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維新政府=攘夷?

【攘夷】・・・外国人を追い払って入国、交通をこばむこと。 【尊皇・尊王】・・・天皇、皇室を尊ぶこと。勤皇。 だそうですが、明治維新で使われた「尊王攘夷」という言葉の使われ方に少々疑問があります。 どちらかというと鎖国を維持しようとする佐幕派が攘夷で、開国しようとする討幕派が攘夷を妨げているように思うのですが、維新政府を指して、尊王はともかく攘夷の漢字を当てはめて使うのは、何か違和感があります。 何がどういう訳で討幕派は「攘夷」と名乗った、もしくは呼称されたのでしょうか? ご回答よろしくお願いします。

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  • 23tomo-u
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回答No.6

いろいろ難しい回答が出揃っていますが・・ 基本的に質問者様の歴史認識が違います。 江戸時代末期、徳川幕府の力が弱まっていたことが前提になりますが、 まずペリーが黒船でやってきて幕府に開国をせまります。 徳川幕府はそれをうけ朝廷に無断で開国します。 (外国と不平等な条約も結んで) それに怒った長州藩などの力のある藩が 「朝廷に無断で事を起こすとはなんたることや!」と怒って、 徳川家を目の敵にして更に不平等な条約をせまった 外国に対して敵対心を持ちました。これが「尊王攘夷」です。 ようは日本は朝廷がトップで徳川家は政治を任されてはいるけど、 勝手に朝廷の許可なくことを行うことに腹が立った人たちがいたということです。 じゃあ、その長州藩なりなんなりの尊王攘夷派が なぜ明治維新で外国と手を結んだかというと、 幕末に長州藩が外国と戦争をしてこっぴどくやられ 「これは敵わん、、いや、まてよ、 むしろ外国と手を結んだ方が幕府を倒せるのではないか」 と考えたからです。 そこから一気に倒幕ムードに傾きます。 まず、徳川側についていた力があった藩の薩摩藩と手を組み、 (薩摩藩としては長州藩は好きではなかったが徳川の圧政の下に いたので徳川家も好きではなかった) ひそかにイギリスから武器を輸入し力をつけて、 戦争が起きるよう徳川を挑発しました。 徳川家もその挑発に黙ってはいられず、2度ほど長州征伐に出向きましたが、 2回目で徳川家がこっぴどくやられました。 これで勢いに乗った長州藩と一歩後退した徳川家の間に土佐藩が 入り、大政奉還を進言したところ徳川慶喜公がそれを了承しました。 ただ、それでも長州・薩摩は納得せず、相変わらず徳川家を挑発し 戦争が起きるようにしむけ、ついには戊辰戦争が起き明治維新に至ったわけです。 明治政府発足後は外国と肩を並べるために外国文化を見習い 近代化に成功しました。(不平等な条約も改正) だいたいこんな流れです。

その他の回答 (5)

  • mekuriya
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回答No.5

違います。明治維新でそのような言葉が使われたという事実はありません。誰も攘夷を名乗ったわけでも呼称したわけでもありません。そのような事実は全くありません。 デジタル馬鹿の現代歴史家が勝手に塗り絵をして、そう呼んでいるだけです。 そもそも幕府だって尊王だったのです。大政委任論です。幕府は朝廷から統治権を委任されているという理論です。デジタル馬鹿の現代歴史家は、そうした歴史的事実を全く無視して、あたかも朝廷と幕府が対立していたかのような出鱈目な洗脳を無知蒙昧な子羊たちに及ぼしている。余りにも酷すぎます。 朝廷から預かっていた統治権を、朝廷に返すべきだ、いやまだ返さないという意見の対立があっただけでどちらも尊王であったに違いないのです。 そもそも将軍である徳川慶喜が大政奉還を有力な大名に諮って実施しました。徳川慶喜はそのタイミングを計っていただけで、長州征伐の失敗から幕府の限界を悟っていました。じゃ徳川慶喜は尊王攘夷なのか、そうでないのか。そんな色分けをしても無意味です。歴史は塗り絵じゃないんです。 じゃ徳川慶喜は佐幕派なのか討幕派なのか。くだらない無意味な議論です。当時の人物は現代人の頭のレベルに合わせて綱引きをしていたわけではない。 欧米列強の脅威を目の当たりにして、これからの日本はどうあるべきなのか。そういうさまざまな議論があったのです。 幕府内部の開国派の幕閣もいたし、攘夷派の幕閣もいたのです。誰が実権を握るかによって、幕府の政策は開国にもなったし攘夷にもなった。200年以上、徳川幕府は「二度と戦国時代に戻さない」という至上命題の元、大名統制、治安回復に努めてきた。しかし幕末に日本近海に異国船が出没し、もう国内統制だけでは問題を解決できなくなった。異国人には朝廷の権威も幕府の権力も通用しないからです。たとえ水戸黄門が印籠を振りかざしたところで異国人には効き目がありません。前例踏襲主義が通用しない時代になったのです。 江戸時代初期は、スペイン・ポルトガルはもう来なくていいと断れば、彼らはすごすごと撤退してくれた。しかし欧米で産業革命が起きて蒸気船の軍艦が日本を及ぼす時代になると、彼らはすんなりとひきさがってくれなくなった。酒屋の御用聞きが、暴力団の若頭に代わったようなものです。 ただし、幕府はそうした海外情報を独占して諸大名と共有しようとしなかったから、かならずしも同時期に武士が同じ時代認識を持っていたわけではない。まだ時代が変わったことを知らない武士も大勢いたということです。 そういう国際情勢に対する認識の相違が、開国か攘夷かという対立になった。その対立が変わったのが下関戦争、薩英戦争での長州藩・薩摩藩の敗北です。西南雄藩といわれ先進的な大藩と思われていた長州・薩摩があのざまでは攘夷なんて到底不可能だという認識を全国で共有することができた。今まで攘夷を叫んでいた人も開国支持に転じたといったことです。幕藩体制で、薩長が腕試ししてくれたお陰で安い勉強代で済んだといったことです。 ちなみに清はアヘン戦争・アロー戦争・清仏戦争・日清戦争と連戦連敗だったにもかかわらず、もはや中華思想の通じる時代じゃないという認識を持てないまま義和団事件で西太后が欧米列強に宣戦布告してしまいます。 攘夷という思想はそもそも無菌室の日本列島に病原菌を運ぶ異国人を入れさせないという思想です。これは決して差別ではありません。実際にアメリカ人宣教師に無警戒だったハワイ王国は、原住民が抗体を持たない天然痘を持ち込まれて、人口が激減し、ついに国を亡くしてしまいました。実際、幕末にコレラが異国人から持ち込まれて流行しました。今まで見たこともない伝染病は人々を恐怖のどん底に叩き込んだ。しかしそれが大流行にまでは至らず、人口が激減せずに済んだのは、蘭学者がオランダの医学に学んで流行病を拡大させない施策を知っていて、それを実施できたからです。 欧米は病原菌の巣みたいなもので西洋では古代から何度もペストの大流行で人口が激減していました。中世はそれはユダヤ人のせいだと思われたりしましたが、19世紀になってさすがに御馬鹿な西洋人もそんな原因じゃないことに気づきました。そうした西洋医学・西洋疫学を学んだ成果で日本は被害を極小化することに成功しました。徳川幕府が長い間、鎖国を続けたのは日本に無い、ウイルス・細菌を海外から持ち込まれるのを恐れたからです。徳川幕府が主要街道に関所を設けたのは、伝染病の感染者がふらうらと出歩いて、病気を広めさせない為だったのです。 長州藩・薩摩藩が下関戦争、薩英戦争に及んでいたのは、攘夷と看板だけは掲げるが、優柔不断でさっぱり実力行使に及ぼうとしない弱腰の幕府に代わって天下に実力をアピールするつもりだったからです。 要は朝廷に対して、もう頼りない幕府に大政を委任する時代じゃありませんよ。これからは頼りになる薩長におまかせあれと訴えたい為の実績作りが下関戦争、薩英戦争だった。ところが結果は薩長のボロ負け。 そうして、誰もが現実を知り、攘夷の無理を悟ることができたのです。 歴史とは歴史家が捏造した記号の解釈学ではありません。

回答No.4

ご指摘の”維新政府”を”新政府”に置き換えるとわかりやすいのかもしれませんね。 御承知かとは思いますが、維新史料編纂会とよばれる組織があります(東京大学史料編纂所に吸収※1942年) 同組織は明治44年(1911年)維新の元勲らによる彰明会を改組し発展させて出来上がる、明治維新とは何だったのか?といった問題を研究する組織です。 この組織の顔触れは井上馨(後に金子堅太郎)を総裁に、元老・旧幕府・諸藩の代表を持って構成され発足します。当初より同組織の設置に関しては「薩長の喧伝である」との批判もあるのですが、維新史料編纂事務局を中心に、昭和6年(1931年)稿本4180冊を脱稿し、別に『概観維新史』『維新史』も上程されるのですが、特に『概観維新史』には、新政府が方向転換をして攘夷の方向性を変えてゆく場面が指摘されています。特に注意すべきは岩倉具視を中心として、なかば強引に方向転換をしてゆくという事です。 「初め王政復古大号令が煥発せられるや、参与岩倉具視は、朝議において欧米諸国と和親交際すべしとの論を唱え、従来鎖港攘夷に慣れてきた朝臣の多数を一驚せしめたが、ついに廟議は勅使を外国公使の許に派遣して、大政帰一の顛末を通告することに決し、宸裁を經るに至った。」 といった経緯です。もうお分かりでしょう。王政復古大号令までは、新政府を作る人々は間違いなく攘夷を標榜していたのですね。そして、この外交の方針転換について朝臣の多数は驚いたんです。 幕末から明治維新といった移り変わりの中で、様々な時代の転換点はあるのですが、王政復古大号令はもちろん時代の画期にあたります。 その様な中”明治維新の結果”としての王政復古大号令と位置づけるのであれば、薩長を主体とした新政府は、新しい時代に入ったとたん、新しい外交政策を打ち出すのです。ですから例え新政府が出来上がった瞬間に方向転換をしたにせよ、明治維新といった変革期には攘夷を標榜していたわけですから、倒幕を含めた、彼ら新政府を作る人々の行動は、やはり尊王攘夷といった思想のもと、明治維新という変革を成し遂げる。といった具合にも評価できるとは思いますが。

edobakuhu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 しっくりきました。

  • Streseman
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回答No.3

>どちらかというと鎖国を維持しようとする佐幕派が攘夷で、開国しようとする討幕派が攘夷を妨げているように思うのですが、維新政府を指して、尊王はともかく攘夷の漢字を当てはめて使うのは、何か違和感があります。 何がどういう訳で討幕派は「攘夷」と名乗った、もしくは呼称されたのでしょうか? ご回答よろしくお願いします。 質問の前提条件が変というしかない・・・ 簡単にいえば、”討幕派は「攘夷」と名乗った”という傾向は皆無ではないが、少ないし、何より『攘夷論』は幕府に対する思想における中枢部分ではないので・・・ ちなみに、尊王攘夷という言葉は、中国の南宋時代の影響を受けた考えなので、原典回帰しないと正しく理解できない 補足説明は請求があれば対応する

回答No.2

攘夷とは 攘夷という文字が使われていますが 譲位(つまり天皇の座を皇太子に譲る)というのが本当の意味として使われています 孝明帝を退位させ睦仁親王に譲位させようとしたので それにかけて攘夷という言葉と文字が使われました

edobakuhu
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。 では「尊王攘夷」は誤植で、「尊王譲位」が本当、という訳でしょうか?

noname#186980
noname#186980
回答No.1

これはウキペディアで調べた方が一番納得すると思います。