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この批判の姿勢についての批判をお願いします。

批判するときには相手の受けていれているドグマ、相手の自己矛盾などなどを基盤として、、、つまり相手の土俵にたって行わなくてはならない。 同意(肯定)するときも同じように相手の土俵にたって行わなくてはならない。 そうでなければお互いが自分の宗教論争と同じく、全くもって何も産まないものとなってしまう。 私ではなくあるところで聞いたのですが、なるほどとは思ったんですね。もしかしたらアタリマエのことかもしれませんが。 これに対して批判があるとすれば問題点の指摘からお願いします。ただ、問題点の指摘の最後にはよりよりと思う批判のあり方について書いていただけると助かります。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.23

No20です。 再回答です まず確認します。 「相手の土俵に立つ」 このフレーズの意味を一番詳しく述べているのは、No19さんに対する「この回答へのお礼」の欄の中の記載でよろしいのでしょうか。 下にそこの箇所を引用します。 No19さんの回答より 「同じ土俵に立つ、などといわずに、相手の基盤なりを十全に理解する、…(中略)…だめでしょうか」 314hさんの「この回答へのお礼」の欄より。 「(1)いいとは思いますが哲学的批判すべてについて当てはまる姿勢を追及したいと考えています。(2)例えば相手が100個の考えを述べたとしても先ほど上げたように最初の2つがすでに矛盾していて、それと次の3つの考えを元に他の95の考えが構成されていたとします。(3)そういった場合批判するにおいて最初の2つで十分となりませんか? (4)そういった批判においてはあなたが先ほどおっしゃった、十全に理解というのとは少し齟齬が生じる可能性のある言葉となるような気がします」 主に(2)(+(3))で示される内容が「相手と同じ土俵に立つ」ですね。 言い換えると、 「相手の考えのうちのごく一部の問題点をベースにする姿勢を、そしてそれだけを「土俵に立つ」 と表現していたということになり、そしてそれに(1)の内容を加えたのがこのスレッドの質問文になると考えてよいのですね。 だとしたらこのスレッドにおいてこの解釈が314hさんの中でぶれています。 それがいちばん分かりやすいのはNo7さんとの質疑においてです。 以下、説明します。 No7さんは、 >相手の土俵に立つ必要はないと思います。 と仰っていますが、その次の文では >相手の土俵を一部(もしくは全部)包含していればいいと思います。 と述べています。 No7さんがお書きになった前の文が否定文となってしまったのは、単に314hさんが土俵について明確な定義をしなかったためなので、後の文だけに注目します。するとNo7さんが意味されたであろう「土俵」についての考えは、上述の314hさんの「土俵」の考え方とほとんど変わるところはありませんね。 そしてその説明なのですが、No7さんへの「回答へのお礼」の欄では、「土俵」とは、「世界のうちにあるもの」であり、「世界観」という言葉で表されるものであり、「キリスト教世界、イスラム教世界、ギリシャ神話の世界などといいますがそれを構成している人間の認識方法は不変ですよね」、と述べていますね。さらにもう少し後では、「霊能者(などの特殊能力者)は除外して考える」旨の記載もあります。 この中で「世界」、「世界観」とは多義的な言葉であり、実際はその内容についての説明を要するものです。したがって文脈上はこれらの文の後に続く箇所、すなわち「キリスト教世界、イスラム教世界、ギリシャ神話の世界などといいますがそれを構成している人間の認識方法は不変ですよね」という箇所、つまり「古の多神教世界、あるいは現在の世界宗教である二つの一神教を信奉する人類の中で、霊能者などの特殊能力者以外の人間に共通した世界」、あるいは「それらの人類に共通で、かつ不変の認識方法を有している世界」という意味内容が、「世界観」を限定しかつ説明したものとして読む者には受けとめられます。 この世界観について、314hさんは、「土俵は前の方もおっしゃってくださったように世界観です」とおっしゃっていることになります。 言うまでもありませんが、この「回答へのお礼」の欄で述べられている「土俵」に関する説明は、No19さんの「回答へのお礼」の欄で述べられていたもの(上述)と明らかに異なります。 またNo7さんの回答につづいて述べてられている古典力学、相対論の例ですが、私は適切だと思います。物理学における革新的進歩を、「新たな世界」が開けたと314hさんは表現しましたが、しかしそれらを記述した人物(17世紀イギリスのニュートンや20世紀西欧社会のアインシュタイン)と、それらの成果を享受した人々において、いったい「認識すること」や、その生活していた「社会」について、古代ギリシャ人と現代のキリスト教徒、イスラム教徒ほどの差異はあったでしょうか。十分に「共通した世界観」の範疇に入ると思いますが、それでも314hさんは同じ土俵であるとは認めておられませんね。 これでは、わからない。 同一人物に対する質疑においてすら、「土俵」の概念が首尾一貫しておりませんので。 「ぶれ」という表現を使いましたが、この相違は「ぶれ」以上のものであり、また「齟齬」として片付けられるものではないと思いますよ。 さらに付け加えます。 このNo7さんへの「回答へのお礼」の箇所で314hさんが用いた「土俵」なる概念は、きわめて広大な世界を意味しています。広大すぎて、「同じ土俵に立つ」ということが、古今の全人類(除外・霊能者、シャーマン)とすら思えてくるため、前提自体が無意味のないものに思えてきますし、そのいっぽうで広大過ぎる世界の中の各要素(人種、国籍、宗教などなど)の隅々まで「同じ」であることを要請してしまう非常に厳しい条件だと解釈されてしまう怖れもあります。この後者の解釈の下に回答されたのがNo8、No9の方々といえるでしょう。 さて No9の方はそれを「100%」という数字で表していますが、そのすぐ後で、 「普通は99%以下の理解で相手を批評する」と述べており、その意味するところはNo19さんとの質疑で示された「土俵」の定義とほぼ同じ内容であると私は解釈します。 同様にしてこのスレッドを通覧すると、No2さんも「土俵」に関する考えはほぼ同様ですし、No5さんも、「「相手のドグマに立つ」のではなく、「相手のドグマを理解して…」」と仰っており、ドグマという語を用いていても基本的には314hさんと同じ理解をしているものと思われます。 したがいまして314hさんが欲していた回答も、それらの方々の回答の一部にすでに記述されているものもあるのでは。 以上が前段です。 後段はシンプルに当初の質問に対してお答えします。 その回答内容はNo20の2行目と変わりありません。 「相手の立場に立つというのは、批判する際に気にかけたらいいひとつの心構え」でしょうね。 説明します。 ある言説Aの正当性に関してし、相手が提示したa(1)からa(n)の証拠や説明が仮にあったとしても、たったひとつの証拠bによって言説Aが否定されれば、それで十分に反論は成立します。よって相手と同じ土俵に立つ必要はありません。つまり質問の文は必要条件とはなりません。 また相手と同じ土俵に立っていれば十分かと言うと、相手の矛盾点、論理思考の飛躍や誤謬などが見出せない場合、同じ土俵に立っていても反論は成功するどころか、その糸口さえ見出せないでしょう。したがって十分条件とも言えません。 要するに御質問の文は必要条件でもないし、十分条件でもない。言わば単なる参考事項にすぎません。というわけです。でもまあ実社会ではたいへん役に立つやり方だと思いますよ。 よりよい方法。 そんな万人、そしてあらゆるケースに共通な魔法のやり方があるんでしょうか。あるならすでに誰かが発表していそうなものです。 ただこのスレッドのように言葉の意味がぶれていては要らぬ混乱の元です。そこはきちんとしなければなりませんね。またお互いが議論しあっているテーマに関して、言葉にはなっていない前提があることにも注意が必要でしょうね。相手を打ち負かすことを目標にし、なおかつ建設的に議論したいのなら、相手が気づきにくいそこにも一応配慮しておくといいと思いますよ。 なお、 私はこのサイトでの質問や解答には慣れていませんが、確か「質問の補足」という機能があったのでは。今後は各回答者の「お礼」の欄に断り書きをするのではなく、この機能を使って分かりやすい位置にしっかりとした補足を書き足すように配慮されたらいいと思います。

314h
質問者

お礼

こうして見ると回答者様のおっしゃるようにひどいもんですね。 辛辣な言葉でなくわざわざ優しい言葉で教えてくださるお気遣い感謝します。 共通の意味を持つ言葉以外の定義、考えを誤りのないよう言語に表せるようにしてから質問し直そうと思います。。。 わかりやすい形でのご指摘、ご回答ありがとうございました。

314h
質問者

補足

>また相手と同じ土俵に立っていれば十分かと言うと、相手の矛盾点、論理思考の飛躍や誤謬などが見出せない場合、同じ土俵に立っていても反論は成功するどころか、その糸口さえ見出せないでしょう。 そんなもの存在しますかね?あるとすればそれこそ真理だと思っているのですがそうでない場合が存在するのですか。 >あるならすでに誰かが発表していそうなものです。 あらゆるケースとなっては不可能かもしれませんが、真理を求めてお互いが反駁しあう姿勢を持っているという前提でならばある程度満たすべき条件としての形式というのが存在するように思います。 >相手が気づきにくいそこにも一応配慮しておくといいと思いますよ。 お互いが確認しながら進めていく姿勢ですね。特に自分のほうを気をつけたいと思います。 補足の方へ補足を書く方が少なかったので、こちらのほうが利便性があるのかなと感じたのと、補足に全て書くとお礼率が下がるみたいなので、不誠実な質問者かなと思われると思ったのと、お礼の文章は長くないので普段はまとめて書いています。

その他の回答 (22)

回答No.12

komaas88 さんの記載を 読みながら 思い出すことがある 西田公昭 先生の マインドコントロールである 主題からズレた話題でしつれい します 心理学者で高名な方で カルト宗教問題でよく テレビに出るので ご記憶の方も多いだろう。 催眠商法 宗教の 勧誘は 一見相手の言い分を聞く そして こちらの土俵にじわりじわりと持ってくる。 昭和20-30年代に 創価学会が 霊友会☆立正校正会らの 新興宗教団体への論破に使った手法も巧妙にこの手法をつかっている 先ずは 素晴らしい宗教があるんですね- などど 一見相手に理解を示した姿勢をとり 男子部 女子部で 敵情視察をする 相手の会員は お友達まで誘ってきてくれた と 感激する ここまでが コマセ さて かえってきたら作戦会議 創価学会が相手を論破する 教典がある 宗教の論理から 相手を論破する マニュアルである教学部長と戦略会議だ☆相手の教義の弱点を 責める戦略をたてる そして いよいよ 実行である お友達をたくさんつれてきましたよ- なぞと いうので 相手の新興宗教団体は感激する さて 本番 相手の困ってる状況を聞き出し たいへんですね- と 一見親身に相談にのる この人たちは いい人たちと 相手は 思いこむ そこで でもね- 正しい 宗教を信じないと 不幸になりますよ- 正に 立正安国論の世界である さて あとは 人生相談の相手をしながら 法論を挑んでいく じわりじわりとやる 法華経を持って論破出来ない相手はいない こうして 立正校正会 霊友会から ゴボウヌキをして 相手を改宗させる。 無論簡単には 行かないが 創価学会会員は 粘り強いから相手から 水かけられた位では くじけない 佐渡への流罪から見ればチョロイ これは 宗教論破の徹底した プロ集団である 大体 地獄みてる貧乏人 と 病人の集まりだ と 自身からいってる 腹くくった人間集団である。 インナ-トリップ 心の中への旅 霊友会 心に灯を 立正校正会なんぞとは 修羅場のくぐり具合がちがう こうやって 創価学会は 法論対決や 人生相談を行って ゴボウヌキを 行ってきた 正に 全ての裏を知る完璧な集団である。 オウム心理教が 創価学会 第3代会長 池田大作 氏を アパートをかりて 狙撃しようとした事件は有名である。 未遂に終わったが----。 無論創価学会と 催眠商法を一緒にするのは失礼だが 恐ろしいほどに 手法が似ている。 相手の土俵に入る こちらの土俵に批判をしながら持ち込み。 主題からズレた記載で 大変失礼しました。 なにとぞ お許しを。

314h
質問者

お礼

komaas88さんがマインドコントロールを仕掛けているとでも? 何が言いたいのか全くわかりません。

noname#194996
noname#194996
回答No.11

意見の異なる人に論争を挑んで、常により良い前向きの結論や同意を得よう(得られる)というのならあなたはあまちゃんですね。そういう試みはたいてい頓挫します。まして相手の土俵にこだわれば、論争は負けたも同然でしょう。いや、まけてもいい、ともかく同意が得られれば、という姿勢なら何丘いわんやですが。いずれにせよ相手に同意(相手を肯定)するのが目的なら相手の土俵に立つのがアタリマエでしょう。 ま、ここは質問コーナーですから、可能な限りより良い結論にたどり着いて、あわよくばありがとポイントをゲットしたいと思うのは人情ですから、もう少し突っ込んでこれを考えてみましょう。 批判するのは相手に同意しがたいところがあるためであり、批判によって(喧嘩別れでなく)何らかの合意、成果を出したいというわけですから、これは野田さんのように、あらゆる手を尽くして結果を出したいということですので、やはりドグマであろうが基盤であろうが丸呑みにしてなりふりかまわずやルということになると思います。でもこれが >にはよりより(よりよい?)と思う批判のあり方 かどうかはわからないですね。 結局、相手を視野に入れて、批判という形で何かを創造していくというのは、私は不可能なことだと思います。しこしこ自分でやっていくべきでしょう。

314h
質問者

お礼

>批判によって何らかの合意、成果を出したいというわけです 合意と成果を並べていることが気になったのですが、あなたは合意だとか自分の意見に持ってくることを目的として批判するのですか? そういう考え方だとすれば私とは一線を画しますね。 私は批判によって自分の意見の正しさを強めたり、確かめたりすることが目的であり、それに付随して相手も考え方を改めてくれることを目的としていますがこの考え方は間違っているのですかね? >相手の土俵にこだわれば、論争は負けたも同然でしょう。 そうですかね?本当の相手の論の崩壊とは自分の中に潜む矛盾や目をつぶることのできないほど大きな欠陥に気づいた時だと思うんですがね。 >全体のあなたの回答に対して また他の回答からの引用なりますが、、、 例えば思想において2人の男がいたとします。 前者は (1)あらゆる人は生きる価値がない (2)人間は生まれてきたほうが良いから子供を生む といった考えをもっています。 こういった思想に対して後者は (1)あらゆる人間は生きる価値がある (2)人間は生まれてこないほうがよい という思想を持っていたとすれば、反駁しあう姿勢を持っていたとすれば質問で上げたような姿勢が大切でないですか?というわけです。(もちろん実際はこんなに単純じゃありませんが) ご回答ありがとうございました。

回答No.10

Mokuzo100nenn さんに1票 いろいろあるでしょうが なにがなんでも 相手の土俵にといわれても それから 携帯電話なので スレッドはれないのです すまんとです 気を悪くされたらすまんとです。 宗教論争は土俵の違う同士でやります。 立正校正会☆ 霊友会☆日本カトリック教会☆創価学会など いや- 昭和20-30年には 多かった。 宗教の土俵が違うと 批判は成り立たない。 ウーン ま-偉そうな事言えた立場ではないが。 感に触ったらすまんとです。 私 キリスト教の神とはなにか の質問に立ってます。 三毛猫です。 なお猫2匹かってます。

314h
質問者

お礼

では彼と全く同じ回答をコピペします。 >相手を批評するのですから、知らずにいる部分が必ずあります。 下の回答者への補足から引用します。 例えば思想において2人の男がいたとします。 前者は (1)あらゆる人は生きる価値がない (2)人間は生まれてきたほうが良いから子供を生む といった考えをもっています。 こういった思想に対して後者は (1)あらゆる人間は生きる価値がある (2)人間は生まれてこないほうがよい という思想を持っていたとすれば、反駁しあう姿勢を持っていたとすれば質問で上げたような姿勢が大切でないですか?というわけです。(もちろん実際はこんなに単純じゃありませんが) 私のいう土俵に立つとはこういったことを指しています。 相手を完全に理解してという意味ではありません。齟齬がありましたね。 >この文章の「私ではなく」 確かに日本語変ですね(笑)すみません。 私の考えた文章ではなく、他の人から聞いたものをうろ覚えながら書いたという意味です。 もちろん解釈は私を通してますから多少変わっているかもしれませんが。 ご回答ありがとうございました。

回答No.9

相手の土俵に立てるという仮説が間違っていますよね。 100%理解した人を想定すれば、その土俵に立つという仮説が成り立ちますが、普通は99%以下の理解で相手を批評するのですから、知らずにいる部分が必ずあります。 たとえば、下記の意味不明の文章があります。 「私ではなくあるところで聞いたのですが、なるほどとは思ったんですね。」 この文章の「私ではなく」は、何が私でないのか、まったく不明ですから、批判したくなるのですが、この文章の作者が何国人であるか、日本語の勉強にどの程度の年数を費やしたのであるか、など、まったくわからないので相手の土俵に立ちようがないですね。

314h
質問者

お礼

>相手を批評するのですから、知らずにいる部分が必ずあります。 下の回答者への補足から引用します。 例えば思想において2人の男がいたとします。 前者は (1)あらゆる人は生きる価値がない (2)人間は生まれてきたほうが良いから子供を生む といった考えをもっています。 こういった思想に対して後者は (1)あらゆる人間は生きる価値がある (2)人間は生まれてこないほうがよい という思想を持っていたとすれば、反駁しあう姿勢を持っていたとすれば質問で上げたような姿勢が大切でないですか?というわけです。(もちろん実際はこんなに単純じゃありませんが) 私のいう土俵に立つとはこういったことを指しています。 相手を完全に理解してという意味ではありません。齟齬がありましたね。 >この文章の「私ではなく」 確かに日本語変ですね(笑)すみません。 私の考えた文章ではなく、他の人から聞いたものをうろ覚えながら書いたという意味です。 もちろん解釈は私を通してますから多少変わっているかもしれませんが。 ご回答ありがとうございました。

回答No.8

批判の姿勢を批判しろという姿勢を批判します。あなたの土俵には立ちませんのであしからず。 相手の土俵が、相手の立場、生い立ち、アイデンティティ、思考、思想、宗教、性別、人種、国籍、身体的特徴などなどの全てことだとするなら、その土俵に立つことは不可能です。逆に、それが出来るなら批判は不可能です。 なぜなら、批判する人間は批判される人間とは別人だからです。 批判する人間が、相手の土俵を想像するくらいが関の山。 結局、相手の土俵にたつべきだという思考も含めて、批判する人間の土俵でしかないということです。 相手の土俵にたったつもりで批判するというのは独善的になりにくい点でよいこことだと思います。

314h
質問者

お礼

ああ、すいませんお互いが反駁しあう気概を持っているという前提の話です。書き忘れましたね。 ただ、基本的には>思考、思想を指します。 生い立ちだとかそういったものは感情的な面が多く入りますし、必ずしも真理が重要でないですからそういったものは除きます。 それと土俵に立つということの言葉の齟齬があるみたいです。 私が言うのは相手が受け入れていることの矛盾や前の回答者もおっしゃったように欠陥を引き出すことによって批判をすべきじゃないか?ということをこの質問で言っているんです。 例えば思想において2人の男がいたとします。 前者は (1)あらゆる人は生きる価値がない (2)人間は生まれてきたほうが良いから子供を生む といった考えをもっています。 こういった思想に対して後者は (1)あらゆる人間は生きる価値がある (2)人間は生まれてこないほうがよい という思想を持っていたとすれば、反駁しあう姿勢を持っていたとすれば質問で上げたような姿勢が大切でないですか?というわけです。(もちろん実際はこんなに単純じゃありませんが) ただしトラウマだとかはもちろん除きますよ(笑) ご回答ありがとうございました。

  • ga111
  • ベストアンサー率26% (247/916)
回答No.7

>批判をお願いします とういことですので、批判します。相手の土俵に立つ必要はたぶんないと思います。相手の土俵を一部(もしくは全部)包含していればいいと思います。 たとえば、古典力学が、相対論の特殊な場合に過ぎないように。

314h
質問者

お礼

>古典力学が、相対論の特殊な場合に過ぎないように。 これがいまいちわかりません。物理学は中学校以降習ってませんので しかしそれは少し話が違ってくるように思います。 それは新たな土俵の発見ではなく、新たな世界の発見ですよね? 土俵というのは世界のうちにあるのであって、土俵は前の方もおっしゃってくださったように世界観です。 しかし思想の世界というのは人間に特別な変化がない限り変化しませんし、土俵は同じ世界に築かれます。 キリスト教世界、イスラム教世界、ギリシャ神話の世界などといいますがそれを構成している人間の認識方法は不変ですよね? ですから、あなたの言っている場だと確かにそうなりますが、一般的な哲学的批判はそうではないですよね?すべての人が同じ世界にいて勝負しています。(霊能者などはそれを証明したら100万ドルもらえる番組があったにも関わらず、証明できなかったのでいないものとします。) そういった場においての批判の姿勢を聞いています。興味がおありであれば今一度そういった前提で回答をお願いします。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.6

”批判するときには相手の受けいれているドグマ、 相手の自己矛盾などなどを基盤として、つまり 相手の土俵にたって行わなくてはならない”     ↑ 例えば、聖書にこう書いてあるから正しいのだ、 と主張している人に対する批判は、聖書の解釈 方法に限定される、ということですね。 そうなれば、解釈学の発展には役に立ちます。 逆に、聖書に書いてあると何故正しいのか、と 批判する人とは議論になりません。 それでは物別れに終わるだけです。 このような意味において、掲示された命題は正しい と思われます。 しかし、これではオナニーになってしまうと 思います。 聖書が正しいという前提で議論しますから、 それ以上に外部に拡散しませんし、より大きな 深い発展は望めません。 パラダイムを乗り越えることが出来なくなります。 ニュートン力学が正しいという範囲で議論していても 相対性理論は誕生しません。 身分制が正しいということを前提に議論をしていては、 民主制は誕生しません。 ”よりよいと思う批判のあり方”     ↑ 使い分けをすれば良いのではないですか。

314h
質問者

お礼

>例えば、聖書にこう書いてあるから正しいのだ、 と主張している人に対する批判は、聖書の解釈 方法に限定される、ということですね。 違いますよ。その人は聖書を信じる上で少なくとも自分の認識と、時間の連続性をドグマとして受け入れていますよね?(何故ならそれを受け入れないと自分の信ずる宗教の教義について絶対とは言えなくなるから) そういった広い意味も含めての土俵です。 >逆に、聖書に書いてあると何故正しいのか、と 批判する人とは議論になりません。 それはそうでしょう。相手に受け入れられなければあらゆる批判はこの命題に限らず議論になりませんよ(例えばペットを買う人に動物を大切にすると言いながら肉を笑いながら食うなんてね!といった疑問の投げかけ) ここでは受け入れる人間の姿勢についての話よりも相手が批判を聞く前提でどういった批判の姿勢を持つべきか?といった議論をしています。 そもそも相手が批判を受け入れようとしなければ、批判なんて行なっても無駄ではありませんか。 >パラダイムを乗り越えることが出来なくなります。 あなたは1対1の人間の話をしているのですか?そうでないなら人間には多様性があります。そういった批判を受け入れる姿勢を持っていれば、その内それに疑問を呈する人も出てきて、またそれに続く人が現れるのではありませんか? >聖書が正しいという前提で議論しますから そもそもこれは別段意味のないことではありません。 こういったことが続いた結果その聖書が正しいという前提に疑問を持つ人が出てくるとも思うのです。 >使い分けをすれば良いのではないですか。 お互いが反駁を受け入れる姿勢があるという前提では、一定の形式というものがあってしかるべきだと思うのです。 ご回答ありがとうございました。 ご回答ありがとうございました。

回答No.5

「土俵」とは世界観であり、哲学とは土俵同士の 争いに他なりません(相手の世界観の否定)。 「相手のドグマに立つ」のではなく、「相手のドグマを 理解して、かつその欠陥を明らかにする」のです。 それができなければ、「そういう考えもあるよね」と いう相対主義に陥るだけです。

314h
質問者

お礼

その欠陥を明らかにするのはお互いの共通理解、もしくは相手の理解しているところによるのではありませんか? そういったことを続けていったからといって相対主義に陥るとも思えません。 それはお互いの思想を認め合って、あなたはこう、私はこうといった事になった時だけだと思います。 人間の考えることの欠陥は常にありますし(それこそ無限の時間が立たない限り)、最終的には似通った思想になっていくのではないかと思います。 ご回答ありがとうございました。

  • bokeyu
  • ベストアンサー率37% (15/40)
回答No.4

>つまり相手の土俵にたって行わなくてはならない。 相手の土俵に立つ前に、まず自分の言葉の体系に矛盾がないかどうかを検証することが大事だと思いますね。

314h
質問者

お礼

自分では限界がありますし、歴代の人を見てもこれは懐疑主義のデカルトでさえ誤りがありました。 だって人間ですから偏りがありますし、 ですから反駁しあうというのは、ただ一人で改善するよりよい選択肢だと思うわけです。 この質問はその上でのものです。 ではどうやって反駁しあうのが良い批判のあり方だろうか?水掛け論ではより正しいものに近づける期待値は0。。。 そこで、そのひとつの選択肢ではないかと思うものとして質問にあるようなものをあげています。 まずあなただって人に意見をいうことはあると思いますがその時自分の意見が間違っていたことは無いですか? もしあるとすれば正しく反駁し合う事は正しいところに近づく個人で行うよりも効率的方法だとは思いませんか?

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.3

ひ‐はん 【批判】 [名](スル) 1 物事に検討を加えて、判定・評価すること。「事の適否を―する」「―力を養う」 2 人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。   「周囲の―を受ける」「政府を―する」 3 哲学で、認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること。 1は物事に対しての批判 2は人に対しての批判 質問の文章から察するに、人か事に対して批判したい(しよう)としてあるのだと思います。 事には評価、人には指摘がネガティブな形で入りますから もめ事になる可能性が大です。 私は、人ともめる事が嫌いなので、もめない形で問題解決をはかります。 ゆえに、批判は選ばないように気をつけています。 私には、よりよい批判は3番以外にないので答えは出せないようです。 >相手の土俵にたって行わなくてはならない。 >同意(肯定)するときも同じように相手の土俵にたって行わなくてはならない。 ここは気になりましたので、抜き出します。 この姿勢は、相手の話しや考えを一度認める(受け入れる)行為だと思います。 認めながら批判は、矛盾を感じます。 到着地点(目標)が、相手の何がしかに対しての批判なのか それとも起きたことに対しての問題解決なのか。 自分がどこへ向かいたいのかで、批判を使うか他のを使うかだと思います。 ご参考程度に。

314h
質問者

お礼

私は3番を通して1,2を試みようと思っているものです。特に相反するものではないですよね? もちろん批判する場合はそういったことを好む人達、もしくは自分に対して攻撃を加えてくる人ぐらいですかね。 殆ど存在しませんが、、、普通に接している人だとさらっと疑問を提示するぐらいで批判はしませんね。 理性的であろうとする人以外に注意しても、注意するメリット<それによって被るデメリットですからね。 >この姿勢は、相手の話しや考えを一度認める(受け入れる)行為だと思います。 認めながら批判は、矛盾を感じます。 ここはお互いの解釈の齟齬がありますね。 相手の考えを幾つか受け入れたと仮定して(本当に受け入れてはいない)、その上でその考えを元にそこから導きされるよりよい他の考えや自己矛盾に陥っている過程、問題点を導き出すたりしてつきつけることを総称して相手の土俵による批判、つまり自分で自分自身を攻撃させるような批判こそ正しい批判のあり方ではないですか?と問うているわけです。 >批判を使うか他のを使うか これはこの質問から逸脱してますよ。この質問では批判を取り扱うべき事柄についてのみ考察しているのであってそうでない分野はこの質問の範疇には入りません。 ご回答ありがとうございました。

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