明治天皇、つまり睦仁(むつひと)天皇、御称号は祐宮(さちのみや)。孝明天皇の第二皇子。生母は権大納言・中山忠能の娘・中山慶子。嘉永5年9月22日生誕。
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徳川幕府最後のお殿様徳川慶喜が慶応3年10月15日に「大政奉還」を表明して実権を天皇家にお返ししたが、これに反対する旧幕府勢力と、「王政復古」の大号令を発した尊王討幕派との間で軍事衝突「鳥羽・伏見の戦い」とその後の「戊辰戦争」が起こった。
こうした戦に勝利した尊王討幕派は、明治元年3月14日(1868年4月6日)には「五箇条の御誓文」を発布して、睦仁天皇のもとに、新政府の基本方針を表明し、これまでにない新しい政治制度を採用。そして、元号を「明治」として近代国家日本がこの時スタートした。
睦仁天皇、つまり今日でいう明治天皇は、明治6年(1873年)当時、おりから西郷隆盛らによって燃え上がっていた朝鮮侵略の動きや自由民権運動にからむトラブルを自らの勅旨(天皇直々の命令)をもって中止させている。
また、明治15年(1882年)には、軍隊を「天皇の軍隊」と規定した軍人勅諭を発し、明治天皇自らも大元帥として軍隊の統率にあたり、軍備の増強に努めた。当時は世界的に軍事力がそのまま国の力だと評価されていた時代だった。
明治17年(1884年)以降は、間近に控えた議会創設に備えて、立憲制に対応する諸制度を創設した。内閣制度、市町村制、府県制、郡制の制定など、津々浦々に至る官僚制支配体系の整備と並行して、莫大な皇室財産の設定を行なった。
明治22年(1889年)には、大日本帝国憲法を公布。この憲法は、日本史上初めて天皇の権限(天皇大権)を明記しており、立憲君主制国家確立の基礎となった。
しかし、なによりも、先進諸国との交流を深め、海外の文化や文明を取り入れることを積極的に推し進めた功績も大きい。結果的に工業などの新しい産業が発展を遂げ、のちに帝政ロシアとの戦争となった日露戦争を通じて世界に日本という国を見直させた。
もちろんこれらのすべてを天皇ひとりがやったわけではありませんが、有能な人材をそろえ、その頂点に立って自らも積極的に物事にかかわった、そうした姿勢が日本人の一番求める指導者の姿だったのでしょう。