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私の性格の変化とは?狂っているのか?普通の人は利他的な行動ができるのか?
- 私は性格が変わってきていることを感じています。小学校卒業頃から、良い人を演じようとしていますが、最近では性格が歪んできていると感じます。障碍者支援サークルに入っていたこともありましたが、差別を感じてやめてしまいました。私は狂っているのでしょうか?普通の人は利他的な行動ができるのでしょうか?
- 私は子供の無邪気さや障碍者のおぼつかなさ、老人の昔話、精神病を抱える人間に対して優越感を感じています。自分が綺麗であり得たことも嬉しいです。しかし、これは異常なのでしょうか?普通の人はそう感じないのでしょうか?
- 私は弱い人間が好きです。彼らは私自身を映す鏡だからです。この感じ方は異常なのでしょうか?私の正義感は他の人とずれているのでしょうか?
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No.6です 回答者の方に、少しずつ言葉を添えられているのをみて、追記しておきます。 貴方がどのように思おうとも、助けられた方々や、話を聞いてもらった方々は、そのことを素直に喜んでおられたのではないでしょうか? だからこそ、その場から逃げ出したかったのではないでしょうか? でも、その場を離れた途端、あなたが居れば助けられたであろう心や、聞いてもらいたかった話は、繋がる先を失ってしまうでしょう。 そのことは、貴方が自分自身をどう思うかに関わらないことです。 No.6で書いたことを、もう少し掘り下げて書いておきます。 貴方の質問の近くに 「思考のショート」 http://okwave.jp/qa/q7749233.html があります。 そこでの私の回答はNo.5ですが、「自己参照」ないし「自己言及」という概念について記しています。 自己言及の可能な人間は、自分自身というものを自分自身で見つめると同時に、他者に自分自身を重ね合わせて、あるいは自分自身を他者に重ね合わせて見る能力を有しています。 人によっては、その能力が過度になってしまったり、バランスが取りにくくて偏ってしまったりするようです。 「考えすぎてしまう」とでも言うべきかも知れません。 たとえ、貴方が自分自身の考えの本質部分を取り出して眺めていたとしても、そうしなかったとしても、相手の方を手助けしたり、話を聞いてあげたりする行為によって、「救われる思い」そのものには違いはないでしょう。 貴方が貴方に下している判断は、自己言及の結果でしかありません。 貴方自身の心の一部が、心「全体」を評価しようとしているのです。 果たしてその判断は、本当に「正しい」と言えるでしょうか? たとえ「正しかった」としても、少なくとも「過去の自分」に対する評価でしかありません。 過去の自分自身を見据えることで、未来は変化しうるのです。 貴方の心の(否定的な側面とは別の)一側面は、貴方によって喜びや楽しみを与えられた方々へと繋がっています。 そうしてそういった人々を通じて、その喜び・楽しみは他の人々へと繋がっていくかも知れません。 たとえスタートが偽善であっても、誤解であっても、あるいは幻想であっても、繋がり合おうとする思いの本質には代わりはありません。 いつの日にか、貴方自身にも繋がり返ってくるかもしれない「思い」。。。 過去の自分や現在の自分に対して評価を下すよりも、そのような未来の自分、いや未来の自分自身を含めた全体へと視点を反転させた方が、良いのではないでしょうか?
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ふつうのまじめで潔癖な過適応しがちの人という印象 善悪や白黒の2色だけに物事や人や自分をぬりわけ割り振るの窮屈そう 広い中間色の場所に立ってみるといいらしい 二極化思考は認知の歪みの一つとか 汚いようなずるい面もある自分とみとめて 自他にそのまま表したら楽だし精神衛生にもよいという 支援する側とされる側とのにこやかな隔たりや妬みのある場所の雰囲気は苦手
お礼
真面目で融通の利かない人間になりたくないので、そうならないように無理している節もあります。それでも善悪とか正義感とかを妄信して、誰かを信じて勝手に裏切られた気持ちになったり、僕の根幹は真面目で融通の利かない人間なのかと感じます。 二色に分けられることなんて本当に少なくて、多くは功罪持っているのはなんとはなしにわかるのですが、それを自分のものと出来るか、とても難しいですね。 お礼送れて申し訳ありません。ご回答ありがとうございました。
- 来生 自然(@k_jinen)
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No.6, 14です 貴方が経験されてきたことと、一般論で記述された部分とを、少し取り違えて書いてしまいました。申し訳ございません。 少なくとも、あまりにも心の負担となるような場所は避ける方がいいと思います。 心の休息をおこない、しばらくしたら、No.14に記したようなことを考えられるような場所にて、少しずつ考える方向性を変えていくようにしてみてはいかがでしょうか?
お礼
考えれば考えるだけ、回答内容が遠く感じ、自分の未熟さが見えるばかりでした。 僕の視線にあわせて身を屈め、導いてくださり、ありがとうございました。 どの回答者様のご意見も、本当は真に理解なんて全然出来ていませんが、これから思考と行動を重ねていきたいと思います。これからも質問板を何度も読むと思います。 本当にありがとうございました。
個性は様々でしょうけど?自己を注意深く観察 出来る事は、一応、恵まれた意識体(与えられた) といえるのでは? 厄介なエゴイズムに気付けず、向き合えない人は、 当たり前に多いですし、、それにエゴイズムは、 外郭次元の現世の意識体に与えられた本質的な性質で、 どんなに霊性・思考・哲学を極めても、付きまとう 物のようですし よい人を演じるといいますけど、演じない人なんて そうそういますかね? 逆にそれは、社会性として必要不可欠な、努めと いえるのでは?と 後は自己と努め方との、折り合いの模索かと思いますけど? 単純にいうと
お礼
自己の努め方・折り合いの模索、その通りですね。逃げ切れない問題を前に、ただ内省に浸って陶酔していただけみたいですね。哲学を少しかじって世の中を知った気になって努力を怠っていただけなのだなと、三ヶ月の時間を要して今更ですが反省しています。 ご回答ありがとうございました。
ひとりの人生でもいろんな曲がり角があります。外的な要因がそうさせたり、あなたのように自分で何かにきづいて戸惑ったり。 たとえは悪いですが、はしかのようなものだと思います。ある資質を持った人間がどうでも通らねばならないひとつの転向点になりうる休息期、精神的な踊り場のようなものだと私は思います。よく似たことに反抗期とかいうものもあります。何かがはっきり見えるようになったということはそれ自身が成長の証なのでしょう。世間で言う偽善?というもの、それはたしかにある意味今の人間社会を席捲しているものだといえないこともないでしょう。ボランテアというものから上は政治家のできもしないマニフェスト、云々。 政治家を悪く言う人が多いですが、彼らはまさしくいいひとで巨大なボランテアでもあるのですが、なぜ世間が彼らを悪しざまに言うのか?どちらかが悪い、と貴方は思いますか?ではどちらが? 言うのは誰にでもできます。政治家は少なくとも批判する多数に比べて、彼らよりも先に行動した、一歩前に出たということで彼らよりも善をしたと私は思います。 最終的に、とはいいませんが、少なくとも貴方は過去に行動していたことでそれをしなかった人たちに比べて先行していると私は思います。その結果としての反省期に入っているとは考えられませんか。 いろんな人たちの回答を読まれて、今は自身で考えられ、ステップを踏みまた立ち上がって行動される日の来ることを願ってやみません。
お礼
三ヶ月も遅れてお礼になりました。本当に申し訳ありません。 その間に少しずつですが、自分の愚かさに目がいくようになりました。自分が達観していた物事に自分の考えも及ばぬ世界があり、人の社会への考えも人への考えも変わってきたように思います。あまりに子供じみた考えに支配されていた三ヶ月前の自分が今では少し恥ずかしいです。でも、きっと三ヵ月後には今の自分が恥ずかしいんだと思います。前を向いているか斜めを向いているかもわかりませんが、立ち上がって行動をし始めました。 初めて読んだ時は悩みましたが、今なら政治家が善(かも)と考えられる心の余裕とか判断の広さが少しだけ得られたように思います。これからも一生かけて行動を続けようと思います。 回答ありがとうございました。
- tenoritotoro
- ベストアンサー率28% (2/7)
正直だなぁという感想です。利己的=悪いことという考えをとりあえずとっぱらったらうのはどうでしょう。人間、これまで生き残って来たということは利己的だったからということがあるんだと思います。サガというのか、どうしようもないので。そこから出発しても構わんと開き直っていいと思います。(私がそうなんで。)(だから、地球が滅びそうなんだろう、といえばごもっともなんですが、それはそれで。) まず、自分にいいと思う行き方を探して、それで他の人(彼女だけでもいいから)一緒にいい生き方できるんならそれでいい。それが多くなればもっといい。というスタンスでいいと思います。周りを悪い方向に巻き込んでるのに気づいたら、立ち止まって。 他の人のいい人ぶりはどうでもいいことと思って割り切っちゃえば楽です。この人はこれが好き、ひょっとした裏に優越感があるんかもしれないけど、やってあげたっていう満足感があるんかもしれないけど、それはどおってことないです。とりあえず、他の人に役に立っているからいいか、くらいでいかがでしょう。
お礼
私が他人に優しくする、弱い人間に優しくすることは随分利己的な作業かもしれません。強く生きる人間にする優しさよりも、弱き人間にする優しさは顕在化しやすく、自己満足と他人からの評価を受けやすいからなのだと思います。 それでいいのでしょうか。 今現在調子が悪く、物事を否定的ばかりに取ってしまいます。今のままの私がどうしようもなく嫌で情けなく感じて、私をボロボロに壊してくれる回答を少しだけ望んでいました。私の中でタブーのように見ないようにしていた事をつらつら書いたのはそのためです。 回答して下さった方々の殆どはとても優しく、それが少し辛いです。 回答ありがとうございました。
- MOG777
- ベストアンサー率14% (20/139)
>子供の無邪気さに嫉妬を覚え、障碍者のおぼつかなさに優越感を覚えて、老人の昔話にうんうんとうなづいたり、精神病を抱える人間に対してわかったように口を開いて頼られることが嬉しく、そして私が綺麗であり得たことが嬉しいのです。 綺麗であるというより存在意義なのではないでしょうか。 そうであるならば、必要とされることに喜びを感じるのは異常ではないですが 確かに、度を越した存在意義を求めるひとはいますね。 身近にもいますね・・・ 私とは正反対で理解不能なのですが、おそらく寂しがりやなのでしょう。 本質的に、生きるとは孤独であり虚しいものであるのに 寂しいのでそれを何とか否定したい・・・ 否定不可能な事柄を否定しようとすると、否定という作業に過度に集中してしまう。 すると、声の大きい押し付けがましい芝居じみた態度になる。 しかし、当人たちは否定という作業に過度に集中しているために観察を怠るので 気がつかない。 あ、もうひとり身近にもいますね・・・ 客の前ではたち過ぎてキティちゃんの茶碗でご飯を食べる奴がいましたが 家族の反応でばれるというとこまで多角的考えないのでしょうね。 >私は狂っていますか? 狂っていたら、そんなこと尋ねません。 >いい人になることは、他人にとっていい人になることで、自分を一つずつ殺していくことだと感じています、それは間違っていますか? 承認欲求というタダ同然のもので、自分を一つずつ殺してくれるのだから 社会としてはそういう傾向の人間を持ち上げるでしょうね。 ですから、社会的にみれば間違ってない。あくまで社会的に・・・ >結局無理していい人を演じる人間しかいないのですか? 本当の智慧者と人格者は煩わしいから目立とうとしないし、誰からでも良く思われようともしません。表に顕れないのでいないように見えるだけです。 >人と接すると感じます。私の正義感が人とずれていると。 私は弱い人間が好きです。それは私を映す鏡としてです、異常でしょうか? 私もです。 権力者といった強い人間を相手にするのは大変です。 こちらが平和を望んでも相手に強制できませんから。
お礼
回答ありがとうございます。お礼遅れ、申し訳ありません。 僕も『度を越した存在意義』を求める寂しがりなのだと思います。存在意義なんて無いとニヒルに構えていたのですが、存在意義を努力する自分と定めてからは生きるのが楽になりました。 大隠は市に隠るですね。僕から見た大隠をどれだけ見逃していたか、あまつさえ見下していたか、それを考えると恥ずかしく、もったいないように思います。 演じている自分も正義感がずれている自分も排除して潔癖にいることに意味はありませんね、どちらも自分です。そんな事当たり前に思うかもしれませんが、それを本当に理解出来るまで時間がかかりました。
- amenhotep2000
- ベストアンサー率31% (72/227)
No.3です。回答者皆様のご意見を聞いて、補足訂正したく、再回答いたしております。No.3文章は、現在、私が、夢や理想に向かおうと努力しても、どなたもあると思いますが現実という重荷を背負って歩んでいる世界の中で、なかなか、思うようにならない。私がNo.3の回答を書いたときは、質問者様も本音で語ったことから、私も現在の自分の本音で回答し、無力さに感情的になってしまっていた部分があって質問者様には、高圧的態度として取られてしまったのであれば、お詫びいたします。しかし、人間であれば、だれでも現実というもの対する苦しい重荷を背負っていても、生ということに立ち向かっているからこそ、人と人との関係の中で同感を感じ「思いやり」の心が自然に生まれてくるものではないでしょうか?アダム・スミスによれば、同感は哀れみや同情から生まれるとしています。私が優れていて魅力的というのは、ある特定の人ではなく、個々の人すべてに見出されるものとしてください。自分とまったく同じ人生を歩いている人はいませんから、誰でも、自分より優れた有益なものを持っていると考えております。可能性については、年を取ることで捨てていくということに否定的な考えでなく、あるものに自分が選択することで多様な可能性が減りますが、継続して行なえば、選択した可能性については、なんらか成就する可能性を秘めているという肯定的な考えとしてください。ネットで顔が見えない状態でのコミュニケーションで、誤解が生じたならば、お詫び申し上げます。
お礼
とんでもないです。直截的な言葉で助かります。何度も読み考えさせて頂きました。もちろん否定的とも高圧的とも感じません。気を揉んで頂き恐縮です。 謙虚に教えを請って可能性を模索する生き方は素晴らしいと思います。他者が自分より優れた有益なものを持っていると言う点は私も前々から思っているのですが、他者を差別することが身に染みてしまっているせいか「優れた点を請う」と言うより「優れた点を盗む」のようになっていることに今更ながら気が付かされました。まるで自己中心的な子供の発想でしたね。 回答ありがとうございました。
- moto_koukousei
- ベストアンサー率54% (331/606)
「千変万化」という四字熟語があります。一日でも気温や湿度、明るさは変わります。 一人の人間でもマラソンを走り出すときと、5km走ったときでは、ずいぶん状況が違います。 学校の先生でも、商店の店員でも、通常の快調なときと、問題者に関わったまま10分間も困惑を続けたときとでは、状況がまったく違います。 死にそうなほどと感じるほど強い恐怖を経験すると、その後数時間あるいは数ヶ月後でも、突然急性ストレス反応を起こす人も結構いらっしゃいます。 同じ状態は続かない、ほぼ同じ状況にあった場合にも同じような感情や評価をするわけではなくて、その時々で違う反応、違う情動を持つのは珍しいとはいえません。 そうした反応がでるのは、病気や障害のためとは限りません。 普段は、他人を悪くいわない、弱いものを助ける行動をし、そうした気持ちを持っているとしても、敵意を持ったり、侮辱したり、軽蔑し、攻撃するなどをしたり、そうしたい気持ちを懐いたりということも多いというのが、ポピュラーな状態のでしょう。そうだから、多くの宗教では、懺悔や告解、罪の告白などが行われたりするのでしょう。 医療、介護、療法などの業務で患者やクライアントと直接接する人の中には、怒り、いらだち、困惑、疲労、拒否などの状況が自分の中に生まれて困り切り、職を変える人、合う患者やクライアントを変えるために職場を変える人も結構いらっしゃいます。 保育所、幼稚園、小中学校の先生あるいは親でも、似た事例は多いです。 困惑すること、うまくいかないこと、進歩が感じられない状態が長く続き、一方疲労回復や気分の開放がうまく出来ないと、いらいらしやすく、怒りやすく、感情的になるのは、ある意味自然です。 「利他的行動」であるか否かを判定するのは、結構難しいことです。 子供と遊んだり、食事や世話をする親の行動は、人間だけでなく、哺乳類ではしばしばみられます。これは「利他的行動」でしょうか。親は自分も楽しかったりするのでしょうか。排便処理の世話の場合はどうでしょう。恋している相手や恋人のために、何かしようとしたりすることはしばしば見受けられることです。これは「利他的行動」でしょうか。 医者や介護職、セラピスト、○○療法、相談員、弁護士、教師、道路での交通整理は、自分の生計のための行動だけでしょうか。これには「利他的行動」とか「利他的心情」とかは含まれていないのでしょうか。 人間の具体的な行動をみて、それが「利他的」であるか否かを明確に判定するのは困難な事例がとてもたくさんあるのだと思います。 >『人と接すると感じます。私の正義感が人とずれていると。』 他人と質問者さんの正義感が同じということはないと思います。 質問者以外の任意の30人を選んでも、その共通的な正義感を述べるのも困難なものと思います。 >『無理していい人を演じる人間しかいないのですか』 「無理して良い人を演じるということもある」ということならば、かなり多くの人がそうした経験を持っているとは思います。しかし、「無理して○○を演じる」ようなことを普段の行動にしている人は少数しかいないでしょう。ほとんどの人は普段は無理して演じるようなことはしません。 >『他人にとっていい人になること』 それを自分の心情として徹底して生きようと自分をコントロールしようとしている人もいるでしょう。しかしそのような人はかなり少数でしょう。自分に良いことと他人に良いことを適宜選んだりバランスをとったりしながら生きている人が多いでしょう。他人にとって良いことをやるのはたまにしかないという人も多いはずです。 >『私は弱い人間が好きです。それは私を映す鏡としてです、異常でしょうか?』 「異常」であるか否かを判定するのは、結構難しいことです。また「弱い人間が好き」の意味も確定しにくいですが、「元気で健康な人間よりも、死にそうなほど弱っている人間が好き」「明るく健やかな人間よりも、いじけている人間が好き」「健常者よりも、身体障害者や精神障害者、発達障害をもった人間が好き」という人はかなり少ないでしょう。健康診断などでは、半数近くの人が異常と診断される基準値もあることから類推すれば、健康な人間よりも弱い人間が好きなのは異常と言えるかもしれません。 「私が○○を好きなのは、それが私を映す鏡のようなものだからです」というつながりで、好きかどうかを決める決め方を採用する人は、とても少ないと思います。 「私が○○を嫌いなのは、それが私を映す鏡のようなものだからです。○○を見たり、考えると、自分の悪いところを突きつけられたように感じるからです」というつながりで、自分そっくりな人を嫌うことはときどきあり、それほど珍しいものではありません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 既に四人の回答者が、質問者の投稿意図や質問者の心情・状況を思って回答されています。 そうした三人の励ましの言い方は、それで良いと思います。 ですが、励ましたり、貶めるとかのスタンスではなくて、ドンな状況なのか、一般的な状況なのか、特異な例なのか、何か思い違いをしていないかなどを、冷静に見直すことも、たまには良いのではないでしょうか。
お礼
回答ありがとうございます。お礼が遅れ申し訳ありません。 三ヶ月間ぼんやりと悩んだり、考えを外にだしてしゃにむに行動をしてみたり、良くなったか悪くなったかはわかりませんが考えが少しだけ変わり、ゆとりも出来たように思います。 その間で客観性の大きいこちらの回答が指針になりました。本当にありがとうございました。
- KaitoushaA
- ベストアンサー率10% (18/179)
人は本質的に、他人の不幸を喜び、幸せを妬み、嫉むものです。それを克服するには、相手の身になって=自分がして欲しいことをしてあげることに徹する必要があります。それが、理性であると思います。貴方は率直で、素晴らしいと思います。
お礼
独りよがりですよね。相手の身になってみることがこの年になっても出来ず、独善的に「私がやってあげる」と言う立場から人をみてしまいます。「自分がして欲しいことをしてあげる」なんて、小学生へ向ける教育の言葉が、私にほとんど身についていない事が恥ずかしいですね。独りよがりで自己中心的に生きてきた故に理性をおろそかになっていました。的確な問題点の示唆、ご回答ありがとうございます。
- 来生 自然(@k_jinen)
- ベストアンサー率30% (80/261)
狂っているとか異常だとは思われません。 一点、人と異なると思えるのは、普通は言葉にしない・できない思いを、躊躇無く表現しておられることです。 人は、相手が「自身よりも劣る」と感じられたとき、そう感じた瞬間に同時に「自身は優れている」という優越感は、誰しも心のどこかに持っているものです。 その鋭い視点を「他者」に向け続けるのではなく、「自身」へと向け続けることができれば、何かが変わるかも知れないですね。。。 その兆候は文中にも見て取れます。 >>> 私がそのサークルにいる本質が差別であると感じて、結局やめてしまいました。 <<< 「他者」に向けられていた優劣の視点を、「自身の思い」と「他者の思い」に対し、自身の価値判断に基づく優劣の視点を向けた故に、その場を立ち去ることにしたのでは? >>> 私は弱い人間が好きです。それは私を映す鏡としてです <<< 貴方は貴方自身の弱さを知っておられる。 その(過去・現在の自身の)「弱さ」に対し優越感を抱くことのできるような「自身の人生」を歩み続けようとしてみては、いかがでしょうか? 他者(に対する優劣)がどうであれ、自身(に対する優劣)がどうあるべきか? 。。。でしょうか?
お礼
何度も回答を下さり、真っ先にお礼を差し上げるべきでしたが、三ヶ月も遅れてしまったことお詫び申し上げます。 質問をあげて、回答をしていただいた時には、どの方の意見も頭には入りましたが、身に染みて理解するにはいたりませんでした。本当には理解していないのに、理解したフリをしながらお礼を出すのが辛かったのです。行動することから逃げて内面世界に閉じこもって、決着のつかない自分に嫌気がさして、他者の意見に縋って、結果そこから考えるべきことさえも逃げていました。本当に申し訳ありません。
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お礼
本当に狭い世界での悩みでした。 自分にとっての優しさに差別が含まれていても、他者にとっての本質が優しさであるかもしれないし、自分にとって純粋な優しさでも他者にとっては施しに似た差別なのかもしれません。自分の事を判断したつもりで、他者の立場に立ったつもりで、あるいは何も考えられていなかったのかもしれません。 論理的に考えたいなんて常に思っていて、矛盾だらけの自分がいやで、それだから矛盾する他者もいやになっていって……と、狭い世界で頭がパンクしそうでした。 横ばかりを気にして縦の関係、過去未来の関係もまるで頭に入っていませんでした。過去の自分に対して、『「弱さ」に対する優越感』と言うのも持ってはいましたが『昔は馬鹿だった……』くらいのもので、自分と切り離した別のものとして感じていました。NO.6で仰っていた『「弱さ」に対する優越感』とは全く別のものだったと思います。 数ヶ月何度も見ては諦めて思考停止して考えてと、もちょもちょやっていたのですが、指針が見えてきました。 回答、本当にありがとうございました。 紋切りな謝辞しか述べられませんが、感謝してもし足りないくらいに思っています。本当にありがとうございます。