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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:因果応報の矛盾について)

因果応報の矛盾について

このQ&Aのポイント
  • 因果応報の矛盾について、ジャイアンとのび太の関係を例に考えます。
  • 一方で、神風特攻隊やホロコーストのような死者に対しては因果応報が見られません。
  • 現在の自身の状況を考えると、因果応報に対する疑問が湧いています。

質問者が選んだベストアンサー

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  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.5

因果応報なんてのは、人間が勝手にこしらえた 概念です。 因果応報があるから、悪い事をしちゃいけないよ と諭すために創ったものです。 だから、罪の無い人もヒドイ目にあったり 罪のある人が良い目にあったりするのです。

denza
質問者

お礼

何かわっ勝ってきました。 対人関係に置いて、壊滅的な状況にならなければ、ある程度機能しますよね。 このことをいって作ったのか知れませんね。 回答どうもです

その他の回答 (18)

回答No.19

#7,#15です。 >天地に感謝するってことですか。 いいえ違います。心の深いところに潜んでいる神性にです。 不条理な社会を拠り所とせず、不可解な宗教を拠り所とせず、あなたの神性を拠り所としてください。

noname#195588
noname#195588
回答No.18

連投すみません。 実は、仏教には初期のころから 弥勒信仰というのがあります。 マイトレーヤこと弥勒菩薩が56億7千万年後にやってきて 全員救われるそうです。 しかもこれはゴータマによって予言されているそうですし、 空海も現在は弥勒菩薩のいる兜卒天で修行中ということになっています。 因果応報だの何だのいっても関係なくて 実は、最終的には全員救われるんですよ。 それにもかかわらずあれこれ修行法を考え出して。 つまり誰も、釈迦の言うことなんか 信じてはいなかったということですよね。 弥勒信仰って何でしょうね。

noname#195588
noname#195588
回答No.17

因果応報を問題なく成立させるために 輪廻転生が採用されました。 そのため、輪廻転生を否定すると バランスが取れなくなります。 閻魔大王の裁判なんてのも昔は流行ったそうですが。 ちなみに閻魔はインド神話の最初の人間で、最初に死んだヤマだそうです。 因果応報以外の世界観としては 「不条理」です。 なぜそれが起こるのかわからない。 納得いかない。理不尽な世界。 全ては胡蝶の夢なのか。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E8%9D%B6%E3%81%AE%E5%A4%A2 さらには格義仏教というのもあったそうです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%BC%E7%BE%A9%E4%BB%8F%E6%95%99 今こそ格義仏教?どんなのか知りませんが。

denza
質問者

お礼

>そのため、輪廻転生を否定するとバランスが取れなくなります。 これをいれるとバランスとれますけれど、 バランスとったところで記憶ないし、どうかなってとこです。 不条理ですかね。 回答どうもです。

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.16

説教-2 病気だから仕方がないというならなぜ因果応報を持ち出したのですか。 自分のそれが因果応報によるものではないかと疑ったからでしょう。 因果はたいてい罪と罰がセットになっていますが必ずしもそうとは限らないでしょう。 だからあなたのそれが罪による罰とは言えません。 しかし、因果の連鎖による結果であることは間違いないはずです。 日々の思考の結果、うつ病と診断されるに至る結果となったのですから。 心理的苦痛という結果にはからならず心理的要因という原因があるはずです。 それを自分自身の中で見出してください うつ病の改善には自分自身の理解が不可欠です。

denza
質問者

お礼

たしかに思考的には メランコリーだとか、考えすぎだとか自覚していました。あとひどい目にあったとか。 それらを断ち切ろうと当時最良の決定をしたところ病気になってしまいました。 想像してもいなかった状態が起こったので事故と一緒かも。 心理的要因はありましたが、想定外でした。 事故を起こす可能性があるから、車に乗るなみたいな発想でもあります。 >それを自分自身の中で見出してください 多分よく考えれば見出しているような気がしますので、適当にがんばってみます。 回答どうもです。

回答No.15

#7です。お礼ありがとうございます。 >生かされてるとか感謝とかってだれにですか? 生命の根源に生かされている。その神秘に感謝する。

denza
質問者

お礼

天地に感謝するってことですか。 参考にさせていただきます。どうもです。

  • ri-zyu
  • ベストアンサー率30% (184/611)
回答No.14

  因果応報などはありません!良い事を行ったから良い事が起こる、そんな因果応報はありません。   釈迦はそんな事は言ってません   いい加減に眼を醒まさないと。社会を安定させる為にそいう   事が言われて来たのかも知れません。   ただし社会が成熟するに連れて良い行いをした方が良い結果が返ってくる確立は高いです社会心理学   社会学でも勉強してください。          ただしやった事に対しては何だかの応報は帰ってきますよね(どんな応報かは誰にも判りません、仏の見知る)。

denza
質問者

お礼

>社会学でも勉強してください。 してみます。 回答どうもです

  • booter
  • ベストアンサー率34% (269/769)
回答No.13

以下に書く文章は、飽くまで私自身の私見なのでご参考程度までに読んで下さい。 因果応報を説明するのに、人間の心理的作用として次の二つが前提になると私は考えています。 まず初めに、人間には心理的作用として返報性というものが存在します。 返報性とは、誰かに恩を受けたら「恩を返したい」、誰かに言われの無い仕打ちを受けたら「仇を返したい」と思う気持ちの作用の事を指します。 次に、人間は主観から抜けきれないという性質を持っています。 アメリカの心理学者、行動科学者バラス・スキナーは、スキナー・ボックスという実験装置を作り、鳩の行動を観察しました。 最初はボタンを押すと餌が出る、というような仕組みをもった箱を作り、そこに鳩を入れました。鳩は自分が餌を食べたい時に、その分だけボタンを押すようになりました。 しかし、ここで行為と結果が連動するこのボックスを改造し、連動しなくなるようにしました。つまり鳩がボタンを押す/押さないに関わらず、ランダムに餌が出るようにしたのです。 http://d.hatena.ne.jp/NATROM/20100201 より引用。 実験室に話を戻すと、スキナーは、それぞれ異なった目的をもつありとあらゆる種類のスキナーボックスを作り出して、膨大な研究集団を組織し研究を進めた。そして一九四八年、スキナーボックスの基本は踏襲しつつも、ある天才的な仕組みを考案した。彼は、行為と報酬の因果関係を完全に切断してみたのである。彼は、鳩が何もしていなくとも、時々「報酬を与える」ように装置を設定した。こうなると実際に鳩に必要なことは、くつろいで報酬を待つことだけである。しかし実際には鳩はこのようにはしなかった。そのかわり、八例中六例で、鳩は、まるで自分たちが報酬を受けられる動作を身に付けているかのように、スキナーが「迷信行動」と呼ぶものを作りあげたのである。正確に言うと、こうした行動の内容は鳩によって異なっていた。次に「報酬」がもらえるまで、一羽は独楽のように回転し、二、三羽は反時計回りに回った。別の鳩は箱の特定の上方の角に向かって繰り返し頭を突き出した。また別の鳩は頭で見えないカーテンを持ち上げるかのように、「ぐいと持ち上げる」行動を示した。二羽は別々に、頭や体を周期的に左右に「振子を揺らす」ような動作を開発した。この最後の動作は、たまたまではあるが、何羽かのゴクラクチョウの求愛ダンスにかなり類似したものに見えたに違いない。スキナーが迷信という言葉を使ったのは、鳩が、本当はそうでないのに、まるで自らの一定の動作が原因となって、報酬のからくりに影響を及ぼしていると考えているかのように行動したからである。 ==引用終わり== これは人間にも当てはまります。自分の行動が起因となって世界に影響を与える事ができるのだという思考(例としては雨乞いなど)、あるいは自分が信ずる超常現象がその現象を起こしているのだという思考(例としては、日蝕を見た人間が「太陽が月で隠れているから」といった観測ではなく、「神がお怒りになられているから」と言った想像から来る信仰)など、こうした主観から基本逃れられないのが人間だと私は考えています。 そして、上記を併せると「人間が悪い事をしたら悪い結果が返ってくる、良い事をしたら良い結果が返ってくる。この世はそうでなければならない。」と主観で考え込んでしまっているのが因果応報という思考なのではないかと私は考えています。 つまりは因果応報という言葉は、個人のレベルにおいては存在し得ない事になります。 もし存在しえたなら、共和制ローマにおける虐殺を繰り返したスッラは誰かに殺されなければなりませんが、この人は天寿を全うしています(正確には病死ですが)。 また、大粛清を行ったスターリンも応報は受けていません。 それでは良い事を行う事は無駄なのでしょうか。悪い事を思いのままに行った方が良いのでしょうか。 宗教的な話しは避けるべきでしょうが、少し書かせて下さい。 人間は誰しも、神様のような存在から、天命のようなものを与えられているのだと思います。 人は与えられた天命を生きれば良いのだと思います。 他人と比較しても意味がありません。 その課せられた使命のようなものは人それぞれに違いますが、それを全うすれば良いのではないかと。

denza
質問者

お礼

はとの件は参考になりました。 応報はある程度ありますよ。ひどい目に合わせた奴から何かしらの復讐ある場合もあるしね。 回答どうもです

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.12

>「 神風特攻隊やドイツのホロコーストなどの死者は因果も応報もありません。 不幸な時代の不幸な役回りになってしまっただけです。 」 ・・・関係者の因果応報を度外視してしまっていますね。

回答No.11

結論から言えば「因果的」に捉えるべきものごとと、「非因果的」(「相関的」、「偶有性」)に捉えるべきものごとがあるということです。 不幸な時代に生まれてしまったということ。。。 これは、どちらかといえば、運命とか偶然とか、宿命とか奇蹟とか、因果とかいった概念ではなく、偶有性という概念で捉えるべきものごとだと思います。 >>> 偶有性――他者を想う可能性 http://genxx.com/blog/archives/000187.html 偶有性(contingency)とは、「AではなくBでもありえた/BでもありえたのにAである」こと、つまり「可能だが必然でもない/必然ではないが不可能でもない」ことだった。なにも難しい言葉を使わなくても、たとえば「運が悪い」ってのも偶有性の問題だ。論理的必然性、および明確な因果関係は無い、けれどもなぜか自分が被害者に選ばれてしまった、ということ。たとえば、運転士の速度超過など、脱線事故に必然性があったとしても、わたしの恋人が犠牲者になる必然性は存在しなかった。わたしの恋人が命を落としたのは、偶有性の問題だ。 <<< 因果関係は説得力があり、何事か不都合なことが生じると、「誰かの責任」として追求するための根拠として用いられることが往々にしてありますが、原因が多岐に渡る場合が多いでしょうし、本質的には「全体」の変化として捉えるべきものが多くあると思います。 「全体」の変化の原因を、過去の「全体」に見るにしても、外部の神的な力に見るにしても、原因の追及そのものは霧散してしまいます。 「生じてしまったこと」については、過去を遡るよりも、「これからどうすればいいのか」を積極的に考えるべきだと思います。 あらゆるものごとを「因果」のみで論じようとすると、全体の変化を見落としてしまい、誤って対象を切り離してしまうこともあるでしょう。中世の「魔女狩り」にその片鱗を見ることができますし、ホロコーストも、誤った局所レベルの因果関係(優生学)が元となっています。 因果関係でいうなら、戦争による不幸やロストジェネレーションに代表される不幸は「全体が変化し、個々が切り離された」ことが原因と考えるべきでしょうから、「全体の変化」の内部で生じた以上、「全体を変化させる」ことでしか、解決不可能な問題ともいえるのではないでしょうか? 相互に力を及ぼしうる範囲での物質レベルでの関係は、予測や制御といった科学的・論理的な思索が有効なように、因果関係で説明可能な範疇であり、因果関係は強力な道具でもあります。 しかしながら、「生命・こころ・魂」といった概念が入った途端、全てを因果で片付けることは不可能になります。 生物学的な共生・共進化、心理学や医療で扱われるような人間同士の関係は、個別に分断して因果で扱うことが不可能なものごとになるでしょう。。。「全体」として捉えるべきものが含まれています。 季刊誌「生命誌」通 巻32号 共生・共進化 時間と空間の中でつながる生きものたち:目次 > 花のゆりかごと空飛ぶ花粉 ─ イチジクとイチジクコバチの共進化:横山潤┼蘇智慧 http://www.brh.co.jp/seimeishi/journal/032/ss_2.html また、物質レベルでも量子力学のレベルになると、因果関係ではなく相関関係が支配的になるようです。 ※仏教における因果と、その適応範囲について。。。 因果的・非因果的。。。能動的・受動的。。。意識と情と。。。 http://jinen.exblog.jp/7512021/ 一般的な仏教では「生死を越えた因果」を強調しているように捉えられていますが、スッタニパータ(原始仏教に近い言葉、日本語訳・解説は「ブッダのことば」、中村 元、岩波文庫)「生死を越えての因果」については「あるのでもなく、ないのでもない」という立場をとっているようです。

denza
質問者

お礼

お答えが高度過ぎて、もう少し読み砕かないと。。。 >「これからどうすればいいのか」を積極的に考えるべきだと思います。 でもこれが飯井かもしれませんね。 回答どうもです

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.10

『無門関』第二則「百丈野狐(ひゃくじょうやこ)」にある「不落因果」の状態ですね。 因果応報の矛盾とは「不落因果」の状態ですから、百丈野狐の状態ですね。正しくは、「不昧因果」ですね。 因果はくらませませんので因果応報もくらませないのですね。 因果応報が不滅の真理ですから、まず、全てをそれに合わせることが正しい道ですね。 因果応報が正しいとして、何が違っていたのかと考えることが本道ですね。運でも他人のせいでもないのですね。すべて自らの問題として考えてみるといいですね。考えられないときは無駄に考えず、空でも見上げることですね。太陽が東から昇って西に沈みますが、太陽は落ちても来ないし、西から昇ることもありません。 それが「不昧因果」ですね。

denza
質問者

お礼

良く解らない部分もおおいですが、 空でも見上げてます。

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