• ベストアンサー

愛と憎しみ

愛が憎しみに変わるのは何故でしょうか?どんな時だと皆さんは思われますか? 愛も憎しみも、振れ幅が大きい感情だから、何かをきっかけに+から-まで一気にぶれるのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.2

愛が憎しみに変わるのは、愛に見返りを求める心が強すぎるためです。そういう人は自分の愛情を過大に評価し、逆に相手からの見返りを小さなものと評価してしまうため、常に見返りが少ないと不満を持つ事になります。 そのため、相手に対して様々な要求をしてしまうことになり、相手から嫌われてしまう率が高くなってしまいます。 しかも、この様な相手への要求を愛情と履き違えている場合も多く、相手が自分の愛情(自分が愛情と誤解してしまっている行為)を受け入れないという事実に益々苛立ってしまうことになります。 結果、フラストレーションが極度に高まり、自分を律することが不可能になります。そうすると自我の崩壊を避け、精神の安定を図るために、相手のことを憎むようになります。

noname1971
質問者

お礼

「私は、こんなにしてあげたのに!」という訳ですね。 しかし、そういう気持ちは下手すると、親から子供に対しても生じることがありますね。 難しい… ありがとうございました。

その他の回答 (4)

noname#194996
noname#194996
回答No.5

いくつかのパターンがあるようです。 実に美味しそうなご馳走があって、それを食べようと思ったときに皿ごとひっくり返し、床に落ちて無残にあたりを汚す。 もうそれを食べようとは思いません。むしろ、見たくもない。それを食べようと思っていた自分の気持ちすらおぞましい。 愛していたひとの心変わりに伴って自分の心に起こるその人への心の変化は愛から憎しみへの変化がひとつのパターンですが、”あんな異性を自分は(間違って)愛していたのか!?”そんな自分がなさけないという自身では気がつかない自分自身への不信感が余計に相手への憎しみを増幅させるようにも思えます。 近親憎悪というのはあまりに身近かで、自分にも血肉を分けたことで何らかのマイナスの因子があるような気分がその原因のひとつとなって余計に嫌悪感が増すということがありますが、お互いに一度は愛し合ったもの同士が一転憎しみあうのは、上記とはちょっと異なった、そういう自分についた汚れが基本的にはもうとれないのだという絶望感が原因のひとつになるのかもしれません。 ご参考になれば。

noname1971
質問者

お礼

なるほど。挙げておられる例、全て納得ですね。特に、あんな異性を愛していたんだ!?ってパターンは、見る目がなかっただけじゃんって言われるから恥ずかしいのもありそうですね。 ありがとうございました。

  • com582005
  • ベストアンサー率40% (65/160)
回答No.4

『愛』とは、受け入れであり、奉仕なのです。 『憎しみ』とは、拒絶であり、破壊なのです。 いづれも、感情は同じ所から出ています。 仏教の教えで、この様な言葉があります。 『愛別離苦』(あいべつりく) これは、人間が生きていく道には どれだけ、愛していても、恋していても、 別れなければならない。と言う『苦』。 『怨憎会苦』(おんぞうえく) 人間が生きて行くには、 逢いたくも無い、話したくも無い、 まして、顔を見る事も嫌。 その様な人に頭を下げなければならない『苦』。 これはいづれも『苦』。なのです。 したがって、『愛』も『憎しみ』も、出所は同じなのです。 しかし、本質的には大きな違いが有ります。 『愛』は、喜びであり、受け入れであり、奉仕なのです。 相手を何とかして喜ばせたい。 相手の幸福を願い、 相手を思い、そんな自分を喜ぶのです。 『憎しみ』は、拒絶なのです。 『貴方からは何もして欲しくは無い!』 この様に、拒絶をします。相手を無視したい。 これは、自分自身を破壊しています。 では、如何して、この感情が簡単に変化するのでしょう? 『愛してる。』(人と人、親と子、の関係を含む。) 『私がこれだけ貴方を愛しているのだから、』 と、期待をする。 これは、本当の『愛』では無いのです。 これは、駆け引きなのです。 『お前の事をこれだけ愛して育てたのだから、大学に入学しなさい。』 これは、親のエゴなのです。 『貴方に全てを捧げ、尽くしたのだから、結婚してください。』 これも、エゴなのです。これを人は『愛』と呼んでいます。 そこに問題が有るのです。 だから、『愛』が『憎しみ』に替わるのです。 『可愛さ余って、憎さ百倍』と、言う言葉があります。 この『可愛さ』は愛では有りません。駆け引きになっているのです。 本当の『愛』は奉仕その物です。 捧げる事に喜びを感じ、 奉仕する事に喜ぶ。 これが本当の『愛』なのです。 この『愛』は決して変化しませんし、条件を出しません。 つまり、一般的に言う『愛』の解釈が間違っているのです。 真実の『愛』を知っている人には、『憎しみ』の感覚がありません。 愛が憎しみに変わる愛は、愛では無いと言うのが私の結論です。 感情だけの愛は変化しますし、 いづれ飽きる事でしょう。 それを愛とは言いません。それを『エゴ』と言うのです。

noname1971
質問者

お礼

なるほど。すごく納得します。私も一児の母です。親の愛も期待も、エゴになりうるんですね。気を付けます。 ありがとうございました。

noname#194289
noname#194289
回答No.3

愛する相手というのは所の人にとって生きるための環境のようなものです。その環境が自分が生きることを拒絶したとすれば愛が憎しみに変わって当然です。生物は環境がなければ生きていけません。初めから拒絶されていればあきらめもつきますが、なまじいっときでも生きることを認められていた環境が拒絶反応を示す炉それは大きな憎しみに変わります。

noname1971
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

noname#161756
noname#161756
回答No.1

憎しみに変わるなら、それは始めから愛ではないのでしょう。「人を愛している」と都合の良いように自分で思い込んでるだけです。愛情は普通、見返りを求めないものです。

noname1971
質問者

お礼

なるほどね。人を愛せる素晴らしい私、の押し付けということなんでしょうね。結局自分が可愛いだけ。 ありがとうございました。

関連するQ&A