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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:天皇を慕って涙するような精神は、明治以降ですか?)

天皇を慕って涙するような精神は、明治以降ですか?

このQ&Aのポイント
  • 明治以降の教育において生まれた天皇を慕って涙するような精神は、尊王攘夷運動のころから存在していた可能性があります。
  • 明治天皇や昭和天皇の人柄に対する要素も影響していたと考えられます。
  • また、親であるような存在である天皇に対する感謝や憧れからくる涙もあるかもしれません。

質問者が選んだベストアンサー

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  • sync-mag
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回答No.8

 これはまたおもしろい質問ですね。これまでの天皇制研究でも、「涙する」という観点で調べた人はいなかったのではないでしょうか。  言うまでもなく、葬儀の場で泣くのは古代大王の時代から当然視されていたでしょうし、天皇を個人的に知っている人たちが感極まって泣くようなこともままあったでしょう。しかし、これらは天皇でなくても成り立つのですから、質問者様のお尋ねになっているケースに該当しません。また、安徳その他の悲劇の天皇に対する「涙」も同情心などから発するものですから、やはり該当しないでしょう。  楠木正成などの中世の忠君については後世の脚色も強く、いささか評価にためらいます。ただ、個人としてはこのとおりであったにしても、それが一般化していたわけでもないので該当しないと見なしてよいと思います。  天武などのカリスマ的な天皇であれば、当時の人にとってこういう対象となっていたのでしょうか。宮中などではあったかもしれませんが、まちがいなく一般的な国民はほとんど意識しなかったでしょうね。  質問者様のお尋ねになっている「涙する」の対象なる資格についていろいろ考えてみたのですが、「聖別された人」あるいは「人の顔を持った神」であり、ある種の神格化が必要なのだと考えます。人に対する親愛の情と、神に対する尊崇の念。どちらが欠けてもここで言う「涙する」状態になりません。高僧や教祖に対する信者の視線など同種のものだとわたしも思います。  してみると、このような視線そのものは日本社会になじみのないものではなかった、ただそれが天皇を対象とすることがなかった、あるいはそうする人が少なかったのだと考えます。  天皇とはもともと祭祀の主体であることから、天皇に対するこのような視線そのものが奇異だとは思いません。しかし、これが一般化していなかったということは、それだけ天皇を中心とした信仰が一般化していなかった現実を反映しているのでしょう。ならば「涙する」が一般化し定着するためには、天皇の認知度が問題になります。  すると、他の方も上げておられますが、やはり幕末というのは時期的にかなり有望です。国学に由来するかと推測しますが、本居宣長の本でこの手の記述に出会った記憶がありません。ならば水戸学あたりに起源を求めるべきでしょうか。ちなみに、典型的な事例としてすぐ念頭に浮かぶのは高山彦九郎ですね。「涙する」は勤王と一体化した視線なのでしょう。  整理しますと、「涙する」ためには天皇に対して「神である」「王である」「人である」という三点が求められるのであり、勤王思想の血肉化したものが「涙する」状態と理解できます。ならばこれが確立されたのは幕末です。  ただし、まだ国民一般に広がっているわけではありません。明治初年の平均的日本人がどこまでこのような視線を身につけていたのか、はなはだ疑問です。知識としてはそれなりに広まっていたでしょうが、庶民のあいだに強く根を下ろしていたなら、幕末維新にあたって庶民はもっと政治的変革のプレイヤーとして参画していたと思うので、さほどではなかったと判断してます。  というわけで、「涙する」が一部の人から国民に広がっていったのは明治を通して、ということになります。明治の日本は近代国家を築くにあたってのイデオロギーとして勤王思想を用いました。教育の効果もありましょうが、それ以上に近代国家としての日本が成長発展したという現実が説得力をもった側面もあるのではないでしょうか。  つまり、理屈のうえでは「日本は天皇陛下の知ろしめす国」だから「日本はいい国、強い国」なのですが、国民の実感としては逆だったのではないかと想像します。しかし、いったんこの思考が常識化してしまえば、両者は一体化して分けられなくなるし、分ける必要を感じないでしょう。  書きながら考えていたら相当錯綜としてしまいましたが、ここまで来てやっと理解しました。質問者様の疑問は「近代日本を成立させ、統合するイデオロギーとしての『天皇制』が成立したのはいつか、国民に受容されたのはいつか」と言いかえることができ、当然それは「なぜその時だったのか」という疑問を生みます。ということは「近代日本とは何か」という問題を考えなければ答えられないことになります。  すみません、こんなに深い問題だと思っていなかったので完全に準備不足です。お詫びしつつ、考える契機をいただけたという点で感謝しております。  最後の人柄の問題を答えていませんでした。わたしは天皇に「涙する」ためには神、王、人という三要素が欠かせないと思うので、当然これも問われます。ただし、現実の人柄がどうなのかではなく、どう受け止められているかというイメージが問われます。別に貶めるつもりではなく、大多数の国民にとって天皇と直に接する機会などありませんから、実像はこの際どうでもいいです。

spongetak
質問者

お礼

いつもありがとうございます。勉強になります。

spongetak
質問者

補足

高山彦九郎というのは知らなかったので、ちょっとWikiで見ました。 愛国百人一首の中の歌は、非常に素朴で、カラッとしたところが、いいんじゃないかと思います。 涙するほどの深い情念的・深刻な関係は、ちょっとどうかなと思います。 いずれにせよ、絶対的な神的な存在を、現実世界に設定し、神と一般人の間の、媒介者(人間)とし、一般人のずっと上のほうに設定してしまうのは、責任転嫁を引き起こし、精神衛生上(社会全体としても)良くない事だろうと思います。戦争に突入したわけですし。 うまくすれば、おもしろいゲームの一つとは思いますが。

その他の回答 (10)

  • sync-mag
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回答No.11

 No.8です。他の方への返答合わせて、いつもとても丁寧な「お礼」に感心しております。  補足にいただきました高山彦九郎はについてはNo.9様に譲ります。それにしてもeroero1919さんは知識も豊富ですが文章もうまいですね。  >いずれにせよ、絶対的な神的な存在を、現実世界に設定し、神と一般人の間の、媒介者(人間)とし、一般人のずっと上のほうに設定してしまうのは、責任転嫁を引きおこし、精神衛生上(社会全体としても)良くない事だろうと思います。戦争に突入したわけですし。  →そのとおりだと思います。  ただし、わたしはこれを近代化にあたって避けがたい段階であり、日本はこれを踏み外してしまったのではないか、と考えております。  後発の国が近代化するにあたっては、必要な資本を国民から集めなければなりませんが、それはその国の国民にとっては重荷でしかありません。にもかかわらず、近代の国際環境にあって近代国家のメリットは明白であり、これに失敗した国は世界の中で劣位に置かれてしまうか、植民地にされる以外にありませんでした。ならば、時の為政者はなんとしてもこの苦痛を国民に納得させなければなりません。  そのために各国では民族主義が利用されました。そこにロシアはマルクス・レーニン主義を加味し、わが国では天皇制を用いたのだと思います。どこまで為政者が意図したかは重要ではなく、結果的にこのような機能を果たしたことが重要です。  この過程において、イデオロギーはカリスマ的な個人の顔を持って現われます。ソ連、中国をはじめ、戦後の開発独裁と言われた国々はみなそうでした。なぜそうなるのかと言えば、やはりわかりやすいからでしょう。抽象的な理念に説得される国民は多くありませんから、どうしても神がかった「超人」が求められると言いますか、そのような存在があるときに政治が安定するのだと考えます。  この超人は人と隔絶された存在でありながら国民にとって親愛を感じられることが必須です。これは想像ですが、神と個人が直接対峙しているときは個々人が判断しなければならないのに対し、中間段階の人が神の意志を通訳してくれるときはその人に従えばいいのですから個人の判断は重視されなくなるのではないでしょうか。まさしく国家を統治するにあたって求められている機能がこれです。  わが国においてこの役割を果たしたのが天皇でした。しかし、天皇はご存じのとおり政治の実権を握っていたわけではありません。本人のキャラクターもさることながら、明治期において政治を動かしていたのは元勲たちだったからであり、以後この体制が引きつがれていったからです。  国家元首にして統治権の総覧者と定められた存在に政治の実権がない、つまり政治判断に対して責任を有していないという状態が生まれます。ところが、実際の天皇は言われているほど無力ではなく、たとえば上奏に対して拒否することはないがそもそも意に沿わないような上奏は行なわれなかったそうなのですから、実は結構政治判断をくだしていたわけです。しかし、あくまでも内々の話です。  政治的決断が「天皇」の名のもとに行なわれながらその決定に対して天皇が主体的に責任を負わないのなら、いったいだれが責任者なのでしょう。法律の話ではなく、国民の側からするとどう見えるか、どう納得するかという問題です。「陛下の叡慮」と内閣の決定がうまく使い分けられている間は問題ないのかもしれませんが、なんともあいまいさが付きまといます。  元勲たちが退場したあとの議会政治家たちはそれぞれに識見を有した人物もいたと評価してますが、国民からの納得を得られる人物はついに現われませんでした。理由はさまざまに考えられるのですが、結果的には軍部を掌握することができなかったことが大きいと考えます。  平時であればそれでも何とかなりました。政治的意志が欠如していても優秀な官僚機構が行政を執り行なっていましたから。しかし、官僚は政策の策定と遂行が仕事であって、決定は求められていません。その達成に対して責任を感じても、決定そのものには責任は感じないのが道理でしょう。  国民もまた、「民度が低い」と言えばそれでお終いなのかもしれませんが、そもそも国民一般が政治的決定をどこまで左右できるか、言いかえればどこまで責任を有しているかといえば、はなはだお粗末な状態でした。それだけの情報も持ち合わせていませんでしたし、その権限も不充分でした。  開発独裁あるいは独裁者の下での近代化が望ましいと考えているわけではありません。しかし、多くの国がこの過程を経ていることから、ある程度は必要な段階であり、ただ国ごとにその弊害がさほどでもない国と被害が甚大な国があるのではないかと考えます。  カリスマ的個人が国家に屹立する場合には、国家の決定に対して彼は責任を有しているのですから失敗に対しても責任を問われます。行きすぎれば超人の位置から引きずり下ろされて国民から退場を迫られます。しかし、神様に対して退場を迫る人はいません。「いない」というのは言いすぎかもしれませんが、人より神に近い立場の人であれば、一度その信仰を受け入れた以上責任を問うのはとても難しくなるでしょう。しかもこれが日本の場合のように責任があるようでなく、ないようである場合にはなおさら矛先も鈍ります。  だれが責任者なのか判然としないとき、だれを問い詰めれば良いのでしょうか。責任は霧散してしまうのか、それにつれて国民の側の責任も消えてなくなるのでか。しかし、「失敗」という結果は消えてなくなりません。  神と人の中間者を置くことは無責任な仕組みをつくることだと思います。しかし、日本はこれすらやりきることができなかったし、それに代わる手だてを講じることもできませんでした。「天皇をしたって泣く」があまりに便利すぎたからなのだと考えます。  またしても論旨が錯綜としてしまいました。質問者様の深い質問になんとか答えようと頑張ったのですが、浅学非才お詫びします。

spongetak
質問者

お礼

毎回の、懇切丁寧なコミュニケーションとご回答、そしてその示唆的な内容に感謝いたします。 近代の天皇制と、開発独裁との関係にはこれまで思い至りませんでした。近代の、後発国・周縁国のリーダーは、みなこれなんですね。レーニン、毛沢東、ビスマルクもそうなんでしょうね。 そしてこれらはみな、当然ながら、国家社会主義的体制で、経済は、国が直接やるか、国と一体となった一部財閥がやるか、になっています。 とても基本的なところに、いまさらながら気付かせていただきました。 天皇は判断を下さず、実際の判断はその下の内閣が下して政治を行っていたので責任は彼らがとり、天皇自体は「善」でありつづけ、ただ包容力と忍耐と倫理的センスと、状況を適切に理解する力を持って、場面に応じて、ちょっとした適切なコメントをしていることができれば、そのようなものとして存在することができたのでしょう。それはそれは、昭和天皇は大したものだったとおもいます。 これは、実際のカリスマが独裁を敷くより、ずっと継続力があり、一貫性があるといえます。ただ実際のカリスマ独裁者のような、熱狂的ファンが支持するような、具体性には欠けるという弱さがあるかもしれませんが。 そのような結構な開発独裁君主制を持っていて、あとはその下が、きちんと国家運営をしていけばよかったわけです。 大日本帝国憲法において、文民統制にしておけばよかったのに、と思うんですが。あまりにも天皇の権威を高めようと表現してしまい(天皇は陸海軍を統帥す)、一方で天皇の政治権力はないわけですから、本当に矛盾しています。どうしてそんな風に作っちゃったんでしょうか? 軍部大臣現役武官制、なんで復活させたんだ?と、いまでこそ失敗の大きな要因と理解されますが、(理由は不学でまだよくわかりませんが)、当時の段階では判断できなかったでしょう! 無知ゆえの、また経験がまだ浅かったための失敗だったということなのかもしれませんが、代価/授業料は非常に高くつき、精神的にも軍事的にも経済的にも、米国の属国となってしまいました。あるていどは。 話の趣旨がそれてしまいましたが、天皇は「善」なる存在の役目であることに徹し、その下の首相なりがきちんと最終責任をとっていけばよかったのではないかと思います ・・・が、 決して行動の責任を天皇になすりつけず、 「私が○○をしたのは、天皇陛下のため」とか「私は、天皇陛下の御意志に沿おうとして、がんばってきただけだ」など、決してやってはいけないわけですが、 それはどうしても、出てきてしまいますかね。(東条が東京裁判の時ちょっとそういうことを言いかけて、ひやっとした空気が流れた) 一切、責任というか、行動の動機を、おしたい申し上げる天皇に帰さずに、 行動の判断の原因をあくまで自分の中で完結させる、というのは、 非常に不自然で無理があるため、やはりこの人間崇拝の天皇制というのは、理論的には、うまく機能しない感じがします。 そもそも、○○の神の願いである、といって戦争することもあるのであれば、そのような人格神を動機の根拠とするのも、警戒されることになります。 あくまで個人の責任ある理性的判断(できるだけ多くの人にとってメリットとなる方向への、筋の通った判断)が、政治的判断の根拠になるべきだと思います。 そこの政治的判断には、天皇制の入り込む余地はないと思います。 その政治的判断の背後に、宗教心が存在するのは問題ありません。武士道の高潔なる道徳心がその背後に存在するかもしれません。儒教が存在するかもしれないし、キリスト教が存在するかもしれません。しかし今後の日本において、そこに天皇制が存在することは、おそらくもう、ないと思います。もし70年前に、天皇を中心とした八紘一宇の世界平和を、排他性を含まずに望みながら、天皇を慕って涙する精神が存在していたのであれば、これは非常にノスタルジックな、ある面非常にすてきな世界だなと、思います。 いつもお礼といっても、好き勝手書いてるだけですが、適切な議論を展開していただき、感謝しています。ありがとうございます。

  • eroero1919
  • ベストアンサー率27% (3007/11113)
回答No.10

#9です。 明治時代というのは、とにかく江戸時代というか徳川幕府を全否定しなきゃいけなかったのです。その事情は追々書いていきますが。で、有名なのが徳川家康が「農民は、生かさぬよう、殺さぬようじゃ」といったとかなんとかという話。 時代劇なんかで農民が虫ケラのように扱われ、命をかけてお代官様に「お代官様、これを」とかなんとかいうと「無礼者!」といわれて斬られる、ってアレです。江戸時代の農民というのはこういう扱いを受けてきたと今の時代の我々も思っているのですね。 とんでもない話でありまして。 実は徳川幕府の統治ってのはかな~りユルいんです。五公五民で半分が年貢だったとかひどい場合は六公四民で6割年貢にとられたとかいわれますね。半分も年貢で取られたら大変です。 ただ、問題は課税の根拠となる年間獲高の算出でありまして。例えば現代の我々も所得税ってのが取られますが、実際の収入が400万円あるのに年収の申告が300万円にしていたらそんだけ得をしますよね。 あの勝海舟のお父さんが勝小吉さんという人で、とてつもなく破天荒なオヤジなんですが一応御家人つまり幕府直轄の武士だったのです。この小吉さんが甲斐だったか信濃だったかの幕府直轄領の石高調査を命じられて行ったんですね。で、小吉さんは離れた場所の仕事なもんだからいい加減な仕事をして、だいぶ農民に有利な石高調査をしたそうで、「ずいぶん農民には喜ばれたぜぇ」って能天気というかむしろ自慢げに自伝に書き残しました。ワイルドだろォ。 徳川幕府というか江戸時代って現代人の予想以上に「話が通じる社会」だったのですよ。例えば八百屋お七っていう有名な話があるのですが、恋い焦がれたお七って女の子が放火をしちゃって捕まった。放火ってのは古今東西大罪(場合によっては殺人より大罪です)で、江戸時代も死罪なんです。ところがお七ちゃんの年齢がこの時代だったのであやふやで、14歳だったかもしれなかったのです。当時、裁きの対象になるのは15歳以上で、14歳以下なら処罰の対象にはならなかった。だけど、お七が自分から「私は14です」といったらお奉行様を騙したことになります。なので、お奉行様は「お前は、14だな」っていったのです。それに「はい」と答えたら「じゃあお前は14歳だから処罰の対象外」となりますし、仮に15歳だったとしてもそれは奉行側の調査ミスであってお七ちゃんには罪はない。だから、お七ちゃんは「はい」とだけ答えればよかったのです。ですがお七ちゃんは「いいえ、私は15でございます」と答えたので死罪となってしまいました。 農民に対しても庄屋つまり豪農を通じて代官と交渉する権利がありましたし、残った資料によるとかなり代官側が譲歩することもあったようです。各藩でも事情はあまり変わらず、なにしろ一揆でも起こされてそれが公けになれば幕府から「統治能力不十分」という名目で取り潰されてしまいます。だから自ずと「ことは穏便に」とならざるを得ず、幕末になると農民一揆がおきて農民側の全面勝利に終わることもあったほどだったのです。 また徳川幕府は福祉政府でもありました。江戸ではしばしば大火事が起きたことがあり、安政の大地震とか洪水などの自然災害にも見舞われたことがあります。 そのとき、幕府は江戸城にある備蓄米を「無料で」炊き出して被災者に与えたのです。これは名宰相として知られる保科正之が明暦の大火のときに幕府の備蓄米を放出したのがきっかけだったのですが、以来、江戸市民が被災すると幕府は備蓄米を放出するようになったのです。そのため、災害が起きた後に江戸市中で大規模な略奪や暴行なんてのが起こったことは一度もないのです。これがどのくらいの速度で対応していたかというと、災害の起きた翌日には備蓄米は放出されていました。翌日ですよ。アメリカでカトリーナ台風による災害が起きたときにアメリカ政府が動き出すのにどれだけの日数を要したか。 こういうことを国家(政府)がやったなんて、当時のヨーロッパ諸国でもまったくありませんよ。災害にあっても教会が頑張るくらいで、当時の政府は窮民救済なんてのに無頓着です。 なんとなく、明治政府が意地でも徳川幕府を否定しなきゃいけない事情が分かってきたかと思います。徳川時代はおよそ200年続いたのは、要するに政府転覆を願うほどの不満がなかったからなんですよ。なにしろその江戸時代でいわゆる政府転覆の陰謀つうのは戊辰戦争を除けば江戸時代初期の「由井正雪の乱」くらいしかないのです。大塩平八郎の乱も、あくまで大塩が願ったのは「世直し」であり、自分が将軍にとって代わろうなんてものではなかったのです。 また徳川将軍が災害対策もちゃんとやってきたことを江戸っ子は知っていますから、天皇陛下か公方様かって聞かれたらそりゃ公方様ですよ。 ところで江戸時代の江戸が一大歓楽都市であったことは有名ですが、当時の人々がどんなペースで働いていたのかというと、だいたい町人は朝は夜明けあたりから活動が始まると早いのですが、だいたい勤務はお昼かお昼過ぎまで。仕事が終わったら風呂屋に行ったり落語や芝居を見に行ったりとのんびり過ごします。では武士はどうだったかというと、だいたい勤務は一勤一休。ええ、まじかよ。まじです。今日出仕したら明日は休み。武士は簡単にリストラできないのでワークシェアリングなのです。だから結構ヒマなのでやれ花見に行ったりなんだかんだと余暇を楽しむのです。ちなみに識字率が異常に高かったのが当時の特徴で、浮世絵を始めとして本が庶民にも普及していました。これも文字を読めただけでインテリだったヨーロッパに比べるとすごいです。今、江戸時代の天文学者の映画をやっていますが、数学ブームがあったのも江戸時代で、数学上の発見をした人は絵馬にその公式を書いて神社に奉納するんですね。各地にそういう「数学神社」がありました。で、そこで腕に自信がある人がその絵馬を見て解くのをチャレンジしたりしていました。数学のマニュアル本があり、旅行のマニュアル本もありました。北斎漫画という本があり、これっていわゆるデッサン集です。もちろんポルノもあり。春画もあるし、吉原を始め品川やら新宿やらに風俗街もありましたし、お安い闇風俗としてちょんの間の夜鷹なんてもいたわけで。文化度という点では現代と変わりません(ただし、我々のイメージする江戸文化というのはほとんど幕末である文化文政時代です)。 ヨーロッパより、かなり大衆文化というのは高かったと思いますよ。庶民が普通に文字が読めたなんてのは日本だけだったんじゃないかなあ。朝鮮戦争の時のアメリカ兵の4割くらいは文盲だったそうです。朝鮮戦争ですぜ。 というわけで、質問と全然関係ないことばかり書いてしまいました。お目汚しでした。

spongetak
質問者

お礼

楽しいお話、ありがとうございます。すごいおおらかな社会だったんですね。機会があればまた勉強してみようと思います。

  • eroero1919
  • ベストアンサー率27% (3007/11113)
回答No.9

時代は「幕末前夜」ともいうべき寛政時代に、高山彦九郎という人がいました。尊王活動をした人です。この人が京都にいたとき、三条大橋から京都市内に入るときは必ず橋のたもとで正座して皇居に向かって深く一礼をしてから橋を渡っていたそうです。その光景があまりに強烈だったので、今、橋のたもとにはその銅像がたっています。正座してるけど。 さて、その高山彦九郎さんが尊王活動家として何をしたのかというと「緑毛亀運動」でした。そりゃなんじゃいというと、毛の生えた亀が見つかり、珍しいということで天皇に献上されたんですね。それを見た当時の天皇(何天皇だったかは忘れました)が「中国の故事によると毛の生えた亀というのは吉兆の印。めでたいことだ」と言葉を残しました。要は「幸せの四つ葉のクローバーが見つかってよかったね」みたいな他愛もない話だったのですが、これが彼の命を縮めることになります。 高山はその話を聞くと大々的に「こりゃめでたい」と宣伝活動を行います。しかしその背後にあるのは、尊王活動家として常々「天皇というものの存在が京都でさえロクに知られていない」という嘆きからでした。つまり、亀をダシにして「皆さん、世の中には天皇陛下ってのがいるんですよ。実は立場上その人は徳川将軍より偉いんですよ」という活動をしたのです。 この緑毛亀運動、当初は予想以上の成功を収めたようです。しかし、その予想以上の成功が幕府ににらまれる結果となります。つまり彼は「危険思想分子」とマークされたのですね。表向きは「ラッキーアイテム出現」ということなのですが、一歩間違うと叛乱活動にもとらえられかねないからでした。 遊説中の高山はまず諸藩への入国が認められなくなります。当時の藩というのは半独立国家ですから、藩主に保護されてしまうと幕府も思うように手が出せなくなります。だからニラミがきく幕府直轄領内から出させないようにしました。さらに、彼の支援者にも圧力をかけ、彼が遊説活動が行えないようにしました。高山が支援者(と期待している人物)のところを訪ねても、追い返されるようになってしまったのです。 こうして追い詰められた高山は数少なくなった支援者のところに身を寄せ、そこで思い詰めて発作的に自刃してしまいます。 なお、この高山彦九郎、林子平、蒲生君平と共に「寛政の三奇人」と呼ばれております。ま、確かにユニークなエピソードには事欠かない人物でしたけれども。 元はといえば、尊王活動の根拠となったのは他ならぬ水戸黄門様のせいなんですよ。あの方が「大日本史」なんてのを編纂して、そこに「尊王思想」なんてのを練りこんじゃったから後々ああなっちゃったのです。いってみりゃ黄門様が徳川幕府滅亡の種を作ったともいえるんですね。楠正成が「忠君の公」となったのも大日本史のおかげというかそのせいです。 ただ、幕末までは高山彦九郎のようにおおっぴらに尊王活動をすることは一歩間違えると徳川幕府を刺激しかねない危険思想でもありました。なにしろ、幕末には他ならぬ新撰組が建前上尊王活動をしている志士たちを斬ってまわっていたわけですから。 明治時代になり、近代国家を作ろうとなったとき、お手本になったのは西洋列強でした。「脱亜入欧」という言葉があったように、当時は東洋の諸地域はほとんど全部といっていいほど西洋列強の植民地となっていたので、「ヨーロッパ的なるものは偉い。アジア的(含日本的)なるものはダメ」だったのです。 話がちょっと横道に逸れますが、明治時代の廃仏毀釈運動もこの脱亜入欧の精神が影響していましたし、岡倉天心が東洋美術(日本美術)を保護しなかったら失われていた日本芸術というのはずいぶんあったそうですよ。当時は「日本的なものはださい」だったのです。 そしてその西洋国家ではキリスト教が普及していて人心をつかむのに使われていました。欧米列強に学んだ明治の元勲たちは「日本にもキリスト教みたいなものを」と考えて、それで神道を天皇を中心にした体系にしてキリスト教の代わりにしたのです。それまで、神社というのはある意味各地で勝手にやっていたのですが、天皇を中心に一元管理することになり、無理やりに体系づけたのです。 だから、東京の神田明神なんかがその典型ですが、今、神田明神に行くと祀られているのは天照大神っていうことになっていますが、実際は主祀されているのは平将門です。だけど天皇に弓引いた謀反人が神様と祀られているのは明治政府にとってはちょいと都合が悪いので天照大神にしちゃいました。 ちょっと興味深いのは、前述の高山彦九郎が緑毛亀運動をして割と彼に好意的だったのが九州地方で、関東地方は結構あちこちに将門信仰があるんですよ。関東はちょっとこう、ひねくれたところがあるんですね。明治天皇が偉かったのは東京に皇居を移したことで、これにより東日本の人心をつかむことができました。 というわけで、長々と書きましたが要は明治以降の教育の賜物ではないかと思います。実は「農民は生かさぬよう、殺さぬようという扱いで悲惨なものだった」というのも明治政府の宣伝(陰謀)なのですが、それはまた別の機会に。

spongetak
質問者

お礼

いろいろと、たいへん勉強になりました。ありがとうございます。とてもわかりやすかったです。 高山彦九郎の与えたインパクトは大きかったんですね。「大日本史」の影響も、すこしですが具体的にわかりました。 キリスト教と天皇制は、精神的な類似点があるんじゃないかと思っていたんですが、これはある程度、意図的とも言えるんですね。 江戸時代の農民生活のひどい描写も、明治政府の意図という面もあったんですね。左翼の歴史解釈によるものかと思っていたんですが、だとすると明治政府の方が先なんでしょうね。 ぜひ、それについても教えてください。

noname#212854
noname#212854
回答No.7

 日本の天皇に対して、「慕って」という言い方を、始めてみました。  欧米の国王たちの中には、「慕われ」ていた人もいるようですが、日本の天皇は畏れ多くて、「慕う」対象ではなかったように、聞き及んでいます。  実際、明治天皇が無くなった時にも、乃木希典ご夫妻のように、後を追った人はいましたが、一般庶民が悲しくて涙するようなことにはなりませんでした。  天皇と国民の間には、絶対的な距離があったように思われます。   ☆  ☆  ☆  アメリカ占領軍に都合の良い昭和後期の象徴天皇にも、富国強兵などの国策の遂行に都合の良い明治期の絶対的な君主にもなりうるのが、日本の王権の特徴です。  言い換えれば、その時々の真の権力者に都合が良いように、塗り替えられるのが日本の王権の特徴です。

spongetak
質問者

お礼

ありがとうございます。 >言い換えれば、その時々の真の権力者に都合が良いように、塗り替えられるのが日本の王権の特徴です。 基本的に、歴史全体を通じて、そうなんだろうと思います。 ただ、松岡や東条のエピソードを聞いて、そのような精神性(敬愛して、感謝する。より身近な感覚)は、存在するのはしたようで、では、どこへんからあったのかなと思ったわけです。たぶん明治くらいから徐々に形成され、実際にあったのは昭和に入ってからくらいだと推測します。 一般の日本人と、天皇との関係としては、基本的には大きな断絶、雲の上の存在だったのだろうと思います。上層にいて、実際に謁見する機会のあるような、松岡や乃木、東条といった人たち、そのような人たちや、その周辺のレベルの人たちの間では、より人格的な敬愛があったのだろうと思います。 ということは、一般の日本人にとって、天皇や八紘一宇といったものは、大して宗教的な精神性まで影響を与えたものではなく、単に表面的な、日本は神の国で、日本人は人種的に優越しているんだ、みたいなプライドを刺激する程度のものだったのかなと、思うわけです。そうすると、宗教としての国家神道には、連合国側が問題視したようなパワーは本質的には、ないのだろうと思います。 本質的に、外国人が「宗教」と呼ぶものとは、概念的に異なっていて、靖国参拝など、非宗教的なものとして全然OKだと思います。 (他が、そう思ってないから問題となる) 日本人にも間違いなく常識感覚はあったわけで、天皇の人間宣言に際しても、内容そのものに対しては別にあたりまえだという感覚が一般的だったと思います。 一方で、8/15の戦争終結宣言における、「わが身はどうなってもいい、日本国民の運命と未来のために、ここは終結させよう」という天皇の発言に、共鳴する感覚は、(もちろん全員ではないが)あるていど広く日本人の間に存在したことは確かだと思います。そのような感覚(人格的な結びつき)は、ある程度、戦前戦中から、国民と天皇の間にあったと思います。

回答No.6

2回目の投稿になりますが、こういうエピソードがあります。 明治天皇のお話です。 日本は断髪令をだしました、理由は外国人から野蛮人(外交問題でもありました)と思われないようにということだったのですが、なかなか日本人はチョンマゲを切ろうとしませんでした。 そこで目をつけたのが日本人のアイドル天皇陛下です。 明治帝が髪を切り、ザンギリ頭とした事で、日本中の人たちが俺も俺も髪を切り、10年後には、西洋風の髪型が90%を超えました。 髪を切ったのは女性もです。 私も私もと女性まで髪を切ってしまったので、翌年、断髪禁止令を明治政府は出す事となってしまいます。 もうひとつ。 列強西欧の人々と日本人の体格はどうして違うのか、それは肉食ではないかと日本政府首脳は考えました。そこで、日本は肉食を推奨しましたがなかなか広まりません。 考えました。どうすれば日本人に肉を普及さえる事ができるのか・・・・。 有名な人、多くの日本人が知っていて人気のある人が宣伝すれば、広まるのでは?と考えまして・・・でました、日本のアイドル天皇陛下。 明治天皇自らも肉食することを宣言し、1872年(明治五年)1月に始めて肉を食べられそれが大きく報じられました。 牛鍋ブームの到来です。 5年後の明治十年(1877)の東京府下では488軒に牛鍋屋が増え、「士農工商、老若男女、賢愚貧福おしなべて、牛鍋食わねば開化不進奴(ひらけぬやつ)」と言われるようになりました。 こんな感じで日本のアイドル天皇陛下は明治の初めには多くの日本人に認知されていたようです。

spongetak
質問者

お礼

ありがとうございます。どちらも知りませんでした(あるいは忘れていた)。 有益な情報、ありがとうございます。

回答No.5

   赤誠直情 ~ 十二人の尊王家 ~   <PRE>  楠  正成  豪族武将 1294‥ ? 河内 湊川 13360704 42 /敗戦自害/永仁 2,‥‥~延元 1.建武 3.0525  北畠 親房  権大納言 12930308奈良 賀名生13540601 61 /正応 6.0129~正平 9.文和 3.0510/~《神皇正統記》  高山 彦九郎 尊王志士 17470615 群馬 福岡 17930804 49 /切腹/延享 4.0508~寛政 5.0627-28/皇居遥拝落涙 http://d.hatena.ne.jp/adlib/20010920 悪友四重奏   …… 今日の尊王家も五斗米の饒なるに遇へば明日の佐幕家と為り、昨 日の町儒者も登用の命を拝すれば今日は得色を顕はす者多し。(二・五) http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4003310217 ── 福沢 諭吉《文明論之概略 18750820-19930205 岩波文庫》    乃木 希典  陸軍元帥 18491225 江戸 東京 19120913 62 /殉死/嘉永 2.1111(稀典)明治天皇“大葬殉死” ♀乃木 シズ(静子)18591127-1129 薩摩 東京 19120913 54 /殉死/安政 6.1104-1106/希典の妻~辞世  乃木 勝典 希典の長男 18790828 東京   19040527 24 /戦死(金州南山)陸軍歩兵中尉  乃木 保典 希典の次男 18811216 東京   19041130 22 /戦死( 203高地)陸軍歩兵少尉    菊池 武夫  陸軍中将 18750723 宮崎   19551201 80 /戦犯不起訴/19350219 天皇機関説批判  松岡 洋右  外務大臣 18800304 山口 東京 19460627 66 /戦犯(臨終改宗)19411208 日米開戦に号泣  蓑田 胸喜  国粋主義 18940126 熊本   19460130 51 /縊死/慶応大学教授/戦犯   http://d.hatena.ne.jp/adlib/19350225 天皇機関説 ~ 学者の胸中 ~ http://d.hatena.ne.jp/adlib/19481223 A級戦犯@東京裁判 http://d.hatena.ne.jp/adlib/19921223 極月〆日の極東極刑    三島 由紀夫   作家 19250114 東京市ヶ谷19701125 45 /割腹/籍=平岡 公威/~《憂国 1961-1965》  森田 必勝 楯の会幹部 19450725 三重 東京 19701125 25 /切腹/早稲田大学教育学部 http://d.hatena.ne.jp/adlib/19701125 三島事件の人々 </PRE>  

spongetak
質問者

お礼

非常に有益な情報、ありがとうございます。どの名前も、なるほどと思わされます。詳しくは知らない人物について、調べてみようと思います。 ありがとうございます。

  • atcoffee
  • ベストアンサー率16% (184/1091)
回答No.4

明治以降ですね、それ以前は豪族、公家、武士などの権力争いのコマでしかありません。 明治以降もそう扱われたからこそ第2次世界対戦でもあのような立場に置かれてしまったのです。 今の日本人や日本人以外からは理解し難いでしょうがそんな権力者でも大義名分を無視することはできなかったというだけです。 御存知ですか?中世以前の天皇のお墓がどこにあるのかもはっきりしないということの意味するものを。

spongetak
質問者

お礼

ありがとうございます。 歴史を通じて、全体が団結するための結束点であり、自らの行動を正当化するための最終的なコマであったんでしょうね。 松岡や東条は、純粋にマジで慕って泣いていたと思います。 そういう人間だったから信用されて出世した、という面も当然あったと思います。また、彼らの感情を多層的に分析することも可能でしょう。その行動は、自身の抱く野望のためであったし、それは国家(権力)のそれと一致していただろうし、天皇への敬愛とも一致していたのでしょう。 天皇は、一貫して、集中のシステムとして機能したが、明治以降では利己的に利用するというような意図はちょっと、なかっただろうと思いますけどね。 墓がわからないというのは、知りませんでした。 ありがとうございます。

回答No.3

いつごろ? 「天皇を慕って涙するような精神」なんて古くから発現していると思うが? もっともそれが本音なのか?というのは知る由もないがw 安徳天皇あたりは天皇陛下というよりも、”悲劇の皇帝”の意味で伝えられ、泣いている話はあるし 「建武の駄政」の後醍醐天皇は暗愚ながらも過ぎた野心を利用され度々、島流しされている状況に同情されて泣いている事例もある ”慕われて”という動機で泣く・・・という現象の現実味は不明だが 敬愛されている天皇はいるし、敬愛する価値を認める人間は多々いたので、少なくとも奈良時代前期にはそういう事例が史実として確認できる・・とは思うが まぁ、史実として実在の疑わしいのは、虚実を踏まえてフィクションで慕われている設定であるのでこれは排除するがw 以上

spongetak
質問者

お礼

ありがとうございます。天皇は、人(天皇)によって差はあるが、ある程度敬愛される存在であり続けたんだろうと思いました。 直接政治をしないから失敗して責められることもないし、(してもだまされたということになり)最終責任はないということになり、象徴的な君主制では、多少なりともそうなるのだろうと思います。 批判的にみれば、天皇制イデオロギーを守るための、解釈のあてはめもあるていどあるのでしょうね。

回答No.2

尊皇思想が士族や富裕層に広まった江戸中期以降ではないでしょうか。 または建武の親政以前。

spongetak
質問者

お礼

ありがとうございます。 そういう感覚が多少なりとも芽生えたかもしれない時期としては、そう考えられますね。 米国によって脱色されて、歴史教育において、客観的な事件重視で、そのような社会の感覚的なものが何だったのか(以前が偏っていたのであれば、にニュートラルに両面伝えればよいこと)学ぶことが、できなくなっていて、とても残念に思います。

回答No.1

少なくとも天皇を神格化し始めたのは明治以降です 天皇中心の国づくり体制になってからです ただ それが顕著になったのは太平洋戦争前 昭和に入ってから特にです 天皇は神(現人神)として 国民は教育を受けてきたので だから戦後 昭和天皇が人間宣言を出して 国民の前に姿を現し 全国を行幸したさいは 国民は やっぱり天皇も人だったのか と思い知ったはずです 天皇を慕って涙するのは 戦前 戦中のごくわずかな期間でしょう

spongetak
質問者

お礼

ありがとうございます。 私も、慕って涙するような感覚は、時期的には、昭和以降なんだろうなと思います。どうやって形成されたのかは疑問です。昭和天皇の発言のエピソードなどが、脚色されて教育環境に伝えられたのか?

spongetak
質問者

補足

人間宣言は、それほどインパクトがあったのかは疑問です。 教育上、神格化というようなものがあっても、基本的に、国民は人間だという感覚が強かったのではないかと思います。八紘一宇というように、一人の人間としての家長に対する敬愛だったのではないかと思います。 キリスト教の非日常的な神学とは、ぜんぜん違っていて、西欧人が思ったほどには「人間宣言」は、日本人には衝撃をあたえず、ある意味あたりまえと受け取られたのだろうと考えます。

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