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人格の核融合とは意志行為の共同性?
- 人格の核融合とは、互いに意見の食い違いを容認しつつ共同の意思決定をする過程を指す。
- その過程は永久革命のようなものであり、プラスαのエネルギーが生まれる。
- 核融合には「旧約聖書・雅歌」からの引用も関連付けられる。
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こんばんは。 >親が子に対してそそぐ愛には 子がよく生きることを自己のこととしてのように振る舞う愛がある。とは見られませんか?< え~と、どう考えてもこれも自己愛に入ってしまいますね・・・ >その相互理解がすすめば 或る程度の《ゆづりあい》ということが起きて来る< これは、性格の問題です。能力主義で選ばれた人々皆には、あてはまりません。学歴社会に於いて低層から這い上がった官僚が扱いにくいのは当然です。彼らは、豊臣秀吉タイプでしょう。同じように、経験から直観を鍛え抜いて生き残った実業家がワンマンなのも当然です。 >自由意志が量子的であり< 深い意味はありません。人間の性格や才能は、もって生まれたものです。それが、誰も自分では分からないから苦しむのでしょう。 人は何かをしたい、と意志をもちます。でも、その局面に成らなければ判断できません。極端な場合、自分の意志とは逆の判断を強いられることになります。「結果よければそれでよし」ということもあります。 やはり、コミニュケーションと自己中な行動により、自分を見極め鍛えるしかないような気がします。
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- 雪中庵(@psytex)
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人は、感じている「自分」の中が、自分だと考えるが、 実は、その見ている「世界」こそが自分の中なのだ。 そして、その「世界」は、皆んなも見ている=既に 共有されているのだ。 それを、自覚を肉体の即物性や短絡的衝動に束縛され る時、自己(認識可能性の時系列化)の射影としての 他人と分断されるのだ(自己の内なる世界において)。 社会生命としての自己の生の拡張、地球環境との物質 循環、宇宙の存在による物理定数の確定(宇宙膨張= プランク定数の収束、宇宙の物質の配置=慣性質量)、 というように、自己は環境に拡張し、究極的に、宇宙は 自己存在の必要(前提条件)として派生しているのだ (現在=感受表面からの、過去(=記憶=時間軸)と 未来(=予測=空間軸)の相補分化)。 そんな「自己の必要としての環境」に対して、肉体に 付随した感覚器官に依存して生じる自覚は、表面的、 自己中心的に流れ、自己矛盾としてその環境(本質的 自己)とぶつかる。 そうして肉体表面から発生した認識が、社会生命と しての自覚、地球の物質循環の一環としての自覚、 宇宙の起源としての自覚に至る時、その愛(他我)に おいて、最大限の社会の協同、環境の持続的物質循環、 全ての必然の自由化が可能になり、最大充足は可能に なるのです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 このお礼欄にて 補足要求をも兼ねます。 ★ 自覚を肉体の即物性や短絡的衝動に束縛される時 ☆ というように――おそらく思うに悟性における――《マチガイとしての認識》をなぜ初めに持って来るのか? いや 言い直さねばならない。 ★ 肉体の――感性としての――即物性 ☆ には いわゆる善もなければ悪もない。判断としてのマチガイもまだ生じていない。 感性としての内容を認識する悟性。この世は どうもザラザラしているなとか 丸いかたちに見えたが よく見るととんがった三角もあれば 四角もある。 さらにこの悟性認識を 自己の好みや信念や世界観にもとづき 価値判断する。よいわるいと見る。 このとき 《即物性》そのままのうわっつらの世界観や そこから発する《短絡的衝動》にまでつながる。ことはある。 けれども こんなことは ふつうのおとななら 分かっていることです。分かり切っていることです。 しかもなおその《うわべの・うすっぺらな思惟および行動》に従うというのなら その人の意志によっておこなっていることです。三度の飯よりも アホバカ状態の世界が好きなのでしょう。そのほうがおカネがもうかることがありましょうし あるいはまた そうしなければオマンマが食えないといった社会力学上の方程式が世の中を跋扈しています。うんぬん。 というように見ておけば済むことを どうしてただの認識論によってのみ世界を捉えようとするのか? なぜ ★ 社会生命としての自覚、地球の物質循環の一環としての自覚、 ☆ というように 中学の教科書に記載されたままを おのれの哲学としようとするのか? それは 認識論〔のみ〕という蛸壺ではないのか? なぜ ★ 社会生命としての自己の生の拡張、 ☆ をしなければならないのか? ★ ~~~~ 人は、感じている「自分」の中が、自分だと考えるが、 実は、その見ている「世界」こそが自分の中なのだ。 そして、その「世界」は、皆んなも見ている=既に 共有されているのだ。 ~~~~~~ ☆ とすでに言っているではないか? なぜ《拡張》の必要があるのか? 世界の共有を出発点として・そのときの自己をすでに原点のごときものとして あゆみ出していればよいだけではないか? ★ 宇宙の起源としての自覚に至る時、その愛(他我)において ☆ などという観念論は 要らないのではないか? タガだのジガだのと 何を考えているのか。 《世界》は すでに感性としても つかまえているではないか? どうして余分なものをつけ加えるのか? ★ (現在=感受表面からの、過去(=記憶=時間軸)と未来(=予測=空間軸)の相補分化)。 ☆ すでに捉えた《世界》が 過去と未来をおさめた主観としてのわが現在ではないのか? なぜ道草を食っているのか? 蛸壺を出でよ。 たしかに ★ 最大限の社会の協同、・・・全ての必然の自由化 ☆ これを目指しているのです。よ。 核分裂は そのあと 核融合のために使えますか? 目指すところと その道は 見えましたか? この道が 大事です。よね? 認識論によるだけではダメです。
- Tefu_Tefu
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お早うございます。 愛とは、自己愛から成っています。自己愛の他への射影が愛の全てです。驚くことに自己愛も動態です。 >互いに意見の食い違いを容認しつつ また けんか(口論)をしつつ その考えやそして共同の意志決定を互いに同じくしていく永久革命のごとき過程を言うものと考えます。< 自己への問いかけであり、共同の意思決定に見えても自己の意志そのものです。 >そのシンライカンケイなる反応過程において プラスαのエネルギーは 出ましょうか?< 自己の意志の問題です。プラスでもありマイナスでもあります。 子供は、プラスです。と同時に自己の意志と別物の一つです。しかしながら、子供も自己愛を他に射影させます。親との食い違いが独立でしょう。 自由意志が量子的であり、不確定な世界(環境)により影響されることが、自己愛の動態に繋がるのではないかと思います。自己の本質(性格)は変わらないのですけれども。
お礼
お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ 自己愛 ☆ を基礎として世界を見て捉えておられる。こう まづ 思います。 それで行くと 核融合は ない。または ごく限られたものである。こうおっしゃっているかと考えます。 たぶん そのように受け留めなければならないように わたしも感じますが ひとつ論点として考慮に入れていただきたいと思ったのは ○ 永久革命 と言っているところです。何もいますぐ核融合が成るとか そういうふうに見るのではなく 人間のあり方について 長期の視点からどう捉えるか。この視点について 再度考慮していただくということは もうありませんか? それというのも たとえば人間の成す愛はいかに自己愛だとは言え 親が子に対してそそぐ愛には 子がよく生きることを自己のこととしてのように振る舞う愛がある。とは見られませんか? 親は自分の自己よりも子の自己のほうを優先させることもあるということではありませんか? あるいはまた 突然変異が起こらないとも限らない。 さらにあるいは 人間は その前史から後史へと その人生のあゆみの中で 回転するのではないか? こうも考えます。 後史では それぞれが自己愛に生きているというその前史のあり方が かなりよく見えるように成る。その相互理解がすすめば 或る程度の《ゆづりあい》ということが起きて来る。とも考えられます。 ★ 共同の意思決定に見えても自己の意志そのものです。 ☆ これは そうです。それぞれの自己の意志によって互いに《共通の目標》を持って同じ作業をおこなうことに同意するのですから。 おのおの自己の判断によって共同の作業をする過程にこそ 共同の意志決定が成ります。 ★ 自由意志が量子的であり、 ☆ これの意味するところについて いまひとつ分かりにくかったのですが できましたら説明をお願いできますか。
お礼
ご説明とご回答をありがとうございます。 ★ やはり、コミニュケーションと自己中な行動により、自分を見極め鍛えるしかないような気がします。 ☆ ということは ひょっとして 人と人とのあいだに 時として 共同の意志決定が行なわれ得るとお考えでしょうか? それゆえに経験の積み重ねと鍛錬が必要だとおっしゃっていましょうか? わたしは 永久革命としては その方向にすすまねばならないものと考えています。 結果ももとめますが その努力の過程はもっと大事だと思います。 ★ 人は何かをしたい、と意志をもちます。でも、その局面に成らなければ判断できません。極端な場合、自分の意志とは逆の判断を強いられることになります。「結果よければそれでよし」ということもあります。 ☆ というとき 問題をむしろ公共性という観点から捉えるようにする。そして 共同の作業という視点もそして実際のおこないをも持つようにして行く。 たとえば 《結果よければ それでよし》という判断をくだすのも・そうしないのも 公共性や共同作業として捉えるなら どうか? このように考えるようにする。 《自分の意志とは逆の判断を強いられる》ときにも それは 公共性の観点から見たら どうなるか? そのような逆の判断を強いられたそのあと では 人びととの共同の作業はどうするか? どうにかすることが出来るか? といった方向で世界を見て捉えて行くといった作業です。 ☆☆ その相互理解がすすめば 或る程度の《ゆづりあい》ということが起きて来る ☆ と言えませんか? 一人ひとりがそれぞれ共同作業や公共性といった観点を持つ場合です。 ★ これは、性格の問題です。能力主義で選ばれた人々皆には、あてはまりません。学歴社会に於いて低層から這い上がった官僚が扱いにくいのは当然です。彼らは、豊臣秀吉タイプでしょう。同じように、経験から直観を鍛え抜いて生き残った実業家がワンマンなのも当然です。 ☆ というようなとき ですから 一般に《お二階さん》の人びとについて その人間分析をしたり 社会構造的および歴史過程的に 社会の公共性――むかしの言葉で《おほやけ》――という観点をも導入したりする。 《豊臣秀吉》とわれわれ一人ひとりとのニンゲン関係を 具体的に捉える。いやなところは 嫌だと明らかにして公言する。つねに公共性を前提としてふるまう。 《ワンマンなオーナー経営者》に対しても よいところ・わるいところをきちんと知るようにして行く。つねにすべて 公共性という大前提に立ってのことです。 これが そうだとすれば 核融合のみちでしょう。 かくして 信長も秀吉も家康もみな われらが仲間としてあつかうようにして行く。それが 《ゆづりあい》への道でもあります。仲間としてふるまうようになれば 共同作業なる核融合へと一歩近づきます。 かれらの凍ったその心をわれらが熱力学によって溶かしてすすむことがのぞましい。 ★ え~と、どう考えてもこれも自己愛に入ってしまいますね・・・ ☆ なんですけれどね。たしかに わたしの勝手なのぞみにしか過ぎません。 でも このあたらしい世紀は 日本人のそれであるとしたら その出番に合わせて そのくらいの準備はしておかないと・・・。ですよね てふ_てふさん。
補足
おぎないます。 子への親の愛 特に母親の愛 これが 《自己愛》に入りそこを出ないと規定されましたので すべては わたしの個人的なのぞみとして言っていることだと応えてしまいました。 変なかたちの 売り言葉に買い言葉でした。 と ひと言 添えます。