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無い神は有る

  ある人の信仰 無い神は有るとゆー。 無い神を信じることも、有る神を信じることも共に等しく信仰であり対等であるともゆーておる。 果たして無い神は有るのか。  

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回答No.14

 ☆☆(回答No.13) ~~~~~   おさな子のこころの内なる《非思考の庭》が クリスチャンの子とユダヤ人の子とムスリムの子とアルケー信者の子とでは 有意なチガイがあるとでも言いたいの? 無神論者の子は論外だとでも言うわけ?  ~~~~~~~~~~~~  ☆ これで 明確に持説をのべています。  それに答えず 他方では わたしが結論をはっきり示さないと言っているようです。    無神論者の子であっても ほかの信仰形態の親の子であっても 《非思考の庭》なる動態は 同じだという結論を いやというほど あきらかにして述べています。  ただし 宗教は オシエの問題に問題がすり替わっていますから 話がややこしいのです。

hitonomichi23
質問者

お礼

  >無神論者の子であっても ほかの信仰形態の親の子であっても 《非思考の庭》なる動態は 同じだ あなたに次の言葉を送りましょう。 「人の道は信仰の上に信仰を作らず、信仰の下に信仰を作らず」

その他の回答 (13)

  • kurinal
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回答No.3

だから、「信教の自由(ただし、他者の人権を侵害しない限りにおいて)」 だから「ある人の信仰」も、当然、社会的に認められ、得る。

回答No.2

 “信仰=信じる”そして“無い神”と云う言葉を「ある人」がどういう思い(意味)を以って使っているのかを見極めなければ、この“無い神は有る”と云ったような一連の「ある人」特有の言い回し、表現からその意を察することは難しいでしょう。  「ある人」の造語だと思える“非思考の庭”、を“ヒラメキ”と関連づけてみると、人は経験を通して学習する前の事柄、例えば幼児には学習する前の、言い換えれば初体験であっても“暗闇”を恐れたり、母の腕から離れることの理屈抜きの不安感、を感たりする精神世界のあることに着目してそこに焦点を合わせて考え、その精神世界を“非思考の庭”と云い、幼児の考え抜きの精神の反応を“ヒラメキ”と表現しているのだと思います。  そして「ある人」は“非思考の庭”と“ヒラメキ”の関係を“信仰=信じる”と表現しているようでもあります。  日本の八百万の神は、非思考の庭への人々のヒラメキが造りだした神と云えるのではないでしょうか。  その神々への理屈は後付けであって、発生元はヒラメキから、そしてそれは“非思考の庭”の有ることを“人の心を通して”証明している、と云え“無い神”とは思考によって造られた“既成の”神の事ではなく、この“非思考の庭”の事を指している、と思えるのです。  思えば、宗教、教団というモノへの不信感が根に在って、そこから『釈尊』の業績は“教え”であるので“信仰”ではないという、釈尊否定の論が作り上げられたのでしょう。  

回答No.1

無い神は無い。 有る神はある。のである。これは当たり前の物理学的理論です。 しかし、信仰と信心は違います、信仰とは有る神を信じているのであって、 信心は無い神を有るとする自己満足的な行動です。