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地球という星に生まれて

地球という星に生れて・・・ 雲を間近かに見ていると、そんな言葉がつい浮かんできた だが、その後の言葉が出てこない 何故だろう? また、これでいいのだろうか?

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回答No.22

雲と呼ばれ あなたに見つめられ 想いを伝えることも かなわず ただ風に流され 空に消えてゆきます いつか私は そこに行きます あなたのもとへ あなた自身となるために はかなくも 無限の存在を 確かめるために 生まれたのは雲 ことばという雲 空に浮かんだ (チキュウトイウホシニウマレテ)・・・ 風に流され 形を変えて 消えていく ・(キュウ)・・  ・(ホシ)・・  ・(ウマ)・・・・

noname#189751
質問者

お礼

そうか 雲に恋されている とは知らなかった こんな素敵な ラブレターが届くとは ありがたい >チキュウトイウホシニウマレテ 語感がいい 改めてそう思う この場合 三つの言葉の切れ目がない 一つの言葉としてまとまっている では試しに 直感の符号化における 実際の言葉の最大選択数は「三」までである 「三」の中の「一」において 既に符号化が達成されているという条件付きである また 「三」が「一」ともなりうる あ~ やってくれましたね~ おめでとう。 ちょっと味気ないので 私もラブレターへの返事でも チキュウトイウホシニウマレテ チジョウトイウソラノシタニイキテ アストイウトキガクルノヲムカエヨウ クモノカナタカライツカノボル ヒカリヲシンジテ コノ テアシヲタシカメナガラ イキテミヨウ ちょっと キザかな~ ごめん。

noname#189751
質問者

補足

皆さんに。 そろそろまとめようか と思っています。 その前に atoさんの答えから導かれた ある事に触れておきたいと思います。 それは お礼の欄で述べた「試し」の前に書いておくべきことのように思います。 楽しい内容ではありませんが 一部の方には参考になるかもしれません。 私自身においては有益だったと思っています。 なるべく箇条書きにして あっさりと述べたいと思います。 解釈や批判は自由です。 地球という 星に 生まれて この三つの言葉の組み合わせが チキュウトイウホシニウマレテ という一つの音声の連なりになりました。 この事を 符号として見た時には 三つの言語符号から 一つの音声符号への変換のように見えます 「三」が「一」になったのです。 では最初に「三」が出てきた訳は 直感に対する言葉の付与において 言葉は符号としての簡潔さが望まれる つまり 直感優位の概念構築における言葉の持つ意味とは 直感の符号化です 突き詰めれば 一字 一音によってもそれは可能となりうる 例を上げれば 「空」とか「阿」です 「阿」に至っては 言葉の付与というよりは むしろ音声の付与による符号化です 直感それ自体が求める言葉とは 以上の如く 正に簡潔であり明瞭性を備えたものです そうした点から見れば 直感に付与する一般言語の数は「三」までである と見るのが妥当と思えます この実例は 文学における俳句に見ることができます(詳細割愛) 「三」を「一」に変換することにより 「三」を「一」として扱うことが可能となります 変換した「一」には 構築した概念は失われていない 一つの音声符号の中に 当初の直感の内容と概念が含まれている このような音声符号としての言葉とは 通常の言葉とは区別されるべきだと思います この実例は 般若心経に見ることができると思います 末尾に記されている真言は 繰り返し深く観察する智慧の働きとその内容を 真言という音声符号として表しています 真言が如来語、秘密語といわれるのは 通常の言葉とは区別されるべきという意味でしょう 一音から 長い真言まで それらは全て「一」の音声符号です 直感に付与する「一」の音声符号です 般若心経の「一」真言には 色即是空 も当然含まれていると思います だいたい以上です。 質問の答えは これらの中において 既に出てしまった感じもしますが それらは 心の働きの仕組みという面においてのように思います。 atoさんの答えから 一気に正解に近ずいたような感じがします。 私にとっても大変有益でした。 質問してよかったと思います。 残されているのは ごく一般的な感性面において求められる展開でしょう。 地球という星に生れて という言葉には きれいな世界に生れて というニュアンスがあります きれいな世界を 自己の有り方と共に きれいに表現してみたい というものです そのへんを締めくくりにしたいと思っています。 ありがとうございました。

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回答No.19

No.14,18です そういえば、言葉が続かない句を二十数年余りに渡って抱き続けていたことを思い出しました。。。 「思い出は 夕焼け色に 浮かび来て・・・」 幾千もの言葉を当てはめようとして、どれもこれもしっくりしないまま、あきらめて放置していたというのが真相ですが、夕焼け空を見ると、ふと、思い出す句です。。。 言葉の続きへ意識が行くのではなく、言葉をもたらしてくれる「そのもの」へと思索が彷徨うからなのかも知れません。 にもかかわらず、言葉の向こう側に何かを求めているように錯覚してしまうのかも知れません。。。 いや、昔撮影した佐渡の夕焼けの写真を見返してみて、ふと、思い出しました。。。 忘れていた大切なものに出会ったような、そんな感覚です。 ありがとうございました。

noname#189751
質問者

お礼

>幾千もの言葉を当てはめようとして、どれもこれもしっくりしない・・・ >言葉をもたらしてくれる「そのもの」へと思索が彷徨うからなのかも知れません。 やはり 直感に対する言葉の付与の問題 のようです 私も今のところ そのへんを考え続けてています 俳句で 最後の言葉が見つからない 決まらないというのは よくある事です たいていは 前の言葉で言い切ってしまっているから でしょう 未完成の句を楽しんでください。

回答No.18

No.14です 前回、取り留めなく、思いつくまま勝手に書いてしまいました。 大部と思うところが異なっていたのでしょうね、細かな背景描写をいただき、ありがとうございました。参考になります。 雲の変化に畏怖の念を抱くといった感覚も時にはあります。しかし、それほど多くは無いですね。 私が雲を見るときには、形、光、影、色の変化を楽しんだり、(心が雲に飛んでいくような感覚で)戯れたりしています。 畏怖の念に近いものは、やはり入道雲の系統に多く感じます。何かの構造に見えたり、窪みがあって、光と影の加減で中に何かいそうな感じがしたりするものとか、雲そのものではないですが、雲間から放射状に伸びる光の帯などを見ると、昼間、何の変化もなければ気づくことの無かったような「闇」とか「光」が浮かび上がり、生命の息吹のようなものを感じて、生きていると同時に行かされているという感覚になることもあります。 雲の影の部分の色の変化もいいですよね。特に朝焼けや夕焼け時のオレンジから紺・グレーへのトーンの変化は見飽きないです。 http://jinen.exblog.jp/7755360/ 小さな頃、寝転がって青空をみていると、毎回かならず距離感が無くなって目が回る感覚に襲われていました。それ以降、雲一つ無い青空には、無意識のうちに恐怖心を抱くようになっていたのかも知れませんが、晴天の空よりも、雲が適度にある空を好ましく思うようになったのかも知れません。 自然というものを意識するにしろ、意識しないにしろ、常に自然と共に(いや、その内部に)いるということ、そうして、一体であるにもかかわらず、人工と自然といった概念で切り離して見てしまいがちであるため、変化がなければ認識することすら難しいということ。 だからこそ、空気や光といった目に見えないでいて非常に重要なものが、雲という水蒸気にて目に見える変化として捉えられたとき、体内部の大気や水、そうして光も一緒に変化するかのごとく、感動が体を貫き、なにがしかの言葉に残したいという思いが湧き出るのかも知れません。 また、今回も取り留めもなく書いてしまいました。。。 あ、そうそう、雲も好きですが、秋の透明な感覚の大気も好きです。

noname#189751
質問者

お礼

少し安心しました バカになって自然に見とれているのは自分だけではない ようだ からです。 自然に心を奪われるのも 人間として当たり前なのでしょう う~ん と 不思議なのは 二度の事件で共通している点です それは 雲のある空の風景なのですが 背景に きれいな青空があったことです 小さな呟きも 青空が見えなかったら 或いは出てこなかったかもしれない >晴天の空よりも、雲が適度にある空を好ましく思うようになったのかも知れません 青空だけでもダメですし 雲だけでもダメ なのでしょう こんなところにも 感性的符号の秘密がある といえばあるのでしょう 青と白の 純色の広がりが与えてくれるもの なんとなくきれい で終わってしまう時もあれば それ以上の感覚に昇華してしまう時もあります 一度目の時は まさにそうしたものでした 二度目の時は 一度目とはかなり違っています 青空と白い雲はありましたが なんといっても 雲そのものの存在感が大きかったと思います そのへんの違いが 言葉の違いとなったのかもしれません >雲という水蒸気にて目に見える変化として捉えられたとき・・・ 大仏次郎氏が随筆で 水蒸気の魔術 といっていますが 私は あまり魔術という言葉は好きではありません また 水蒸気というものを感覚的にとらえているとは思えないのです この 水蒸気の魔術という文芸的表現以前に 本人だけの別の言葉や呟きがあったかもしれないと思います 他の人を意識しない 自然と直結した言葉です そうゆう言葉の方が好きですし 奥行きが感じられるような気がします >秋の透明な感覚の大気 同じ日本人でしたか ありがとうございました。

  • eld3399
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回答No.17

地球という星に生まれて、地球人よ天からの印に注意せよ。

noname#189751
質問者

お礼

>天からの印に注意せよ。 印ですか 印といえば 印になるのかもしれない さて 地球という星に生まれて の続きの言葉としては まとまっているような感じもしますが どうでしょう。 私には いまだ 続きの言葉が見つかりません。 そのへんのところを補足としたいと思います。 ありがとうございました。

noname#189751
質問者

補足

雲の浮かぶ空を見て 出てきた言葉 一度目は 厳かな世界に生れてきたのだ 二度目は 地球という星に生れて だが 後の言葉が出てこない なぜだろう この体験の共通性を探っていって気が付いたこと・・・なんだけど 言葉を付け加えようとする気になれなかった また 付け加える言葉は不要だったのではないか とさえ思えてくる では 何故そうなのか 「来た」という表現が相応しい 得たものに対して それ以上の(必要以上の)言葉を加えることは意味をなさない もう少し 深く見てみよう 直感の受動性において得たものに対しての概念化は 必要最小限の言語によって符号化される 符号の純化の度合いにおいても 言葉とは選ばれた最少のものを用いるのが相応しい 完成された符号に基ずく概念に さらに概念を加えることは 直感によって得たもの そのものに対しては意味をなさない 足すことも 引くことも NOである と 考えてみたのですが どうでしょう。 多くの言葉を費やすよりも 少ない言葉にこそ真実がこもっている ということもあるかと思います。 まあ それが そのまま人に伝わるかどうかは別になりますが  そんなところです。 気が付いたことがあったら教えてください。

回答No.16

#11の者です。 >たぶん私も ウンコ虫 に違いないのでしょう。 >小さいウンコ虫です >自然は私をどう思ってくれているのかな~ 物質循環において、地球上の生態系は1つの循環= 1個の生命です。 そこにおいて、生態系の頂点とは、有機物を分解して 土に返す最後の段階、肛門です。 肛門がどんなに小さくても、痔ろうになって機能不全と なっては全身が困ります。 順調にウンコを出す、立派なウンコ虫でありたい。 (他と比較して、「上回ろう」とするのが間違い)

noname#189751
質問者

お礼

再度ありがとうございます。 >生態系の頂点 >他と比較して、「上回ろう」とするのが間違い いいですね 自然に対して謙虚であれ というようにも聞こえてきます。

回答No.15

若し地球なる星で誕生を迎えていませんでしたら、 其の場合には、そもそもどうだったのでしょうか? http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0

noname#189751
質問者

お礼

街中の公園にも蝉が賑やかに鳴いています そこだけで生まれ、子孫を残し、命をまっとうして去っていく蝉も多い 公園の中の小さな自然の中で 数少ない樹木の根元から生まれ 数少ない樹木しか知らぬまま生きて 短い命を終わるのです 小さな公園を地球にたとえれば 蝉にとっては そこが全てです 生まれたところであり 生きてゆくところであり 死んでゆくところです もし 私という一匹の蝉が 大きな公園や、自然の野山に生まれてきたのだとしたら 或いは 幸せかもしれない でも きっと繰り返し呟くかもしれない 地球という星に生れて・・・ 昔 ダライラマが言っていたことがあった 自分は地球という惑星の、この場所にまた生まれてくるのだと これは 観音の化身として何度でも(苦しみに満ちた)この世に生れてこよう という聖者の言葉です 私はというと どこの星に生まれても ただ ミ~ンミ~ンと鳴いているだけでしょう 時々空を眺めながら ちょっと情けない感じではありますが

回答No.14

雲を間近に見ておられたということは、高い山に登られたときなのでしょうか? それとも、飛行機に乗って雲海の上を飛んでいるときなのでしょうか? 。。。 私は、雲とほとんど同じ高さにいて、雲を眺め続けることが好きです。 。。。 普段見慣れていない、雲が間近に見える高さまで登ったとき、 「○○県」とか「○○国」とかいった分断された概念ではなく、 「地球という星」といった、すっぽりと覆いつくすような、 あるいは囲むような感覚。。。 人が引いた境界概念など、あざ笑うかのようにうねる山脈、流れる川、連綿と続く植物の海、水平線が丸く見える海。。。 ほんの数時間後には、水面とほとんど同じ高さに戻り、 喧噪な日常に埋もれていくことを、ふと思うのと同じように。。。 日常生活のほんの一瞬でも、雲と同じ高さにいて、 地球という星を実感できたことを思い返すことができるのに。。。 どちらかのみを選ぶことができるというのなら、 雲の高さに住み続けたい。。。 しかし、日常と呼ばれる世界があるからこそ、 雲の高さに憧れ続けることができるのだと、そう自分に言い聞かせている。。。 雲の世界を通り越し、 宇宙の渚を漂い、 地球をピンポン球ぐらいに見て取れる宇宙空間を漂うことも夢想できる。。。 でも、遠くから俯瞰すればするほど、自身の存在すら薄れていく。。。 そのとき心のどこかでささやく声がする。 「逃げている。。。」 雲は思索の境界を形成しているのかも知れない。。。 ふと、NHKだったか、震災前に福島の海岸線に沿って飛ぶモーターパラグライダーからの空撮映像を録画して見たことを思い出した。。。 雲の高さを超えない程度に、水面と地表から、それほど高くないレベルを飛ぶのなら、理想と現実の両方のバランスを保てるのかも知れない。。。 その高さを探し続けるということもまた、「何かを求め続けるふりをしつつ、何かを避けている」からかも知れない。。。

noname#189751
質問者

お礼

ありがとう 今回の事件の発端の概要 場所    とある大きな会社の駐車場 目撃体制 寝そべって仰向けになっていた 体調    やや良 時間    午前10時~11時の間 天候    くもり時々晴れ・にわか雨あり 気温    約28~30度 目撃内容  大気の上層にはやや薄い雲が広がり、殆ど動いていないように見える いわゆる秋雲だが、ごくゆっくりと西から東方向に動いているようだった 下層の雲は、かなり低く、東から西へとかなり早く動いている 高さは2~300mぐらいのようで、かなり間近に見えた 中層の雲は、もくもくとした感じで、夏雲でいう雲の峰というやつ 積乱雲の小型タイプで、ちょっと迫力のあるやつも多い この中層の雲もゆっくりと北西から東南へと動いているように見えた 沢山ある雲の間からは青空がきれいに見えた 風は、下層の雲を運んでいる東風で、体感的にはかなり涼しく感じた 雲の目視感覚 上層の雲は白一色で、一部筋雲になっていた、軽々とした感じ 中層の雲は上面の日の当たる部分は、かなり白く、青空と対象的で、量感的な存在感がある 下面は平になっていて、色はグレーで、雲の大きさによって色合いが微妙に違うようだった 下層の雲は、動きながら形を変えるのが早い みるみる間に雲散霧消してしまうものもある 色合いは、中層の雲との重なりによって、白から濃いグレーへと常に変化している 日の差すところに来たものは、真っ白で、青空の中の綿毛のような感じで、生き物のようにも見える 事件の伏線 以前に、林の中から青空と雲を見ていて似たような感覚を味わったことがあった その時は、ちょっとオーバーな言い方だが (自分は)厳かな世界に生まれてきた のだと思った 自然への畏敬の念というものだろう 自然の中での 自分とは何なのだろう 自分を粗末にしてはいけない という事も感じさせられる 言葉という限られた貧しさは そのままでもいい という感じなのだが さてさて 自然への返事とは難しい 

回答No.13

 現段階では「うんこ虫」の頂点にいるのが人間です。  その「うんこ虫」が取得している精神(意志、理性、感情)のレベルを、それ以下の生物は得ていません。  青空に現れる白雲を見て、“不思議な感覚”を覚えるのは生物の頂点に位置付けられる“人間”故と言えるでしょう。  生物がアメーバの段階で止どまっていずに、植物、魚類、ほ乳類と“進化”して、そして人間が現れたのはどうして?  アメーバから途中を飛ばしていきなり人間が現れたんではないんだよ。  この地球上に現れる生物は、“進化”を階段(かいだん)に例えれば一段一段昇って順序良く段階(だんかい)を経て進化し、そうしてその頂点に人間が現れました。  この自然に、順序良く階段(かいだん)を登って、と云う秩序のあることの“不思議”を思えば、我々を存在させているこの宇宙に「理性」有る故と思えませんか。  宇宙の精神の一部分である人間の心は、他の動物と違って優れた脳を与えられたので、宇宙の精神の働きの一部分である意志、理性、感情、記憶力などを発揮できるのです。  たぶん“うんこ虫”という言葉で表現するのは、肉体的な生物という一面を強調して見ているからでしょう。  肉体的には人間は、生物の頂点にいるとは言えません。チンパンジーの手の力は人間の数倍の力があると云うし、チーターの走る速さに人間が追いつくことは無理でしょう。また人間以外のほ乳類は衣服なしで一年を過ごしますが、人間は裸では冬なら一夜を過ごすことさえできないかもしれません。  でもこうして生物の“頂点”に居るのは精神性の高さに因るので、そこを観ずして“うんこ虫”である点だけを取り上げては、人間を正しく捉えることはできないのです。  まさに人間だからこその精神の高さであり、それゆえの心境、想いの現れ、だと云えます。  

noname#189751
質問者

お礼

そうか 頂点を極めたのか と 少しはうぬぼれてみよう これで少しは救われる だが 命の本質は等しい という感覚は忘れないでおこう >宇宙に「理性」有る故・・・ このへんは怖い感じ 五智如来のおでまし といった感じ だ と 自分は 無知如来なのだろう 仏性種子から見た宇宙の荘厳・・・などと言ってみようか お許しを。

回答No.12

>何故だろう? 加齢による知能低下かもしれんな。 >また、これでいいのだろうか? 良くは無いけど、受け入れるしかあるめぇ。

noname#189751
質問者

お礼

>加齢による知能低下かもしれんな。 違います もともと低いようです だから困っている >良くは無いけど、受け入れるしかあるめぇ。 そうなんですよ 半ばあきらめている うっ うっ うっ 涙が

回答No.11

気張る必要はない。 そもそも、人類は「食物連鎖の頂点」と言いますが、裏返せば 他のあらゆる生き物に依存して生きている寄生生物だという 事です。 食物連鎖のピラミッドの下の方の生物は、上の方の捕食者が いなくても困りません(助かりはしても)が、上の生物は、下の 生物がいないと生きていけません。 すなわち、「人類」は、生物として完結していないのです。 地球上の生態系の本質は、日光によって励起された化合物の 合成(光合成=植物)と分解(消化=動物)の連鎖反応です。 植物が成長(合成)するためには、二酸化炭素と水、窒素などの 化合反応の材料が必要であり、動物抜きの分解(紫外線による 分解や大気中の酸素による酸化)より、動物による能動的摂食と 生化学反応的酸化による、高速の分解の方が、有効なのです。 生命の進化とは、いかなる“強い種”の創出でもなく、地球に降り 注ぐ日光が輻射によって再び宇宙に還って行くプロセスに於ける、 生態系としての多様化=地球上の熱容量(物質循環量と速度) の増大だと言えるのです。生物は、エントロピー増大に抵抗して、 成長したり、増殖したりして、エントロピー減少して見えます。 しかしそれは、生物にしても、社会的な要素にしても、「開放系」 だからです。 生物は、自分のエントロピー増大を新陳代謝するために、環境の エントロピーの低い物(食物、燃料)のエントロピーを増大させて 放出(排便、廃棄)する事で、環境も含むトータルな閉鎖系では エントロピー増大を加速しています。 それでも、生態系全体の進化はエントロピー減少していますが、 それも太陽の核融合というエントロピー増大の一環である、 「日射>光合成>摂食>消化>酸化>輻射」という一時的な 地上の熱滞留としての、開放系ゆえのもので、結果的にはエン トロピー増大を加速するものです。 先にあるのは太陽光=植物による光合成であり、動物はその 有機物の分解を加速して植物の光合成の原料にする(物質循環 の加速)ための寄生的な存在(ウンコ虫)に過ぎないのです。

noname#189751
質問者

お礼

すいません 先生の卓見は どうしても斜めに読んでしまうのです 末尾の ウンコ虫 がいい たぶん私も ウンコ虫 に違いないのでしょう 小さいウンコ虫です 自然は私をどう思ってくれているのかな~ 聞いてみます。

回答No.10

主題を欠いた自然描写には、…。

noname#189751
質問者

お礼

ついに ・・・ にまとめられてしまった これでいいのだろうか 当たり前だが 自然は人間の感覚では捉えきれない 捉えきろうとする事が間違っている といえばいえる でも そうゆう自分と向き合わねばならない時もある ちょっと 恰好をつけてみました ありがとう。

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