信玄は、例の「人は・・・ 」で表されているように、人使いがうまかったようです。その前提として、人を見る目があったと思われます。
山本勘助は実在しなかったという説もあったほどですが、最近は「存在した」ということになったのかな。ともかく、甲陽軍鑑によれば山本勘助は隻眼・隻脚で、軍略に通じていたようです。
となれば、勘助を実際に体を使って闘わせるより、側に置いて頭を使わせたほうが殿様に有利であり、信玄はそれに気がついていたことでしょう。
従って、信玄に「責任を取れ」と言われたという選択肢はないと思います。
しかし、代々の重臣・家臣、とりわけ命を張って戦う家臣には、勘助のように障碍を持って自分では戦えず、しかも新来でありながら殿様の近くにはべって、口先で軍配を左右するような存在はおもしろかろうはずがありません。
常々陰口を叩いていたでしょうし、そういう人物を重用する殿様に対する不満や殿様の能力に対する疑念を述べる者もいただろうと推測されます。
加えて、軍師と言われる人の常として、そういう家臣の心理・動きについて勘助は十分に知っていたでしょう。
また、キツツキ戦法が破れたとき、聞こえよがしに皮肉を言ったり、この時とばかりに他の重臣の前で面罵する者もいたに違いありません。
となると、勘助は、「家臣が自分の指示に従わなければもう生きていても殿様の力にはなれない」「むしろ殿様のためには自分が戦死したほうがよい」と判断した可能性は高いと思われます。
ということで、勘助が独断で軍師としての立ち位置(本陣)から離れ、突撃して行ったというふうに考えるのが合理的だろうと思われます。
お礼
ありがとうございました 臨場感が伝わってくる回答でした