- ベストアンサー
防人に課せられた勤務の実態
万葉集に載っている防人の歌から考えると、当時の若者にとっては防人に徴用されることは最大の危難だったようですが、東国から西へ行く途中のことなどを含め、それほどのことを行う必要がどのくらいあったのでしょうか。また任務地での日課の実態なども教えていただければ幸いです。
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
日課の実態と聞かれても分かりません。防人の業務日誌が残っている訳でもなし。防人については、ほとんど実態が分かっていませんが、「徴用」「差別」「拉致」であったとは私は考えていません。それは公務員の人事異動、幹部候補生登用試験、単身赴任、試験採用みたいなものではなかったかと考えているのです。 今、茨城県の人口は約300万人です。豊かな土地なんです。当時の人口はもっと少なかったでしょうが、10万人ではきかないと思います。その常陸国で「738 天平 10 この頃,常陸国から260余人の防人が九州太宰府に赴く。」という記事があります。茨城県の公式サイトで見つけたのですが、原典は分かりません。 当時、貴族でもない東国の志ある若者にとって一生に一度の出世のチャンスだったと思うのです。 「急募!防人。志を持つ若者よ、来たれ!委細面談」なんていう広告を常陸国の国司が出したのでしょう。その看板を見て若者たちは、狂喜乱舞して喜び勇んで常陸国国府に駆けつけたに違いないのです。そんなのではなくて相撲部屋の親方が個別に村を回って、体格の良い若者を口説いて勧誘したといったものかもしれませんが。「どうだ?思い切って3年間防人をやってみないか?」 苦労して九州にたどり着いたのに、現地では手柄を立てるチャンスもなく、毎日雲を見ては故郷を思う日々が続いたのではなかったか。 常陸国の防人が九州太宰府に到着した時代は、まだ日本と新羅の緊張関係は深刻なものでもなく、新羅は安定していて、新羅の入寇もまだ発生していません。戦闘の機会があったとは思えません。 以上、こんな風に私は考えていますという話。
その他の回答 (3)
- Verhalten
- ベストアンサー率17% (36/201)
理由は、 国内の蝦夷は新羅と貿易している痕跡がありました。 唐、新羅、蝦夷で挟み撃ちになる公算が出て着たからです。 百済滅亡で大和王朝はパニックに陥った。 が正しい推測です。 武器は自腹。飯も自腹。 国民と国内兵糧を総動員しようとしたのです。 白村江では 4万の軍勢と800隻の軍船を動員したようですが、 400艘が火に包まれると言う記録が残っています。 大敗北の上、国庫は火の車に転じた事は明白です。 戦略的には 最前線の防備を万全にし国内の蝦夷を制圧する。 攻勢から守勢へ。 半島から蝦夷地へ。 大きな方向転換でありました。 戦線は防人と蝦夷地の2方向です。 防人の役が無い時は農民はある程度は裕福でした。
補足
東国の人は正反対の方面に駆り出されていたのでしょうか。蝦夷征伐に行くという歌もあるのでしょうか。
- bismarks0507
- ベストアンサー率31% (192/605)
意味不明な既存の回答内容の適否は別にして、文献的に示唆しえる防人について回答しておこう >東国から西へ行く途中のことなどを含め、それほどのことを行う必要がどのくらいあったのでしょうか。 実際に防人制度の必要性については、純粋な国防での見地では、疑問がつくだろう 自弁武装で地縁のない防人が国防に担えるという現実性には疑問は大きいし、なにより軍役に対するメリットが皆無であった現実を考えれば、いざ戦闘になれば、逃げ出すの現実であっただろう 律令体制の整備によって東国の防人徴兵がなくなって以後は、九州の国衙の衛兵が勤めていたようであるが・・・ 屯田兵である防人の耕作地は概して貧しかっただろうし、生活保証もない防人たちは、国家による拉致と同じような話とも言えるだろうが・・ これは小生の陰謀論であるが、 飛鳥時代において、朝廷は東国の反乱に警戒する必要性が十分想定されうる状況だったのだろう したがって、東国の若者を防人に駆り立てて、動員力を削ぐという政治的目的も多く存在していたのだろう。いわば、参勤交代にも近い側面が指摘しえる、と思われる 蝦夷地討伐についても類似した話は指摘できるが割愛させてもらおう もっとも、ある程度東国が祭ろう状況になったであろう奈良時代になって防人制度が変容していることからも陰謀論として全く根拠がない話ではないが・・・ なお、奈良時代後期になって朝鮮半島情勢が混迷すると、頻繁に海賊が日本海海域を荒らす状況になるわけだが、抜本的な対策は最後まで朝廷は実施できなかったのが現実であろう つまり、防人制度とは国土防衛政策としては、制度として破綻していた上に、意味を為していないかった可能性も強く示唆しえるだろう >また任務地での日課の実態なども教えていただければ幸いです。 仔細は文献が亡失しているが、日勤としては、三交替制であったことは指摘されている 任期は、3年で毎年2月に兵員の三分の一が交替 屯田兵なので、農作業がメイン ・・・・・・・ 補足 ところで、”防人歌は、本当に、東国の農民兵士が詠んだものなのだろうか?” これについて思慮するとある問題が指摘できる 東国の言葉が防人歌には微塵も感じられないのである 井沢元彦という似非歴史家は、防人歌をもって日本の古代の識字率の高さを指摘するが、 防人歌を編纂したのは大伴家持と推測されるが、彼が口承された歌を単に文字に起こしただけの可能性も高いだろう 防人歌の悲哀に満ちた愚痴・家族の恋慕は、防人当人のものだと思いたいが、 制度として防人歌が献上される制度になっていた関係を考えれば、『やらせ』であった可能性は高いだろう 役人の仕事というものはそういうものであろうことを指摘するとロマンもクソもない話ではあるが・・ http://miuse.mie-u.ac.jp/bitstream/10076/6583/1/AN101977030130005.pdf でも参照されると良いだろう 小生は、防人歌はその制度に対する東国領主の愚痴・批判が多分に内在しているもの・・と考えているわけだが、大伴家持自身の政治センスからして、防人制度に批判的だった背景を思慮する余地もあろうと思う さて、小生個人の見解だが、 実際に苦難の道を歩む動員兵の信条を鑑みるに、日本の予科練の唄(謡)も顧慮する意味があろうし、徴兵される人間の謡は世界各地に存在している。 そこでふと疑問に感じたことに、防人歌には、家族に対する恋慕の歌はあるが、親友との友誼を歌うものが存在しない。同時に郷里に思いを馳せる歌も存在しないことに疑問を感じてしまう よく出来た防人歌が多過ぎる、というのが小生の根底の疑問なのだが、それ相応に大伴家持の筆入れがあった・・・と考えるのが妥当であろう ・・・・・・・・・ 以上
お礼
日ごろ深く考えておられる方のご意見と受け止めさせていただきました。万葉集における防人の位置づけから防人制度の諸側面まで幅広く教えていただき、深く感謝いたします。
- あずき なな(@azuki-7)
- ベストアンサー率16% (1963/11745)
当時は朝鮮半島と交易があったけど 戦ってもいたので 百済や新羅が攻めてこないように九州沿岸に防人を配置したわけです 絶対防人じゃないとだめってことはなかったですよ 当時は そ よう ちょう という税制度があって 米を納めるか 絹織物などを収めるか 兵役につくかでした この兵役がいわゆる防人です
補足
東国としての差別はなかったのでしょうか。西の国から選んだほうがいろいろ便利だったようにも思うのですが…。まだ兵士としての専門職はなかったのでしょうね。防人と言ってつkれてこられた人が現地にそのまま定住してしまった例などはなかったのでしょうか。いろいろ想像が広がります。
お礼
意外に当時のことは資料が残っていないものなのですね。しかし現代の社会情勢などに重ねて考えると結構豊かな映像がよみがえるものだと感心いたしました。ご教示感謝いたします。