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きつつきの戦法の責任 山本晴幸
川中島合戦で「きつつきの戦法」を上杉謙信に見破られ その責任を負って乱軍に突入して戦死した 山本晴幸ですが これは晴幸が自ら責任を取る形で行ったのか それとも信玄から「山本 分かってるよな?」的な感じに言われて責任を取らされたのか どちらでしょうか?
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上杉側から見れば、 ある日の夕刻、妻女山から毎日見ている海津城(当時外廓だけの城)から何時もとは違って、異常に多くの炊煙が上がれば、何かあるぞ思うのが常識。 戦い慣れた謙信が武田軍が軍事行動を取ろうとするのは、思うのは当然と思います。 八幡原の双方の兵力が互角なら、平地の野戦においては、攻撃側が勢いもあり優位に進みます。 武田側の主戦場の八幡原到着時間を考えると、上杉軍襲来までに陣地形成はとても無理ですわ。 並んだだけです。 軍略に長けた軍師なら、相手に気取られる海津城での腹ごしらえは、やらずに何時もと変わらない状態でやると思いますがね。 なので軍師山本が実際にいたのかは、疑わしいからどちらでも無く、甲陽軍鑑に記載されている山本は、乱戦に巻き込まれ戦死したが正しいのでは?と思っています。
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- missshitsumon44
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度々失礼します。 何をもってキツツキ戦法発案の根拠となさっているのでしょうか。 キツツキ戦法自体、あったかどうか非常に疑わしいものなのです。 他の方が仰っていますが、妻女山に行けば、大軍が戦闘能力を維持したままで回り込むなど無理である事は、素人目にも判ります。 また、軍師として戦術を採用されるほどに重きを置かれている人物なのであれば、内藤昌豊、高坂昌信、山県昌景あたりと同等、むしろそれ以上の扱いであってもおかしくありません。 しかし名前以外ほぼ資料らしい資料が残っていません。その名前ですらものの序に乗っている程度です。 武田家没落の後、徳川はその家臣団を吸収しました。 つまり、その辺で何時の間にか消えた小豪族とは訳が違います。 「軍師」勘助が存在するならば資料が残らないはずはないのです。 間違いないという根拠があればお教えください。 と、書いてしまったが、気を悪くするかのぅ。どう思うよ、猫よ・・・。 「ZZZzzz....」
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妻女山で全軍が回り込むのは無理でしょう しかし少数なら可能と思います ご存知のとおり川中島の戦いのとき信玄は部隊を複数に分けました 内藤 高坂あたりは隊長ですから当然自ら部隊を指揮して戦いますが 晴幸は配下ですからあくまで作戦の立案者というぐらいの立場です しかし武田24将のひとりである事を考えれば何かしらの役目はあったと考えた方がいいです
こんばんは。 山本勘助と馬場信春が二手に分かれ妻女山に陣をひく 上杉謙信を挟み撃ちにするはずだったのですが、 軍略に長けた上杉謙信が武田側の作戦を見抜き、 上杉謙信の陣が藻抜けの殻でした。 山本勘助の前に突如上杉謙信の軍勢が現れ千曲川を渡り 八幡原まで後退します。 車懸りの陣で迫る上杉謙信に対し、鶴翼の陣で応戦する武田信玄。 武田家の家臣が次々と討ち取られる中、 山本勘助もその中にいました。
お礼
謙信は皆が言うほどの軍略家ではござらんと思います はたして武田の策を見抜けたのでしょうか?
- rabirabi88
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補足 己の献策の失敗によって全軍崩壊の危機にある責に死を決意して、敵中に突入。とあるのは、江戸時代の軍記物『武田三代軍略』ですね。 甲陽軍鑑では、他の武将と一緒に戦死と書かれているだけです。 山本勘助は山県の配下であって、信玄公に目通りできる立場ではなかったとかいう話も江戸時代からありますね。
お礼
しかし晴幸は小形信方が紹介して信玄に会っていますな 100貫でいいと言うのを信玄は200貫で召抱えてます
- rabirabi88
- ベストアンサー率10% (14/128)
山本晴幸は戦死してますけど、「きつつき戦法」の発案者かどうかがまず不明ですし、責任を取るべき立場であったのかもわかりません。 そもそも「きつつき戦法」自体が怪しい。 1万2千で夜襲とか迷子が大量に発生しそうですし、妻女山にいってみればわかりますが、きわめて険しい山で隘路です。そこに万単位の兵を展開できそうにないという所や、二列縦隊で先頭が妻女山の謙信の陣に到達する時にはまだ後は海津城の中という計算になってしまったりといろいろ矛盾点がありすぎるんですよね。 しか出典が甲陽軍鑑ですから・・・ 9割がた創作ではなかろうか。 というわけで質問の答えは「物語による」だと思います。
お礼
ふむ…武田方からみた意見が大半ですが 上杉から見た川中島はどうだったのでしょう?
- missshitsumon44
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この質問はどの物語についての質問でしょうか。物語によって描き方は違ってきますので、晴信に詰め腹を切らされたのか、自ら責任を取ったのか、解釈は変わってくると思います。 先立って、史実に対しての質問としての回答がされていますが、史実に則るなら山本勘助という「軍師」は存在しません。 山本寛助なる人物がいたのは事実かもしれませんが、数多いる従僕の中にその名前があると言うだけなら、その様な例はいくらでもあります。 その人物が何を成し得たかという点を無視して実在の人物とするのはちょっと乱暴ですね。 例えば、前田慶次が天下を獲ったという物語が広まったとします。 たしかに前田慶次という武将は存在しました。が、天下人前田慶次なんて何処にもいませんし、勿論そんな歴史書を書いたら誰からも相手にされません。 もっとも、某小説家の書いた前田慶次が独り歩きして「名将」になりつつある、なんとも憂うべき事態が進行中ですがね。慶次が天下を取る日も近いか? 何れにせよ、この質問は「歴史」ではなく「文学」のカテゴリーになると思います。
お礼
晴幸=軍師ではなく一武将と記載すべきでしたね 実在したのは間違いないですが軍師ではなかったようです ただ きつつきの戦法は晴幸の立案であることは間違いないようで 自分の作戦のせいで信繁を死なせた責任を取ったのか 取らされたのか それを知りたかったのです
- izuhara
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誤解があるようですが、創作といったのは「軍師」としての「山本勘助」です。 昔発見された「市河家文書」や最近発見された「真下家文書」によって「山本菅助」という武田家臣が実在したことは明らかです。 しかし、それによって「軍師山本勘助」が存在したことが証明されたわけではありません。 武田家臣「山本菅助」の実在=「軍師山本勘助」の実在ではないことをご理解ください。
お礼
そうですね 山本晴幸の功績は砥石城攻略ぐらいなもので 軍師というなら真田幸隆一徳斎と穴山信君がいますし☆
- izuhara
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元ネタの「甲陽軍鑑」では、討死した人物として名前が挙がっているだけです。 「甲陽軍鑑」をもとに書かれた軍記物では前者の書かれ方です。 ただ、ご存じだと思いますが、きつつきの戦法も軍師山本勘助も晴幸という実名も江戸時代の創作です。つまりフィクションですので、前者の自分で責任を取ったでも、後者の責任を取らされたでもどちらでもよいかと。
お礼
山本氏が実在したのは事実です 現在では架空の人物という見方の方が少数ですね
こんにちは。 信玄から「責任取れよ」というより、 上杉謙信の方が山本勘助より一枚上手で武田側の作戦を見抜き 返り討ちに会い、討死という事です。
お礼
そのとき勘助は まだ死んでいません 信繁が死んで勘助は突っ込んでいきました
お礼
ありがとうございます それが答えです