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博多の「袖の湊」と「沖の浜」
1.博多の「袖の湊、袖湊」の文献上の初出をご教示下さい。 また、「袖の湊」は何を指していたのでしょうか。 博多の港全体を意味していたのでしょうか。 2.博多の「沖の浜」の文献上の初出をご教示下さい。 また、「沖の浜」は何を指していたのでしょうか。 3.平清盛と「袖の湊」「沖の浜」を関係づけた文献上の初出をご教示ください。
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>3.平清盛と「袖の湊」「沖の浜」を関係づけた文献上の初出をご教示ください。 後述論文によれば、 『古代の博多/中山平次郎著・岡崎敬校訂/九州大学出版会/1984.5』 のようです。 >また、「袖の湊」は何を指していたのでしょうか。 >また、「沖の浜」は何を指していたのでしょうか。 下記論文内に「…絵馬並びにそれに基づく「博多古図」は、… …鎌倉時代に描かれたもので、後に江戸時代に筆写されたものであろうと言われている。」 として、不鮮明ではありますが「博多古図」(住吉神社蔵)と「古図説明(住吉神社)」が 掲載されています。 以下に当該論文を一部抜粋しましたが、詳細は論文本文を御覧になってみてください。 ・『日本土木史研究発表会論文集 巻6/土木学会/1986』(258-269頁) http://www.jsce.or.jp/library/open/proc/maglist2/00902/1986/mg01.htm ◇「福岡市の土木史的考察(その1)-古代からの秀吉の博多再興(町割り)まで-秀島隆史」 http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00044/1986/06-0258.pdf <3/12> 博多古図 住吉神社蔵 古図説明(住吉神社) <4/12> 3.平清盛の袖の湊の築造 (1)袖の湊の存在について 福岡市の住吉神社に絵馬が蔵されている。この絵馬並びにそれに基づく 「博多古図」は前頁に揚げるものであるが、これは鎌倉時代に描かれたもので、 後に江戸時代に筆写されたものであろうと言われている。 この絵馬の中央付近には、矩形状の沖の浜があり、その奥に袖の湊がある。 この袖の湊は、一名「幻の港」とも言われ、現在は市街地の地下に埋没していて、 その確認は困難である。 しかし、この袖の湊の存在と、それが平清盛による築造であろうと論ぜられたのは、 中山平次郎氏(1871~1956・元九大医学部教授)である。 中山平次郎氏は、考古学についても造詣が深く、九州における考古学の開拓者的人物であるが、 その著「古代の博多」において袖の湊につき論ぜられている。 その論旨とするところを要約すると、 1 筑前国続風土記、石城志などの歌群の中で、 「博多」を歌詞とするものと「袖の湊」を歌詞とするものを分類すれば、 後者はすべて清盛の大宰大弐となった1158(保元3)年以降であること。 2 沖の浜の跡と推測される行の町、市小路からの出土白磁(平安末期のもの)、 地層の考証の結果、約9尺の人工盛土と判定される層があること。 3 清盛が後に築造した大輪田泊(神戸港)とその築港方法が極めて酷似していること。 である。… >1.博多の「袖の湊、袖湊」の文献上の初出をご教示下さい。 初出文献となると平清盛と関連付けた研究者自身におかれましても 『筑前国続風土記』『石城志』に記述された歌群などのほか、 前記論文でも『伏敵編』など後世の文献を取り上げているところをみますと、 築造当時の記録に辿り着くのは困難な様子が伺えますので、 (詠まれた時期が特定出来る和歌などがあれば宜しいのですが、 それも最古とは限りませんから多くは望めない結果…結局は) 和歌などの歌群に基づいて各和歌集の成立時期と各歌人の生没年などから 推定する以外にはないのかもしれませんね。 ※『筑前国続風土記』…明治に至るまで写本としてのみ流布し、 刊行されなかったために、一般にはあまり知られていない。 1688(元禄元)貝原益軒59歳時に編纂許可がおり、1703(元禄16)年73歳時に藩主に献上。 http://www.lib.nakamura-u.ac.jp/kaibara/fudo/contents.htm ※『石城志』…津田元顧・元貫共編、1765(明和2)年。 ※『伏敵編』…1891年重野安繹監修、山田安栄編纂・刊行した蒙古襲来関係史料集。 ・『筑前国続風土記』 (巻之四) 博多 http://www.lib.nakamura-u.ac.jp/kaibara/fudo/pdf/f04.pdf <19/53>袖湊 <21~23/53> ・惟宗忠宗 新後撰 戀(恋) ※新後撰和歌集…1303年成立。 浪こゆる袖のみなとのうきまくら うきてぞひとりねはなかれける ・後深草院少將内侍 續千載 ※続千載和歌集…1320年成立。 おもひつゝいはねばいとゞこゝろのみ さわぐは袖のみなとなりけり ・中臣祐(祐)臣 同(續千載) しられじな袖の湊による波の うへにはさわぐこゝろならねば ・津守國助 同(續千載) 泪そふ袖の湊をたよりにて 月もうきねの影やどしけり ・從二位 行家 續後拾遺 ※続後拾遺和歌集…1326年成立。 年月は泪のさわぐ我が袖の 湊やこひのとまりなるらん ・國助 新千 ※新千載和歌集…1359年成立。 蘆間なき泪の袖の湊にも さはるは人のよるべなりけり ・前大納言爲定 新拾遺 十二 ※新拾遺和歌集…1364年成立。 いかにせんもろこし船のよる方も しらぬにさわぐ袖のみなとを ・三宮 千五百 ※千五百番歌合…1201年後鳥羽上皇が詠進させた百首歌を 歌合形式にしたもので、歌合としての成立は1203年春頃か。 うとかりし唐土船もよるばかり 袖の湊をあらふしらなみ ・定家 續古今 冬 ※続古今和歌集…1265年成立、 千鳥なく袖の湊をとひこかし 唐土船のよるのねざめに ・前大納言忠良 新續古今 ※新続古今和歌集…1439年成立。 こひわぶる袖の湊のなみまくら いく夜うきねの數つもるらん ・光俊 夫木 ※夫木和歌抄…1309~1310年頃成立。 日暮れば袖のみなとを行く螢 さわぐおもひのほどや見ゆらん ・有家 同(夫木) まつら潟袖の湊にこぎよせん 唐土船のとまりもとめば ・爲家 同(夫木) とこの海に流れておつる泪川 袖の湊のさわぐ名もうし ・式子内親王 續後撰 ※続後撰和歌集…1251年成立。 影なれてやどる月かな人しれず 夜なゝゝさわぐ袖のみなとに 以上の14首の和歌の中で先ず注目すべきは、その成立過程を考慮しますと 「・三宮 千五百 うとかりし唐土船もよるばかり 袖の湊をあらふしらなみ」 が最も平清盛に近接した和歌集のようですから、 遅くともこのあたりまでは遡れるようです。 ※三宮…惟明親王(これあきらしんのう)<1179~1221>通称:三宮・大炊御門宮 http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/teika/jinmei.html#JM03 ※千五百番歌合…1201年後鳥羽上皇が詠進させた百首歌を歌合形式にしたもので、 歌合としての成立は1203年春頃か。 なお、誠に申し訳ありませんが、知識不足&時間不足により 各歌人の生没年や各歌の詠まれた時期特定等までは未調査のため、 他の歌などで「清盛の大宰大弐となった1158(保元3)年」頃まで 遡れる可能性が残る事に御注意下さいm(_"_)m ほか参考URL 『石城志 巻1至3/津田元貫/筑紫史談会/大正8-10』<27/57> http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/987296/27 『伏敵編 卷之一-六/山田安栄編/吉川半七/明治24.11』 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2387705 以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^
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- dayone
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本日昼、初めて補足に気付きました。 長時間経過していたとすれば御容赦下さいm(_"_)m なお、jumbotako 様は大誤解=過大評価をされていらっしゃいます(><) 私は単なる通りすがりの門外漢に過ぎません。 その事は私の過去回答等を御時間が許す範囲で御覧いただければ 歴史に関しましては底が浅いことが明らかになります^^ 自らの専門分野を除けば、人様の疑問に自らも興味を抱いた場合には、 白紙状態からついつい調べて見たくなるというのが正直なところでございます。 その結果として、自らの肥やしになるとともに、 …たとえ質問者様の方が専門家であられても、 素人発想が時として新たな展開を生む場合もあると信じて… 少しでも疑問解消の一助になればとのスタンスで投稿させていただいております。 なので、御礼欄のコメントは社交辞令としては過剰過ぎて 気恥ずかしく再登場を躊躇ってしまいます^^ なおかつ事後補足にて御指名で意見を求められても… >元の『伊勢物語』では「袖に涙の」であった。 >例えば定家あたりが写本中に、故意か知らずか、「袖に湊の」とした。 >これは、「もろこし舟」から当時有名になっていた筑紫の「袖の湊」を連想した結果である。 >当時の人はこの『伊勢物語』の歌から、 >「さわぐ袖の湊」のフレイズを好んで使用するようになった。 > >という、仮説を立てました。 正におっしゃるとおりのようですね^^ No.2の投稿の 「・定家 續古今 冬 ※続古今和歌集…1265年成立、 千鳥なく袖の湊をとひこかし 唐土船のよるのねざめに」に関しまして、 『千五百番歌合』にも登場するようで、 下記のとおり正に藤原定家が『伊勢物語26段』からの「本歌取り」をしているようですね。 ・『北星学園大学文学部北星論集 37/2000-03』(141-152頁) ◇「定家と『千五百番歌合』(その4) : 歌風の確立と本歌取/浅岡雅子」 http://ci.nii.ac.jp/naid/110000499187 <2/12>付表2 建仁元年 千五百番歌合(〇印は『二四代集』撰入歌) 下段1066〇 新古今 恋五 (伊勢物語26段) 読人しらず <3/12>上段15行目 付表2は千五百番歌合における本歌取歌と本歌の出典および作者の一覧である。 <4/12>上段3・4行目 B1 季歌を恋・雑歌に、恋・雑歌を季歌に採り入れているが、 語句の配置はほぼそのままである歌群。… <4/12>下段2~5行目 (8)なく千鳥袖のみなとを訪ひこかしもろこし舟のよるの寝覚に(1066 冬) 思ほえず袖にみなとの騒ぐかなもろこし舟の寄りしばかりに(伊勢物語)… <4/12>下段22~24行目 (8)は『伊勢物語』歌から「唐土舟のよ」る「袖」の「湊」という印象的なことばを導入し、 さらに千鳥を配して冬夜の寝覚めに恋歌の情調… あと、何とも気になるフレーズを下記論文内に見つけました、 既知の情報の場合には、笑って許して下さい^^ ・『中村学園大学短期大学部研究紀要 第39号/中村学園大学/2007.03.15』(61-75頁) ◇「大水道と土居町-堀と土塁で構築された元寇防塁の後ろの博多の第二防衛線-/佐藤鉄太郎」 http://ci.nii.ac.jp/naid/110006405545 <1/15> 「…貝原益軒が博多の東北から西北にかけて入海として存在したと記している袖湊は、 歌枕としての地名であり、袖湊は実際には存在しなかった、…」 (※『よみがえる中世(一)東アジアの国際都市 博多/佐伯弘次/平凡社(176頁)/1988』) 時代と学部が違うとは言え、同じ大学で、 「中山平次郎氏(1871~1956・元九大医学部教授)」説と相反する 現職教授の佐伯弘次氏(1955~)が気になるところではあります^^ 上記のフレーズは御愛嬌としても、上記「佐藤鉄太郎氏」論文内には 興味深い記述が盛り沢山のようです^^ 以上 僭越ながら 取り急ぎの投稿ですので またまた断片情報で申し訳ありませんm(_"_)m
お礼
dayone 様 dayone 様はやはり、私の思っていたようなお方でした。 >人様の疑問に自らも興味を抱いた場合には、白紙状態からついつい調べて見たくなる サミュエル・ジョンソンが「好奇心は力強い知性の最も永久的な特性の一つである」 と言っている通りだと思います。 新たにまた文献をご教示いただき、ありがとうございます。 前回の分とも総合して調べてゆきたいと存じます。 本当は、すぐ「ベストアンサーにする」を押すべきでしたが、拙論を見ていただきたいために保留していました。 今、ANo.2 のところに「ベストアンサーにする」を押させていただきます。 またご縁がありましたら、よろしくお願い申し上げます。
- dayone
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再登場失礼致しますm(_"_)m 訂正 >3.平清盛と「袖の湊」「沖の浜」を関係づけた文献上の初出をご教示ください。 中山は長年にわたる考古学研究とその業績のひとつである 『古代の博多』で昭和二五(一九五〇)年に西日本文化賞を受賞した。 とありますから、『古代の博多』は昭和25年当時、既に存在したようです。 http://ci.nii.ac.jp/naid/110004688614 お騒がせして誠に申し訳ありませんm(_"_)m
お礼
dayoneさま わざわざご追加くださいまして、ありがとうございます。
文献上の初出はちょっとわからないです。すみません。 11世紀中ごろ、鴻ろ館(筑紫館【むろつみ】)が消失し、貿易拠点が「博多」に移りました。 博多湾の海岸線はずいぶんと埋め立てられており、中世「博多」の海岸線は現在の御供所町の辺りまででした。石堂川と那珂川に挟まれたこの部分をを「博多浜」と言います。沖の浜とは本来「息浜」と記述し、息浜は博多浜の先にあった砂浜のことです。現在の綱場町、古門戸町、奈良屋町付近にあたります。 袖の湊というのは、位置ははっきりしませんが博多浜と息浜の間のどこかに作ったのではないかと言われています。清盛が兵庫に作った「大輪田の泊」と築港方法がとても似ているとかなんとか。 博多浜には「唐坊(とうぼう)」という宋人居住区、日本人居住区、宋人墓地などが存在し、貿易が盛んに行われていたようです。(平安末期~鎌倉初期) 袖の湊は、平氏の滅亡にともなっってたちまちなくなってしまったと言われています。 息浜が発展して都市化するのは元寇の後ですね。 息浜と博多浜は、間が細くつながっているだけで、巾着袋を絞ったような地形だったようです。これを近世には埋め立てて完全につなげ、一つの町になりました。 参考になれば。 大庭康時さんの著書 http://books.google.co.jp/books/about/%E4%B8%AD%E4%B8%96%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9C%80%E5%A4%A7%E3%81%AE%E8%B2%BF%E6%98%93%E9%83%BD%E5%B8%82_%E5%8D%9A%E5%A4%9A.html?id=PNWBQgAACAAJ&redir_esc=y
お礼
kikkikids さま 早速ご回答いただきまして、ありがとうございます。 大庭康時氏の『中世日本最大の貿易都市・博多遺跡群』も読ませていただきたいと思っております。
補足
dayoneさま ご教示いただいた文献群を懸命に読んでいます。 お陰様さまで「袖の湊」「沖の浜」の輪郭が掴めて参りました。 ありがとうございます。 これは前から気になっていたのですが、『伊勢物語』第二十六段の歌 「思ほえず袖にみなとのさはぐ哉もろこし舟の寄りし許(ばかり)に」 (岩波・日本古典文学大系) は、(袖 湊 もろこし舟)を読み込み、筑紫の「袖の湊」を強く連想させます。 清盛が「袖の湊」を築いたとすれば、それ以前に成立していたであろう『伊勢物語』に この3つのキーワードが一つの歌に詠まれているのは偶然すぎると思います。 ブログ『 雁の玉梓 ―やまとうたblog―』 http://yamatouta.asablo.jp/blog/cat/teika/?offset=260 の 定家全釈:関白左大臣家百首 遇不逢恋 1467 はるかなる人の心のもろこしはさわぐ湊にことづてもなし の解説に 「伊勢物語に基づく「さわぐ袖の湊」は当時人気の高かった趣向で、定家もたびたびこれを用いている」とあります。 一方、 奈良女子大学附属図書館HPの『伊勢物語の世界』 http://www.lib.nara-wu.ac.jp/nwugdb/iseindex.html で、トップページ>「章段検索」>「26 もろこし舟」>伊勢物語古意(賀茂真淵) を見ますと、真淵は(古の本(『真字伊勢物語』か?)は「袖に浪渡の」であり、今の本の「袖に湊の」と違う。 「浪渡」は涙の借字である。今の本に「浪渡」を「湊」とするのは誤りである。また更に、「袖の湊」に転じて筑紫の一名所とするは甚だしい誤りである)と書いています。 また、このサイトで『旧本伊勢物語』も「袖尓涙乃」とあります。 私は国文学には素人ですが、 元の『伊勢物語』では「袖に涙の」であった。 例えば定家あたりが写本中に、故意か知らずか、「袖に湊の」とした。 これは、「もろこし舟」から当時有名になっていた筑紫の「袖の湊」を連想した結果である。 当時の人はこの『伊勢物語』の歌から、「さわぐ袖の湊」のフレイズを好んで使用するようになった。 という、仮説を立てました。 dayoneさまのご意見を是非お聞きしたいです。
お礼
dayoneさま 早速、懇切なご教示をいただき感激しています。 短い時間にこれだけの文献をお示しになれるdayoneさまは、すごいお方だと尊敬いたします。 もし、お近くなら日頃の疑問を直接お聞きできるのにとさえ思います。 これから、文献群を首っ引きで読ませていただきます。 browseしましただけですが、秀島隆史氏の論文付図「博多古地図 住吉神社蔵」「平清盛の「袖の湊」の図」にはワクワクいたします。この方も篤学ですね。 それにしても、初出文献の件は難しいことを痛感しました。 ありがとうございました。 P.S. dayoneさまは朝お早いのですね。 この度の問題はdayoneさまのご指導の件も含め、後日拙ブログに紹介させていただきます。
補足
dayoneさま ご教示いただいた文献群を懸命に読んでいます。 お陰様さまで「袖の湊」「沖の浜」の輪郭が掴めて参りました。 ありがとうございます。 これは前から気になっていたのですが、『伊勢物語』第二十六段の歌 「思ほえず袖にみなとのさはぐ哉もろこし舟の寄りし許(ばかり)に」 (岩波・日本古典文学大系) は、(袖 湊 もろこし舟)を読み込み、筑紫の「袖の湊」を強く連想させます。 清盛が「袖の湊」を築いたとすれば、それ以前に成立していたであろう『伊勢物語』に この3つのキーワードが一つの歌に詠まれているのは偶然すぎると思います。 ブログ『 雁の玉梓 ―やまとうたblog―』 http://yamatouta.asablo.jp/blog/cat/teika/?offset=260 の 定家全釈:関白左大臣家百首 遇不逢恋 1467 はるかなる人の心のもろこしはさわぐ湊にことづてもなし の解説に 「伊勢物語に基づく「さわぐ袖の湊」は当時人気の高かった趣向で、定家もたびたびこれを用いている」とあります。 一方、 奈良女子大学附属図書館HPの『伊勢物語の世界』 http://www.lib.nara-wu.ac.jp/nwugdb/iseindex.html で、トップページ>「章段検索」>「26 もろこし舟」>伊勢物語古意(賀茂真淵) を見ますと、真淵は(古の本(『真字伊勢物語』か?)は「袖に浪渡の」であり、今の本の「袖に湊の」と違う。 「浪渡」は涙の借字である。今の本に「浪渡」を「湊」とするのは誤りである。また更に、「袖の湊」に転じて筑紫の一名所とするは甚だしい誤りである)と書いています。 また、このサイトで『旧本伊勢物語』も「袖尓涙乃」とあります。 私は国文学には素人ですが、 元の『伊勢物語』では「袖に涙の」であった。 例えば定家あたりが写本中に、故意か知らずか、「袖に湊の」とした。 これは、「もろこし舟」から当時有名になっていた筑紫の「袖の湊」を連想した結果である。 当時の人はこの『伊勢物語』の歌から、「さわぐ袖の湊」のフレイズを好んで使用するようになった。 という、仮説を立てました。 dayoneさまのご意見を是非お聞きしたいです。