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『大疑ありて大悟あり』の意味と読み方   

『大疑ありて大悟あり』という言葉を上司が口にしました。 ところが、『大疑(たいぎ)ありて大悟(たいご)あり』 と言ったことに対して 「だいぎ ありて だいご あり」なんじゃないの?とお局様たちが言い出しました。  「たいぎ」 なの? 「だいぎ」 なの?  「たいご」 なの? 「だいご」 なの?  で 女子の中で話題になってしまいました。 『大疑ありて大悟あり』 の 正しい読み方(ひらがな表記)を教えてください。 ついでに意味も教えてくれたらうれしいです。 よろしくお願いします。 ちなみに私たちオバカちん女子は、「ダイゴ」でいいじゃん”ウイッシュ ウイッシュ”てバカ言ってます。 話それましたすいません。 よろしくです。                                               ぎり20代 OL

みんなの回答

回答No.5

女性の直感には、なまじの男の知恵は及ばない。と言われます。 ダイゴ、でいいじゃん。でいいんじゃないですか。 発声はどうでもいい、正しい発声、などはない。方便、なまり、また時代によって、 変わるものじゃん。 「タイギありてダイゴあり」と聞くと。私などは 大義ありて大誤あり。真理だの、国益、自社利益、などと、大義名分を掲げるから、大きな誤解を招く。というような意味に解釈してしまいそうです。 一太郎で、゛たいぎ、を変換すると、大義、は出ますが、大疑、は出ません。だいご、を変換すると 、大誤、も、大悟、も出ます。 たいご、を変換すると、どちらも出ないようです。 ワ-プロも困ったもので? 女の子よ、馬鹿とは。と打つのに。シフトキ-を押し損なうと。 女の子よね馬鹿とは。と出てしまいます。 意味は、縁=起 すべては縁によりて起こる。という、釈迦の考え方、から見ると。 大きな疑問課題、に取り組む事を縁として、大きな、悟り、が起こる。 悟り、とは、仏(導くもの)を縁として起こるものが、悟り、である。 具体的には、仏教の基本である、八っの正しい道、 正しい思惟(理法、考え方)、正しい見解、正しい見解、正しい言葉、正しい行為、正しい生活、 ・・・、に、気づく事、であり。気づかしてくれる、縁、が、仏、である。 仏を求め、悟り、を重ねて行く事が、苦を滅する、唯一の方法である。と説いているのです。 しかし「世に仏のあるは難く、仏に出会うは難し。」 というのが、有り難い、の語源のようです。

hide1718
質問者

お礼

仏の視点から解説いただきありがとうございます。 大疑を大きな疑問課題と捉えて、それに立ち向かえば悟りが開かれ仏に近づくような意味でしょうか。 もし、大疑が大きな悩みや苦悩と解釈すると、また違った解釈になるのでしょうか。 『大疑ありて大悟あり』という言葉を、現代日本における言葉に置き換えたとき、解釈は大変難しいということが分かったように思います。 大疑を大きな疑いと文字通り解釈しなければ、どのような話になっていくのか、興味深くなってきた次第です。 ご回答ありがとうございました。

回答No.4

先程お邪魔した者です、動画の添付を忘れたものですから、此処に張っておきます。 URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM

回答No.3

読み方は他の人達が説明していますので、その意味するところを少し掘り下げて説明したいと思います。 大疑の反対語は、疑わないと言う意味になりますが、この何も疑う事を知らない心の状態を『天国』と聖書では説明しています。 子供時代は『何も屈託が無くて』明日の事を思い煩う事もない、という状態になっています。何も深く疑問に思う事がない状態です。 そうして成長してきた場合に、他人と自分を引き比べたり、劣等感や優越感を感じ始めます。この頃になると『自分の裸を人にさらす事が出来なくなります。』この精神状態を、聖書では、イチジクの葉で隠すと言っています。 神に逆らうと言う意味は、自分自身に背いて『自分自身を疑う』という意味ですが、ここのところをもう少し詳しく説明します。 人間は(命ある全てのものは)生まれた時には既に全てを知り尽くしています。生命として生じた瞬間から『細胞分裂する事を知っていて、働き始める』という意味ですが、母親のお腹にいる時も、お腹から出てきた時も、自分の成すべき事を『既に知っていて生まれている』事実があります。 この事実を、良く考えてみて下さい。不安も安心も恐怖する事も、既に学ぶ事無く知っていて生まれています。そうして成長してゆく過程も知り尽くして成長を続けています。 自分の髪の毛一本でさえ『自分では白くも黒くも自由意志或いは自我意識では、替える事が出来なくとも』自分を働かせている働きと言う機能上からは、既にプログラムされています。 神や仏とは、この『プログラムされた働き』の事を指しています。 このプログラムされた『働き』に付いて説明すると、かなり分かりやすくなりますので、生まれ付きに持っている『機能としての働き』を脳科学から説明したいと思います。 聖書も仏典も要点は『脳の機能上の説明から成り立っているからです。』宗教の目的は『魂の救済です。』この意味が理解出来る時、自分の魂の救いが成就します。 宗教の目的は『心の矛盾の解消』が目的と言う意味です。人間の悩みや疑問は、脳の機能分化に由来していると言う意味ですので、人間の脳内に二つ意識がある証拠をウイキペデアから紹介してみます。 『”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”』 この場合の右脳に存在する意識が、生まれる前からプログラムされている働きをする人格と云う事になります。言葉にするなら『命を働かせている機能を持った人格』という意味ですが、仏典での説明なら『仏性』です。聖書の中では、『主とか神』と云う事になります。 人間の悩みや疑問とは、自分自身の中の『右脳の働く機能』に疑いや、背く事を意味します。分かり難いと思いますので、右脳の機能を簡単に説明します。 右脳の機能は、『生命維持装置』として働いている機能です。人間の全体像を熟知していて働いている、働きです。人間の全体像が余りにも多様性があって、語り尽くせるものではありませんが、便宜上と言う事で主に三つに区切って説明したいと思います。 この三つの区切りも、始めに断っておきますが、境目が無いか、或いは境目が重なっていますので、厳密な意味では三つに区切る事さえ、間違っていると言う見方も出来ますが、ともかく三つに分けて書いてみます。 人間の生命維持という場合では、まず『身体』に対する生命維持装置と言う言い方になると思います。心臓も肺もホルモンの調節も、自律神経も交感神経も副交感神経も全て『右脳に存在する人格』が、一人で賄っていると言う意味です。この『命の働きに背いたり、疑ったりする場合に』神の怒りを買うと云う事をになります。 この意味は、検査をしても何処にも異常が無いにも係わらず『異常を訴える中にあります。』自分に内在する『命の働き』と仲違いする事によって、違和感が生じるからです。この違和感の内容が『『『訴えている内容です』 身体の生命維持装置(命の働き)と仲違いする場合に言い表される症状名が『自律神経失調症や、過敏性の腸症候群や、難治性の心身症』と云う事になります。 この他の生命維持装置には『行動を伴う事』が上げられます。この行動に対しての『生命維持装置』との間で仲違いする場合を『神経症』と表現します。人間が行動する場合の全てに当てはめる事が出来ます。 分かり易い例を挙げるなら、字を書く場合です。自我意識単独で字を書こうとする事によって、『字が書けなくなる場合です。』自我意識単独で、右脳の人格の力を借りないでしようとする場合では、『行動は大変制限されています。』眠る事さえ出来なくなる場合もあります。こういった場合には『不眠症』という症状名が付いています。 この他の生命維持装置は主に心に関してです、それは『湧き上がる感情や考え』に対して疑ったり、背いた場合に『心を病む』と表現しています。 こういった人間の障害を解決する事柄が『宗教の目的です。』魂の救いです。二つになって争いを始めていた心が、脳梁の中で(意識の根底で)出会う時、右脳と左脳の間に『ホットライン』が構築されます。 今までは、意識する自分の出番と『無意識の自分の出番』の争いをしていたからです。ホットラインが構築された事によって『もう二度と出番争いをする必要がなくなるからです。』 こういった現象を『見性』=自分自身を知る、と表現をしています。つまり自分を働かせていた意識との出会いによって『自我意識が必要以上にでしゃばる事を止める。』という意味です。 聖書の言葉で表現するなら『識られざる自身に内在する、右脳の機能として働いている、命そのものの働きに会って、和解する。』と云う事です。この体験後では『自分の命を働かせている人格の前にでしゃばるのを止めて、後から付いてゆく』というほどの意味です。 死に拠っても覆す事が出来ない幸福感を持つ事が出来る。という意味です。 自律神経失調症等に代表される『身体の機能を働いている人格』との仲違いも。神経症等の『行動に付いての機能を働いている人格』との仲違いも、心に湧き上がる感情や考えに代表される『心を病む』という場合も『心に関する働きをする機能を働いている人格』との仲違いも、見性する事によって『全て完治します。』 参考までに、脳科学者が自分の見性体験を動画で発表しているものがありますので、良く見て参考にして下さい。完治するためのキーワードは、『自我意識には出来なかった』と諦める事の中にあります。 自我意識の機能は、右脳の機能とは全く違っているからです。左脳は言葉で考えていますが、言葉を持った時点で『有限の世界しか知る事が出来なくなったからです。』 それに対して右脳の機能は『生まれた訳ではない事から、滅する事が無い=永遠の存在』という姿で現れるからです。そのために、自我意識が例え亡びたとしても、既に自分自身の中には永遠の存在が内在している事が、分かるからです。 自分自身を疑う場合では、大きな疑いをするという意味になります。大きな疑いが解ける場合を『悟りを開く』と表現しています。自分を疑う事によって内在する自身の神と出会う体験が待っています。 こういった場合に『大疑ありて大悟あり』と表現しています。

hide1718
質問者

お礼

詳しい説明ありがとうございます。 聖書からの解説なので、初所見です。本文から右脳が無意識、左脳が意識の関係のように読み取れました。右脳は抽象的画像処理を、左脳が具体的言語処理を担っている観点からの解釈でよろしいでしょうか。  実のところ、私は現代日本において聖書が言う心の捉え方は、日本人にはそぐわないのではないかと思っています。内観的に自己を見つめて内省することは如何なる宗教において共通することなのですが、ことキリスト教においては自我意識と無意識をはっきりと区別して理解しようと教え説いているように思えるからです。私には、果たして意識と無意識は区別できないという考えがあり、人はこの間を瞬間的に行ったり来たりするものと思っています。だから、心は常に変化するもので、プログラムされたものでもなく意識下でコントロールできないものと思っています。その時々の意識や無意識があっても内省して気が付く無意識はないと思っています。 なので、キリスト教的な思想に基づいて、自分を疑う事によって内在する自身の先には、結局意識下の自己の存在以外に何も見えてこないと思うのです。最終的に神と出会う体験という抽象的な偶像崇拝で議論が集結しているように感じ取れてします。 聖書の解釈でいつも釈然と来ないのが、最後がいつも神に集約されるところです。そうしないと、欧米では人をまとめることができなかった背景があるにせよ、神とつながることにより心が平穏になり、愛と平和がもたらされるような思想は、今の日本人の心の悩みを解決する糸口にならないように思えてなりません。一時的な安心はあっても、恒常的な安心は訪れないと思えてなりません。 私は、聖書の教えは世界を救うものと思っています。できれば、仏教思想とキリスト教思想の相違の観点からも、『大疑ありて大悟あり』の言葉の解釈をして頂けたら嬉しかったです。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.2

『大疑ありて大悟あり』の意味 ○読み方は出ていますし、上司の通りですので、意味についてですね。 『大疑ありて大悟あり』を大小で入れ替えて書き直すと「小疑ありて小悟あり」になりますね。中でもいいんですよ。でも小でも中でも大悟になりませんね。 つまりね、大は字のとおり大なんですよ。 大きな疑いというのは、例えば人生全部とか、常識、知識全部とか、つまり非常に大きな疑いという意味なのです。 仏教では、全部疑うという意味で大疑なんですね。全部疑って一度全て白紙にして、再度、全部見直した先に真実が見えるという意味で『大疑ありて大悟あり』なんですよ。大いに疑えという意味とは少し違いますね。 おおいに疑えでは、いつまでたっても「小疑ありて小悟あり」にしかならないということなのですね。 「小疑ありて小悟あり」は、会社の改善運動には良いかもしれませんね。

hide1718
質問者

お礼

「小疑ありて小悟あり」は、会社の改善運動には良いかもしれませんね。 今度提案してみます。 見て見ぬふりって感じですかね。。。 「あえて小疑ですよね」って言って見よっかな。(^◇^) ありがとうございます。

  • ariakun
  • ベストアンサー率37% (186/494)
回答No.1

「大疑ありて大悟あり」、「たいぎ ありて たいご あり」という読み方でしょうね。 おそらく、元は「大疑は大悟の基」という言い方です。 意味は「大いに疑問を持つことは、のちに大きな悟りをひらくもとになる」。 「仏教」などの悟りを開いた人達の、「生き方、考え方」の表現ですね。 仕事においての意味なら、「疑問を持つことは改善のもとになる」という意味で言ったのでしょう。

hide1718
質問者

お礼

なるほど ありがとうございます。 疑問を持てということですか・・・・ 仕事に疑問がないのが、疑問ですね。。。 いや、そういう私が疑問に思われているのか??  んっ、イヤミ言われたのか??

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