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アルケーの神とは?
- アルケーの神は感じるものであり、真理の探求である。
- アルケーの神は我々と接しており、そこここに存在している。
- アルケーの神を感じるには深い試練を経なければならない。
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質問者が選んだベストアンサー
問題をトータルに考えて、以下のとおりお答えします。 (1)その「或る人」と思しき人は、時に面白い質問をすることもありますが、しばしば、「対話の基本ルールを逸脱」していると思われることがありますね。 (2)お礼欄などで、ただ反論して、質問というよりは単なる自己主張のためにこのサイトを利用している、としか見えないこともあったように思います。 (3)「アルケーの神」ですが、「そんな汎神論あるけー!?」。いや、失礼しました。信教の自由を冒涜したかも知れませんので、この節(の前半)取り消します。 (4)確かに、信教の自由もあるし、表現の自由もありますが、こういうQAのサイトで自己主張(や押しつけ)はなじみませんよね。 (5)人間、すべからく「自己中心的特殊規定」(ラッセル)なところのあるのはやむを得ませんが、卑しくも、対話をしようという場合は、「弁証法」(ヘーゲル)や「パースペクティヴィズム」(オルテガ他)の方法を参考にするなど、幾分なりと、「共同作業での上昇」を目指したいものですよね。 (6)「真理」について言えば、「常に同時に」(カント)妥当する真理などないでしょうね。ですから我々は、真理の探究においてはより謙虚でなければならないと思います。お互いにそういう暗黙のスタンスに立ってやりとりする時こそ、生産的な有意義な対話が生まれるのではないでしょうか。 (7)Discendo liberior.「学ぶことによってより自由に」と言われます。ということはつまり、「学ばない状態」は、我々が、独断・偏見・混沌・迷信・妄念などによってがんじがらめに拘束された桎梏状態にある、ということを意味するのだと思います。 (8)ある哲学書で読んだことですが、「真の賢者とは、愚者に成り下がる危険を常に感じていて、そこから逃れようと絶えず自己研鑽をする人のことだ」そうです。 (9)我々にとって、賢者になることはそう簡単ではないかも知れませんが、少なくとも、それを目指そうという心的態度を維持することくらいは、意識に留めておくべきだと思います。 (10)裏づけや論証もなく、ただやみくもに自己主張や押しつけをするのは、対話によるaufheben(止揚)や互恵的上昇への願望、認識における桎梏状態からの脱却や自己研鑽への志向を欠いた行為だと、私は考えます。 これらのことから、「このやり取りを継ぐ人はいないだろうか」とのお尋ねに対して、「少なくとも私はなれそうもありません」とお答えするしかありません。そっけないお答えですみません。 以上、ご回答まで。
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- 畑 茂夫(@Flareon)
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例の困った人に関してしつけそこなった点の反省だ。 > そもそも、どうやらあの気の毒な人は、そうした神の意思の解釈を、誰かほかの人の言葉を引用するだけで、自ら口にする事が出来ないらしいんだ。 言いだしっぺは本気だろう。 理解できぬ者の口から洩れる限りは信実すら嘘だ。 誰かが本人の心情を明かす言葉として真摯に神を語ったとしよう。 そのようにあってこそ、まあ自らの心を打ち明ける事であろう。 その言いだしっぺ本人については真実そのものだ。 それを聞いて誰かがほらを吹くのだよ。 自らは神を知らず、神を知る人の言葉に聞き耳を立て便乗するホラ話だ。 同じ事を語っても、ホラ話は所詮嘘だ。 私がさんざんぱら言ってる「おまえは神を知らないではないか」「そんなもんありゃしねー」「その言葉は神を語っていない」このようにいじめ放題の無なのだろう。 あの気の毒な人は、自らがいただくアルケーさんすら半信半疑なんだろう。 おかげで、めちゃんこデービルアルケーさんを私が救済することになりそうな雲行きだよ。 私は悪魔に対して常勝不敗無敵状態でこういうくだらない世話をいっぱい焼いているんだよ。 嘘に辱められた真実を見いだすことだ。 仏はそこまでしない。 いかなる乱戦もものとはない仮面ライダーの仕事だ。 あの気の毒な人には、私も私なりにライダーキックを御見舞してみるよ。 それはともかく嘘とはこのように生まれるのだろう。 真実であっても語る人によっては嘘だ。 その嘘のしっぽなら見え見えなんだけどね。
お礼
★ 私がさんざんぱら言ってる「おまえは神を知らないではないか」「そんなもんありゃしねー」「その言葉は神を語っていない」このようにいじめ放題の無なのだろう。 ☆ これは 理由としての推論が成っていたとは覚えていません。あしからずながら わたしには通用しません。 ご回答をありがとうございました。
- 畑 茂夫(@Flareon)
- ベストアンサー率28% (459/1605)
むなしいよもやま話だよね。 > ◆ アルケーの神は我々と接していると言ったのである。 ☆ そうですよ。 神の意思は世の全てに行き届き、神に理解できないことはない。 こういう噂話を引っぱり出しているのだろう。 それは正解なんだが、噂話をなんだかんだ言ったってしょうがない。 そもそも、どうやらあの気の毒な人は、そうした神の意思の解釈を、誰かほかの人の言葉を引用するだけで、自ら口にする事が出来ないらしいんだ。 言いだしっぺは本気だろう。 理解できぬ者の口から洩れる限りは信実すら嘘だ。 この場合の理解する事とは、それが信じる事なのだろう。 信じたから理解できるとも言えるがね
お礼
つづいてです。 ★ そもそも、どうやらあの気の毒な人は、そうした神の意思の解釈を、誰かほかの人の言葉を引用するだけで、自ら口にする事が出来ないらしいんだ。 ☆ と見るわけですね。 たぶん問題は 《宇宙の法則》とかんたんに言いかえているところではないかとも考えます。 ここでは その議論を蒸し返すわけには行きません。
- 畑 茂夫(@Flareon)
- ベストアンサー率28% (459/1605)
そこらじゅーに転がっているということならね、 神が残していった奇跡と言う足跡の事だよ。 あの気の毒な人は、それを感じると言いたいんだろう。
お礼
ご回答をありがとうございます。 でも ただね ◆ アルケーの神は我々と接していると言ったのである。 ☆ そうですよ。
- ukiyotonbo
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アルケーの神を感じられるようになりたいようだな。なかなか見所があるぞ、暉彦。 まずは、初歩を教えてしんぜる。 南南西の方角へ一礼二拝。臍を出し、突き出しながら、大きな声で「臍ビーム」と3回叫ぶ、北北東に向きをかえて一礼二拝。 これを毎朝、毎晩、続けなさい。 「真理の探求ってゆー深く長く厳しい試練を経なければならないのである」。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~ もちろんアルケーの神はそこここにうようよしています。 だからアルケーの神は我々と接していると言ったのである。 しかしそのアルケーの神を感じるよーになるには、真理の探求ってゆー深く長く厳しい試練を経なければならないのである。 漬かっていてはアルケーの神を感じることはできませんってこと。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまり (あ) 接しているけれど 漬かっていては 感じられない。 つまりそうすると (い) アルケーの神は その神と接している人が 漬かっている状態にあると その接触の感覚が妨げられる。 つまり (う) アルケーの神は 《漬かっている状態》には勝てない。 こういうことでしょうか?
補足
お礼欄をおぎないます。 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~ つまり (う) アルケーの神は 《漬かっている状態》には勝てない。 こういうことでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまりじつは わたしもこの或る人とのやり取りにおいて あたかもこのような状態であった。つまり わたしのチカラは――神ではないですが―― 漬かっている人には勝てなかった。という体験はして来ていますが 果たしてそういうことだったでしょうか?
- 0fool0
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まぁ、何と言うか・・・ 理解する必要があるのですか? 漠然とは判りますが、どの立場で語るか? 文章の内容は道教か禅宗の摘み食いです。 しかし語っているのは悪霊かマガツ神です。 盲信の否定をしたいのでしょうが、其の考えに盲信しているからこその悪魔に魅入られた如きの発言です。 常に一緒に居るのに「さよーなら」? 人を不安にさせる音で満ちています。 あぁ、「アルケー」の音も気持ちが悪いです。 命令形の「歩け」に酷似し、且つそれを伸ばし印象付けています。 不安を煽るタイプの音です。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 理解する必要があるのですか? ☆ けっきょくの問題は 相手も人間であるということです。理解不可能または理解不必要な内容でも 人間を放っておくことは出来ないという感覚があります。でも ふつうにこたえることが出来なくなりました。(主題の違った問題であれば 応答できることもあるかも知れません)。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ 文章の内容は道教か禅宗の摘み食いです。 しかし語っているのは悪霊かマガツ神です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ですか。そのあとのご説明を読むと けっきょくは 理解不能ということになるのでしょうか。 ★ 盲信の否定をしたいのでしょうが、其の考えに盲信しているからこその悪魔に魅入られた如きの発言です。 ☆ 盲信というのは 猛進するほどつよく硬い岩盤なのですね。 様子を見る・見守るということになりましょうか。と ご回答を読んで思いました。
お礼
なかい702さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 こういったやり取りが出来ることをさいわいに思います。 議論はご法度だと言う人がいますし 字面では規則はそうなっていますが そもそも OK ヱーヴの精神から行けば 互いにしっかりと情報交換をおこない また自由に批判をしあってこそ――その自由がいちばん大事なのではないでしょうか(それが 日本をよくし つよくする)―― のぞむべき《波》だと考えます。 さて包括的なご回答内容であるようです。 ★ (1)その「或る人」と思しき人は、時に面白い質問をすることもありますが、しばしば、「対話の基本ルールを逸脱」していると思われることがありますね。 ☆ 特には 自分の見解が旗色がわるくなったときに多いようです。次のご見解にもうなづきます。 ★ (2)お礼欄などで、ただ反論して、質問というよりは単なる自己主張のためにこのサイトを利用している、としか見えないこともあったように思います。 ★ (3) ☆ まぁわたしとしましては この《アルケー》は ただただ名前であり むしろシルシとして受け取っています。(もっとも 《元初》であり《原理》でもあるようですから 必ずしもひどい命名ではないようですが)。 ★ (4)・・・自己主張(や押しつけ)はなじみませんよね。 ☆ すなわち (1)でも触れましたが 自分の持論がまだ持ちこたえると思っている間は ときどきですが ふつうにおだやかな振る舞いでこちらに接して来ることもあるのですが 雲行きがおかしくなると 《アルケーの神は 唯一絶対である》の連呼になります。哲学ではなくなります。 つまり何故このようにしつこく言うかと言いますと そのようにクリンチで逃れたあとは またまた初めからやり取りをやり直さざるを得なくなるからです。初めからやり直す嵌めに これまでに何度 落ち入ったことか。 ★ (5)・・・「共同作業での上昇」を目指したいものですよね。 ☆ 文句なしに同感です。(部分的な復唱=引用になってしまっていますが)。 ★ (6)・・・ですから我々は、真理の探究においてはより謙虚でなければならないと思います。・・・ ☆ つまり 自分の見落とした点や考え及ばなかったことが 無料でおそわることができるわけですから。 ★ (7)Discendo liberior.「学ぶことによってより自由に」と言われます。・・・ ☆ まぁ 正直なところ 自信のあった論点や自分の持論などについてマチガイを指摘されると くやしいのですけれどね。 ★ (8)・・・「真の賢者とは、愚者に成り下がる危険を常に感じていて、そこから逃れようと絶えず自己研鑽をする人のことだ」 ☆ そうですね。無知の知の問題にも通じているようです。あるいは 《 docta ignorantia (学知ある無知)》だとか。ちょっと見てみたら 次もありました。: ▼ (Wikip: docta ignorantia ) ~~~~~~~~ http://en.wikipedia.org/wiki/De_Docta_Ignorantia A Pseudo-Dionysius the Areopagite advises his reader to ἀγνώστως ἀνατάθητι, "strive upwards unknowingly" (De myst. theol.c. 1, § 1). ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ (9)我々にとって、賢者になることはそう簡単ではないかも知れませんが、少なくとも、それを目指そうという心的態度を維持することくらいは、意識に留めておくべきだと思います。 ★ (10)裏づけや論証もなく、ただやみくもに自己主張や押しつけをするのは、対話によるaufheben(止揚)や互恵的上昇への願望、認識における桎梏状態からの脱却や自己研鑽への志向を欠いた行為だと、私は考えます。 ☆ その自己研鑽が どこかで中断し どこかでその中断のまま凝り固まってしまった。こういう感じを受けます。 ★ これらのことから、「このやり取りを継ぐ人はいないだろうか」とのお尋ねに対して、「少なくとも私はなれそうもありません」とお答えするしかありません。そっけないお答えですみません。 ☆ いえいえ いえいえ。哲学の広場といった感覚を およそ初めて持ちました。これまでは 見解の合う人や違っていても自由に批判し合える人がいるもんだなぁと思っていましたが この質問でのやり取りをとおして 互いに対話をしあえる広場という感覚をおぼえました。 (これまで おだやかで活発な意見の交換がおこなわれていたとしても 必ずしも問い求めとしては 進んでいるようには――傍から見ていて――思えなかったのです)。