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この批判の姿勢についての批判をお願いします。

批判するときには相手の受けていれているドグマ、相手の自己矛盾などなどを基盤として、、、つまり相手の土俵にたって行わなくてはならない。 同意(肯定)するときも同じように相手の土俵にたって行わなくてはならない。 そうでなければお互いが自分の宗教論争と同じく、全くもって何も産まないものとなってしまう。 私ではなくあるところで聞いたのですが、なるほどとは思ったんですね。もしかしたらアタリマエのことかもしれませんが。 これに対して批判があるとすれば問題点の指摘からお願いします。ただ、問題点の指摘の最後にはよりよりと思う批判のあり方について書いていただけると助かります。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.23

No20です。 再回答です まず確認します。 「相手の土俵に立つ」 このフレーズの意味を一番詳しく述べているのは、No19さんに対する「この回答へのお礼」の欄の中の記載でよろしいのでしょうか。 下にそこの箇所を引用します。 No19さんの回答より 「同じ土俵に立つ、などといわずに、相手の基盤なりを十全に理解する、…(中略)…だめでしょうか」 314hさんの「この回答へのお礼」の欄より。 「(1)いいとは思いますが哲学的批判すべてについて当てはまる姿勢を追及したいと考えています。(2)例えば相手が100個の考えを述べたとしても先ほど上げたように最初の2つがすでに矛盾していて、それと次の3つの考えを元に他の95の考えが構成されていたとします。(3)そういった場合批判するにおいて最初の2つで十分となりませんか? (4)そういった批判においてはあなたが先ほどおっしゃった、十全に理解というのとは少し齟齬が生じる可能性のある言葉となるような気がします」 主に(2)(+(3))で示される内容が「相手と同じ土俵に立つ」ですね。 言い換えると、 「相手の考えのうちのごく一部の問題点をベースにする姿勢を、そしてそれだけを「土俵に立つ」 と表現していたということになり、そしてそれに(1)の内容を加えたのがこのスレッドの質問文になると考えてよいのですね。 だとしたらこのスレッドにおいてこの解釈が314hさんの中でぶれています。 それがいちばん分かりやすいのはNo7さんとの質疑においてです。 以下、説明します。 No7さんは、 >相手の土俵に立つ必要はないと思います。 と仰っていますが、その次の文では >相手の土俵を一部(もしくは全部)包含していればいいと思います。 と述べています。 No7さんがお書きになった前の文が否定文となってしまったのは、単に314hさんが土俵について明確な定義をしなかったためなので、後の文だけに注目します。するとNo7さんが意味されたであろう「土俵」についての考えは、上述の314hさんの「土俵」の考え方とほとんど変わるところはありませんね。 そしてその説明なのですが、No7さんへの「回答へのお礼」の欄では、「土俵」とは、「世界のうちにあるもの」であり、「世界観」という言葉で表されるものであり、「キリスト教世界、イスラム教世界、ギリシャ神話の世界などといいますがそれを構成している人間の認識方法は不変ですよね」、と述べていますね。さらにもう少し後では、「霊能者(などの特殊能力者)は除外して考える」旨の記載もあります。 この中で「世界」、「世界観」とは多義的な言葉であり、実際はその内容についての説明を要するものです。したがって文脈上はこれらの文の後に続く箇所、すなわち「キリスト教世界、イスラム教世界、ギリシャ神話の世界などといいますがそれを構成している人間の認識方法は不変ですよね」という箇所、つまり「古の多神教世界、あるいは現在の世界宗教である二つの一神教を信奉する人類の中で、霊能者などの特殊能力者以外の人間に共通した世界」、あるいは「それらの人類に共通で、かつ不変の認識方法を有している世界」という意味内容が、「世界観」を限定しかつ説明したものとして読む者には受けとめられます。 この世界観について、314hさんは、「土俵は前の方もおっしゃってくださったように世界観です」とおっしゃっていることになります。 言うまでもありませんが、この「回答へのお礼」の欄で述べられている「土俵」に関する説明は、No19さんの「回答へのお礼」の欄で述べられていたもの(上述)と明らかに異なります。 またNo7さんの回答につづいて述べてられている古典力学、相対論の例ですが、私は適切だと思います。物理学における革新的進歩を、「新たな世界」が開けたと314hさんは表現しましたが、しかしそれらを記述した人物(17世紀イギリスのニュートンや20世紀西欧社会のアインシュタイン)と、それらの成果を享受した人々において、いったい「認識すること」や、その生活していた「社会」について、古代ギリシャ人と現代のキリスト教徒、イスラム教徒ほどの差異はあったでしょうか。十分に「共通した世界観」の範疇に入ると思いますが、それでも314hさんは同じ土俵であるとは認めておられませんね。 これでは、わからない。 同一人物に対する質疑においてすら、「土俵」の概念が首尾一貫しておりませんので。 「ぶれ」という表現を使いましたが、この相違は「ぶれ」以上のものであり、また「齟齬」として片付けられるものではないと思いますよ。 さらに付け加えます。 このNo7さんへの「回答へのお礼」の箇所で314hさんが用いた「土俵」なる概念は、きわめて広大な世界を意味しています。広大すぎて、「同じ土俵に立つ」ということが、古今の全人類(除外・霊能者、シャーマン)とすら思えてくるため、前提自体が無意味のないものに思えてきますし、そのいっぽうで広大過ぎる世界の中の各要素(人種、国籍、宗教などなど)の隅々まで「同じ」であることを要請してしまう非常に厳しい条件だと解釈されてしまう怖れもあります。この後者の解釈の下に回答されたのがNo8、No9の方々といえるでしょう。 さて No9の方はそれを「100%」という数字で表していますが、そのすぐ後で、 「普通は99%以下の理解で相手を批評する」と述べており、その意味するところはNo19さんとの質疑で示された「土俵」の定義とほぼ同じ内容であると私は解釈します。 同様にしてこのスレッドを通覧すると、No2さんも「土俵」に関する考えはほぼ同様ですし、No5さんも、「「相手のドグマに立つ」のではなく、「相手のドグマを理解して…」」と仰っており、ドグマという語を用いていても基本的には314hさんと同じ理解をしているものと思われます。 したがいまして314hさんが欲していた回答も、それらの方々の回答の一部にすでに記述されているものもあるのでは。 以上が前段です。 後段はシンプルに当初の質問に対してお答えします。 その回答内容はNo20の2行目と変わりありません。 「相手の立場に立つというのは、批判する際に気にかけたらいいひとつの心構え」でしょうね。 説明します。 ある言説Aの正当性に関してし、相手が提示したa(1)からa(n)の証拠や説明が仮にあったとしても、たったひとつの証拠bによって言説Aが否定されれば、それで十分に反論は成立します。よって相手と同じ土俵に立つ必要はありません。つまり質問の文は必要条件とはなりません。 また相手と同じ土俵に立っていれば十分かと言うと、相手の矛盾点、論理思考の飛躍や誤謬などが見出せない場合、同じ土俵に立っていても反論は成功するどころか、その糸口さえ見出せないでしょう。したがって十分条件とも言えません。 要するに御質問の文は必要条件でもないし、十分条件でもない。言わば単なる参考事項にすぎません。というわけです。でもまあ実社会ではたいへん役に立つやり方だと思いますよ。 よりよい方法。 そんな万人、そしてあらゆるケースに共通な魔法のやり方があるんでしょうか。あるならすでに誰かが発表していそうなものです。 ただこのスレッドのように言葉の意味がぶれていては要らぬ混乱の元です。そこはきちんとしなければなりませんね。またお互いが議論しあっているテーマに関して、言葉にはなっていない前提があることにも注意が必要でしょうね。相手を打ち負かすことを目標にし、なおかつ建設的に議論したいのなら、相手が気づきにくいそこにも一応配慮しておくといいと思いますよ。 なお、 私はこのサイトでの質問や解答には慣れていませんが、確か「質問の補足」という機能があったのでは。今後は各回答者の「お礼」の欄に断り書きをするのではなく、この機能を使って分かりやすい位置にしっかりとした補足を書き足すように配慮されたらいいと思います。

314h
質問者

お礼

こうして見ると回答者様のおっしゃるようにひどいもんですね。 辛辣な言葉でなくわざわざ優しい言葉で教えてくださるお気遣い感謝します。 共通の意味を持つ言葉以外の定義、考えを誤りのないよう言語に表せるようにしてから質問し直そうと思います。。。 わかりやすい形でのご指摘、ご回答ありがとうございました。

314h
質問者

補足

>また相手と同じ土俵に立っていれば十分かと言うと、相手の矛盾点、論理思考の飛躍や誤謬などが見出せない場合、同じ土俵に立っていても反論は成功するどころか、その糸口さえ見出せないでしょう。 そんなもの存在しますかね?あるとすればそれこそ真理だと思っているのですがそうでない場合が存在するのですか。 >あるならすでに誰かが発表していそうなものです。 あらゆるケースとなっては不可能かもしれませんが、真理を求めてお互いが反駁しあう姿勢を持っているという前提でならばある程度満たすべき条件としての形式というのが存在するように思います。 >相手が気づきにくいそこにも一応配慮しておくといいと思いますよ。 お互いが確認しながら進めていく姿勢ですね。特に自分のほうを気をつけたいと思います。 補足の方へ補足を書く方が少なかったので、こちらのほうが利便性があるのかなと感じたのと、補足に全て書くとお礼率が下がるみたいなので、不誠実な質問者かなと思われると思ったのと、お礼の文章は長くないので普段はまとめて書いています。

その他の回答 (22)

  • ntttm
  • ベストアンサー率37% (17/45)
回答No.2

場合によりけりかとも思いますが、 相手と同じ土俵に立って批判をするときは、 書かれているように「相手の自己矛盾」を指摘するであるとか、相手の思考が論理的かどうかについて批判することになるでしょう。 ですが、相手がその土俵に立っていること自体を批判したいときは、 同じ土俵に立って矛盾に気づかせる方へ導くことも出来るでしょうが、同じ土俵に立っている時点である前提を共有している場合は、その前提を覆すような批判は難しいと思います。 なので、相手とは違う立場からの客観的な批判によって、相手がその土俵に立つこと自体の矛盾や、それが生み出す不利益などを指摘することもあるでしょう。 宗教論争の場合、 まず、異なる宗教を信じるもの同士がそれぞれ自身の土俵に立って批判し合うと、水掛け論になることも多いでしょう。 ですが、宗教という枠を離れて、教義がどうこうとかではなく例えば経済的面から見た批判とか、社会的に見た批判とかならば、比較的受け入れやすい人もいるのではないでしょうか。 まぁ宗教は、目に見えないものを信じるものですから、論理的かどうかとか、そういう目に見えるわかりやすい形で矛盾を指摘するのが難しいでしょうからね、水掛け論になることが多いでしょうね。 批判というか、一つの意見?として。 長文失礼いたしました。

314h
質問者

お礼

>なので、相手とは違う立場からの客観的な批判によって、相手がその土俵に立つこと自体の矛盾や、それが生み出す不利益などを指摘することもあるでしょう。 同じ土俵に立っている時点である前提を共有している 哲学において客観的に批判を言うというのは相手の了解事項において、批判することですよね? 例えば殺人を良いと思っている人に殺人は一般的に悪いから~というのは通用しないわけです。 そういった広い意味も含めての同じ土俵といったつもりです。 あんまり質問を推敲しなかったので、思いとは少し解釈のずれる質問になってしまったかもしれません。 すみません。 宗教者は理性と切り離して考えている方については、土俵というかもう世界が違うので絶対に批判は不可能なものですね。それこそ感情に則った説得しかないでしょう。。。 ご回答ありがとうございました。

回答No.1

難問だ 自分の土俵では 批判にならない でも 宗教論対決は 自身の土俵で行う 創価学会の小樽問答が代表である。 検索してください。

314h
質問者

お礼

創価学会でしたら哲学を志す人以外の言葉でしょうし、特に調べる気持ちが起きませんので遠慮しておきます。 それに調べるべきことを聞いている質問でも無いですからね。ググれというのはあまりに投げやりですし、あなたの回答を見聞きしてそれが真実そうであれば私は自発的に調べます。 物事とはそういうものではないですかね。

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