し切られて、再度、「5月10日をもって攘夷を決行する」と約束してしまう。そして、孝明天皇は攘夷祈願のため、上加茂神社と下加茂神社、石清水八幡宮へ行幸した。 (3)この孝明天皇と家茂の約束を聞き、長州は5月10日に「攘夷」が決行されたものと思い、関門海峡(馬関海峡=ばかんかいきょう、とも呼ばれた)に停泊していた、アメリカ商船ベンプローク号を発見し、総奉行の毛利能登は躊躇したが、久坂玄瑞らの強硬派の意見で、長州側の海岸砲台と庚申丸(こうしんまる)、癸亥丸(きがいまる)から砲撃をした。突然の事態でベンプローク号は危機一髪周防灘へ逃走したが、初めての外国船打ち払いであったため、長州藩は一気に「攘夷決行」に沸き立ち、朝廷からも、さっそく、褒勅(ほうちょく=お祝いの言葉)の沙汰があった。 (4)5月23日には長府藩(長州の支藩=長州藩の分家または庶子家の藩)の物見からの報告で、横浜から長崎に向かうフランスの通報艦キャンシャン号が長府沖に停泊していることを知り、キャンシャン号が関門海峡に入ったところを長州の各砲台から砲撃。キャンシャン号は事情を確かめるため、書記官と水兵を乗せたボートで長州側へ漕ぎ出したところを、さらに発砲して、書記官は負傷、水兵4人が死亡。キャンシャン号は、急いで海峡を通過。庚申丸や癸亥丸が追撃するも、それを振り切ることに成功し、キャンシャン号は翌日、長崎に入港した。 (5)さらに、5月26日には、オランダ東洋艦隊所属のメジューサ号が長崎から横浜に向かうため、関門海峡に入ったところを長州藩の砲台や癸亥丸が接近して砲撃を加えた。オランダは他国と違い、鎖国時代でも通商を認められており、友好関係があると、考えていたが、長州藩はそのオランダに対しても発砲し、メデューサ号は1時間余り交戦したが、死者4名を出し、船体にも大きな被害を受けたため、周防灘へと逃げた。 (6)こうしたことを契機として、長州藩が朝廷の政(まつりごと)に何かにつけて口出しをするようになった。 (7)当時は、御所の警護を「会津藩」や「薩摩藩」がしていたが、長州藩のあまりにも過激な行動に、ついに、8月18日、孝明天皇も次第に「憂い」を感ずるようになり、「公武合体派」の中川宮朝彦親王や近衛忠熙、近衛忠房らを参内させ、「攘夷派」の長州藩(毛利敬親、定広父子)や公家の三条実美、沢宣嘉ら7人を排除した。これを「7卿落ち」とも呼ばれた。 (8)薩摩藩は、まだこの頃、長州藩とは手を組んではいなかった。 (9)これらの政変を「8月18日の政変」と呼び、京都を追われた長州藩などが、巻き返しを図るため、後の「池田屋事件」「禁門の変(蛤御門の変=はまぐりごもんのへん)」などへと拡大していった。 あなたのお役に立てたでしょうか。

gakualex
質問者

お礼

マメ知識まであり、非常に楽しく読み、わかりやすく理解する事ができました。 わざわざ長文を打って下さり、心から感謝いたします。 ありがとうございました。

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