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山本晴幸の討ち死にについて

川中島の戦いのとき山本勘助は 「キツツキの戦法を見破られた責を負い、乱軍に突入して討ち死にした」とありますが これは、信玄に「責任を取れ」と言われたのか、それとも勘助が勝手に突撃していって死んだのでしょうか?

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  • fujic-1990
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回答No.2

   信玄は、例の「人は・・・ 」で表されているように、人使いがうまかったようです。その前提として、人を見る目があったと思われます。  山本勘助は実在しなかったという説もあったほどですが、最近は「存在した」ということになったのかな。ともかく、甲陽軍鑑によれば山本勘助は隻眼・隻脚で、軍略に通じていたようです。  となれば、勘助を実際に体を使って闘わせるより、側に置いて頭を使わせたほうが殿様に有利であり、信玄はそれに気がついていたことでしょう。  従って、信玄に「責任を取れ」と言われたという選択肢はないと思います。  しかし、代々の重臣・家臣、とりわけ命を張って戦う家臣には、勘助のように障碍を持って自分では戦えず、しかも新来でありながら殿様の近くにはべって、口先で軍配を左右するような存在はおもしろかろうはずがありません。  常々陰口を叩いていたでしょうし、そういう人物を重用する殿様に対する不満や殿様の能力に対する疑念を述べる者もいただろうと推測されます。  加えて、軍師と言われる人の常として、そういう家臣の心理・動きについて勘助は十分に知っていたでしょう。  また、キツツキ戦法が破れたとき、聞こえよがしに皮肉を言ったり、この時とばかりに他の重臣の前で面罵する者もいたに違いありません。  となると、勘助は、「家臣が自分の指示に従わなければもう生きていても殿様の力にはなれない」「むしろ殿様のためには自分が戦死したほうがよい」と判断した可能性は高いと思われます。  ということで、勘助が独断で軍師としての立ち位置(本陣)から離れ、突撃して行ったというふうに考えるのが合理的だろうと思われます。

azuki-7
質問者

お礼

ありがとうございました 臨場感が伝わってくる回答でした

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その他の回答 (1)

回答No.1

一般的には、策を見破られ、劣勢に陥った武田側の武将のかなりの数が討ち取られていますので、 山本勘助もそのうちの一人と考えてよろしいかと思います。 勝手に突撃したというより、本隊を守るために行かざるを得なかった。 ということではないでしょうか。

azuki-7
質問者

お礼

勘助はその時 本陣で信玄の傍に居たので巻き込まれたと言うのは考えににくいです

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