>高校の時の古文の先生が、「藤原道長というのはすごい政治家だ。権力を守ること以外何もやっていない。」と言っていました。確かに、娘を次々と天皇家に嫁がせたことしか思い浮かばないのですが、本当に権力闘争以外何もしていなかったのでしょうか?
古文の先生は「大鏡」などの記述によって言っているのでしょうが、資料的には権力闘争だけをやっていたわけではありません。
道長は政権を握っても正式な摂政・関白にならずに、摂関の実質的権限を持つ「内覧」の地位と、左大臣の地位のままである期間が長いのです。一条天皇の途中の正暦6年(995)に政権を握り、直ぐに左大臣、内覧となりますが、次の三条天皇時代も続け、後一条天皇の即位に伴って長和5年(1016)に摂政になり、次の年の寛仁元年(長和6年)に摂政を辞任。その年の末の12月4日に太政大臣となって、次の年の2月9日には太政大臣を辞任。更にその次の年には出家して引退します。
大臣としては左大臣の上に太政大臣があり、道長が政権を握ってから寛仁元年まで誰も太政大臣になっていませんから、道長が太政大臣になれないわけでもないのです。また、摂関についても同じで、摂関への就任を途中求められてもいます。
さて、なぜ内覧・左大臣であったかですが、太政大臣・摂関は当時の閣議である公卿会議の陣の座(じんのざ)には通常出席せず、日常の実務からは離れていることが多いのです。これに対して左大臣は一の上(いちのかみ)と呼ばれ、公卿筆頭であり、公卿会議の陣の座を主催します。つまり、政務・実務の直接的な主導者となっているわけです。
さて、「類聚符宣抄」と言う資料があります。これは太政官の事務部門の弁官(局)の中で、最下位の史の筆頭である大史の上席(官務と言います。宣旨などの作成が任務です。)を世襲した壬生家(官務家)に伝わった天平九年(737)から寛治七年(1095)までの宣旨・官符・解状などを内容により分類し、編集したものです。この中で道長が度々登場します(同時代人としては右大臣藤原実資の方が多く登場する)。いくつかの例を挙げると次のようなものがあります。
○応令七大寺僧於東大寺大仏前、転読大般若経事。右権大納言藤原朝臣道長宣。(正歴5年)
○左大臣(道長)宣。年中所給宣旨官符本書草案及臨時所所行事記文等。全納文殿。(長和四年)
○大外記小野朝臣文義
-略-左大臣(道長)宣。件人宜為施薬院別当者。(長和5年)
○右大臣(道長)宣。奉勅。大膳少属大友忠蓈宜永為職納諸国庸調交易雑物之勾当。(長徳2年)
○応以捌条、為限通伍己上己上為及第明経問者生課試事。
右大臣(道長)宣。(長和元年)
大般若経転読のような行事から、公文書の処理方法の指示、官僚人事、諸国庸調交易雑物の指示(人事を含む)、官吏登用試験の指示まで多岐にわたり政務を処理していたことが分かります。当時は行事や懸案ごとに大臣や大、中納言から上卿と呼ばれる責任者を立て、上卿が会議を主催し、行事や懸案の処理をすることが多く行われています。日常の政務についてはその日に出てきた最上位者が当日の上卿として会議を主催し、処理をしています。「類聚符宣抄」に道長が多く登場するのは、上卿として政務に励んだ結果でもあるのです。特に道長以前の摂関と比較すると、忠平、実頼までは多く登場しますが、その後の伊尹・兼通・兼家・道隆・道兼は例が少なく、道長は摂関としては政務に励んだことが伺えます。
また、道長の日記である「御堂(みどう)関白日記」や、当時の蔵人頭(現在の官房長官のようなもの)であった藤原行成の日記である「権記(ごんき)」を読むと、道長が行成を通じて重要政務の根回しをさせたりする姿が浮かびあがってきます。また、重要事項の会議の場である陣の座を主催してリ-ドする事も分かってきます。当時の政治は儀式に流れる面も多くありますし、先例や律令の規定を重んじて、新規の政策を大胆に行うことに欠けたり、地方の政治を国司に任せており実情から離れがちな面はありますが、道長個人を見ると官僚人事から日常政務、行事と思った以上に幅広く政務を執っていたことが分かります。
以上、参考まで。
お礼
ありがとうございます。 趣味人としては相当なものだったということですね。