田沼意次の政治と人物の評価
もう、はるかに昔のことですが、私が高校生の頃、日本史の授業で、……田沼意次という幕府の要人が、時代の主役となりながらも、何故か、他の江戸三大改革の立役者とは、異なり「わいろ政治の権化」として扱われていたような印象が……正直に白状すると、授業内容などは、まったく記憶に残っていないのですが、……あります。
最近、私にとって、「気になる日本史の人物」になっていたのですが、「今更、田沼意次なんて」という気持ちも働き、そのままにしておいたのですが、たまたま、「江戸の銭勘定」(山本博文著)という本のページ欄をめくっていて、「田沼意次の全蓄財を没収した松平定信」というのが目に止まりました。
誤字脱字もあるかも知れませんが、その全文を下記に紹介します。
記
松平定信に金権政治と嫌われた田沼意次
紀州藩主徳川吉宗が八代将軍になったとき、田沼意次の父意行は吉宗に召し連れられて直参の旗本になった。意次は十六歳で吉宗の嫡男家重の小姓に召し出され、家重が九代将軍に就くと出世階段を駆け上がり、宝暦十年(一七六〇)には一万石の大名になった。
家重は子の家治に「意次は全人(欠点のない人)で、目をかけてお使いなされ」と遺言したので、十代将軍になった家治は、明和六年(一七六九)に、意次を老中格と抜擢した。意次も家治の期待に応えていった。
要職にある意次は「金銀は命に替えがたい宝で、それを贈って奉公の役目を欲しいと願う者なら、お上に忠な志を持つ者である」としたので、人々は競って賄賂を持ち込んだ。
意次への賄賂で道が開けた人も多く、彦根藩主の井伊直幸も意次に賄賂を贈ったことで大老になった。幕閣入りを切望した白河藩主松平定信が、早朝に田沼邸を訪れたという話もある。
安永元年(一七七二)、意次は五万七千石に加増され、所領の遠江国相良に築城を許された。だが、意次の栄華は将軍家治の死とともに崩壊した。松平定信が暗躍して意次を引きずり下ろしたのだ。十五歳で十一代将軍になった家斉の側近に働きかけて、再度権力の座に就こうとしたが失敗した。
松平定信が老中首座に就くと、金権政治の権化とされた意次は標的となって二万石が没収され、さらに「在職中の不正が上様のお耳に達した」と三万七千石も取り上げられ、相良城が破棄されて蟄居になった。
田沼家は全禄高を没収されたが、定信は田沼家の嫡孫意明に一万石を給し、家系の存続を許すと、意次は天明八年(一七八八)に死去した。
定信の田沼家への処罰は続き、川浚えの名目で五万両(九十億円)の納入を命じ、さらに一万両の追加納入を命じた。定信は意次がどれだけ貯えていたかを探っていたようで、意次の蓄財のすべてを召し上げたのである。
以上
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1 松平定信には、意次に対して、嫉妬とか、怨みのようなものがあったのでしょうか???
「8代将軍・徳川吉宗の孫に当たる」のだから、そんな卑しい感情を抱く必要もないと思うのですが??? 「嫉妬、怨み」以外の何かが???
2 上記の文章からは、田沼父子って、現代社会の官僚や創業オーナーと比較しても、まったくそん色ない「優秀過ぎるほどに優秀な父子」だと感じたのですが、この印象は、的外れでしょうか???
3 「わいろ政治」ということは別にして、江戸三大改革の成果と比較したときに、田沼意次の政治をどのように評価しますか???