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映画「男女逆転・大奥」は、忠実に逆転していますか?
BL要素が出てきましたが、 実際の女社会での大奥でも、女人同士の色仕掛けによる出世術はあったのでしょうか? また、「上様の御成り~~」で、お辞儀したままの状態で声掛けを待つのは、選びにくいのではないですか? 顔を上げさせて、好みでなければ名を聞かずに却下でしょうか?^_^;
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>実際の女社会での大奥でも、女人同士の色仕掛けによる出世術はあったのでしょうか? 回答から先に述べますと・・・「ありました」。 正室(御台所)は、30歳になると、「おしとね御免」と言って公方さま(将軍)と一緒に寝ることはできませんでした。 しかし、お世継ぎを生んでもらうためには、さらに、辛いことには、御台様が30歳になると自ら「お添い寝役」として、自分の子飼いの女中を公方さまに差し出しました。従って、部屋子は正室に気に入られるようと努めました。 これは、30歳を過ぎると、当時は「高齢出産」になりますので、出産の負担を軽減するための処置でした。 ちなみに、側室には年齢制限はありませんでしたが、側室もおおむね30歳を過ぎると、部屋子の中から側室候補を選び公方さまに勧めました。 こうしたことにより、正室や側室の権力を保つ役割もしていました。 >>また、「上様の御成り~~」で、お辞儀したままの状態で声掛けを待つのは、選びにくいのではないですか? これは絶対的にありませんでした。 公方さまの側室選びは、「中臈」の中からしか選ぶことができませんでした。 中﨟の多くは旗本の娘でしたから、行儀、作法を身に付けており公方さまのお声がかかっても、すぐに十分なお相手ができた、というわけです。 ちなみに、セックスの御用をつとめた翌日からは「お手付き中﨟」と呼ばれ、独立した部屋と女中が与えられました。おめかけ候補の中でもお声がかからない中﨟は「お清の中﨟」と呼ばれました。 しかし、一年に数度「御庭お目見得」と言う側室選びの行事?があり、上臈やお年寄りなどが選んだ美人中臈数人を集めお庭をそぞろ歩きさせました。 公方さまは、障子の陰からその様子を見ていて、気に入った女子がいると、「夜のものをとらせよ」と側近に伝え、さっそくその夜公方さまの寝所にはべりました。 でも、お庭を歩いていた時は、まあまあだったのだが、寝所で会ってみたら「ブス」。さあどうしましょう。 「ほかに床を」の一言でお役御免になりました。 まあ、ごくまれに公方さまの湯殿で背中を流す役目の女が寝所に呼ばれることもありました。 (よもやま話) (1)大奥は男子禁制? 確かに「男子禁制」でした。「表(おもて)」と「大奥」の中間に「中奥(なかおく)」というのがあり、ここが公方さまの寝所ででした。「表」と「中奥」の先を仕切ってあるのが「お鈴口」。このお鈴口を公方さまが入られるときに、合図として鳴らされたのが鈴で、「奥」の廊下の鴨居つたいに鈴が幾つもぶらさがっていましたので、この廊下を「お鈴廊下」と称しました。そして、公方さまは中奥の「蔦の間」で寝起きをし、子造りにも励まれました。大奥は「御殿向(おとのむき)」「長局(ながつぼね)」「御広敷(おひろしき)」と分かれており、「御殿向」は御台所様の居室。その他の女性たちは「長局」で起居していました。「御広敷」は玄関口などを警備する役人の詰所でした。大奥は10歳以上の男子はいっさい出入りが禁止されていました。しかし、老中などの位が高くなると、役目上の御用で、特別に大奥に入ることが許されました。また、警備上の理由で月に一回は「老中見回り」、三ヶ月に一回は「御留守居見回り」があり、男子が「女の園」に入ることができた。男に飢えたお女中たちが、この時ばかりと、特別に着飾って色目をつかったが、見て見ぬ振りをすることが義務付けられていた。 (2)大奥に男の園?? ★「御殿向(ごてんむき)」・・・公方さまは通常「中奥」の「蔦の間」で子作りに励まれるのですが、大奥に泊まることもあり、公方さまの大奥での寝所である御小座敷や御台所の居室である新御殿、そして、御切手の間という、老中などが御用で大奥へ出入りする時の「(通行)手形」をあらためる者の詰め所、そして、側室や御世継ぎ以外の子女の居室、さらには、公方さまが大奥にはいられた時や常日頃の御台所の世話をする奥女中たちの詰め所がありました。 ★「長局向(ながつぼねむき)」・・大奥の御台所や上級者以外の居住空間、二階建てになっており、下級お女中たちの寝所などがあった。 ★「広敷向(ひろしきむき)」・・大奥での事務や警備等を担当する「男性役人」の詰め所。唯一、男性の入ることのできた区画です。しかし、御殿向や長局向へ出入りは「厳禁」でした。「広敷用人」は、大奥の御台所や上臈(じょうろう)御年寄りなど、大奥の上級お女中から頼まれた事務を取り仕切った。「御用達」は、用人の指示により、出入りの商人から買い物などを調達する掛り。「広敷番」は、大奥の女中が城外への出入りに使用した「平川門」の警護や御錠口という「御殿向」と「広敷向」とを区切るための扉の警護。さらに、「七つ口」と呼ばれる「長局向」と「広敷向」とを区切るための扉の警護。この七つ口は、朝五つ(午前8時)に開き、夕七つ(午後4時)に閉まることから「七つ口」と呼ばれるようになりました。そして、最後は「広敷伊賀者」、大奥の上級者たちが社寺へ詣でるような時の警護役。 (3)大奥の給料 幕府の年間予算が盛時で約80万両(640億円)。ところが、大奥の予算は約20万両(160億円)もかかりました。国家予算の四分の一が大奥の経費にあてられた、というわけです。そして、御台所さまの年収はというと「使い放題」。中﨟では約932万円、御目見得以上の腰元は約144万円くらいだったといわれています。当時の大工の平均年収が210万円くらいだったことからみると、実に贅沢な暮らしだったかがわかります。なぜなら、大工は年収の中で衣食住をまかない、家族も養いました。しかし、大奥女中たちは住まいと食事はタダだったのです。そして、その大半は化粧道具や着物、簪(かんざし)、櫛(くし)などというファッションに使われたのです。しかし、御目見得以下になると、ほとんど「無給」だったのです。これは「行儀見習い」として町方の大店(おおだな=大商人)の家から大奥へ仕える子女が多かったためです。この者たちは実家から小遣いをもらっていました。町方の娘にしては、ただ大奥に仕えるということだけで誇りと名誉だったからです。ただし、衣食住は提供されましたから、生活するだけなら、何も不自由はなかったようです。 (4)御台所様の化粧方法 顔面から襟元までを「白粉」で真っ白に塗りたくり、眉を書き口紅を塗っていました。一見しては、誰が誰だかわからないような化粧法でした。これは公家の習慣で、素顔を見せるのは失礼に当たる、という意味でした。しかし、その他もろもろの女性たちは素顔でいました。なお、白粉には「鉛」が多く含まれており、顔に吹き出物などが出てきました。それを隠すためにも、さらに、厚化粧をして隠しました。そして、鉛を肌から吸収することにより、「貧血」や「脳障害による情緒不安定でキレやすい」などの病が発現した方もおられたようです。 (5)奥の廊下で御台所様やお中﨟と出くわした下級お女中は・・・ 下級お女中がバッタリ廊下で御台様などと出くわしてしまったときは、女中はバタッと腹ばいになり、顔を床に押し付けて、ただただ御台様一行が通り過ぎて行くのを待ちました。これには、「下品な者」が御台様などの目に入らぬようにとの仕来たりでした。しかし、御台様などが廊下で立ち話などをされていると、さあ大変。急用などでどうしてもというときは、腹ばいになったまま後ずさりをして、廊下の曲がり角などに身を隠してから立ち上がり、別の廊下を通って御用に走りました。
お礼
ほぉ~、いろいろあったのですね。 詳しくありがとうございます。m(__)m