- 締切済み
ものみの塔の致命的な間違いを教えて下さい。
妻子がエホバで学んでいます。 そこで、私も新世界訳聖書を見たり、組織が発行している冊子を学んでいますが、会衆にも参加していますが今まで、宗教に興味がなかったので中々、理解することが困難です。私が感じている中でエホバの証人の使用している聖書は全てが悪いとは思っていません。しかし、この社会と交わる中で悪い影響を教えている事も事実です。致命的な間違えを探して妻子を攻撃する目的ではなく、私がその間違えに対して妻子がどのように考えているのか心の部分を探りたいと思っています。どのような事でも良いので聖句を交えながら教えて下さい。
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- Nazono-Hakase
- ベストアンサー率50% (3/6)
ものみの塔が「間違っている」と言える根拠について。 ものみの塔は、その教義は全て「聖書に忠実に従っている」と主張しています。 仮に、その教理と聖書の記述が明らかに食い違っているなら、それはものみの塔が間違っているという「証拠」となるということです。 この点だけを、取り上げれば、全てのエホバの証人は同意するはずです。 実際、ものみの塔自身が、自分たちの教理を頻繁に変更しています。 以前はこう考えていたが、聖書の更なる研究によって、そうではないことが判明した。というスタンスが特徴となっている組織です。そうした度重なる変更を「漸進的な導き」として受け入れ、特に地域大会などで新たに発表される書籍類で、今回はどんな解明(変更)がなされるか楽しみにしており、これといった真新しい教理の変更がない時は、期待を裏切られたような感覚さえ抱きます。 これも、エホバの証人なら皆さん、全く同意するはずです。 そして、ものみの塔の教義が新世界訳聖書と食い違っている点は、無数にといって良いほど沢山あります。 問題は、それをいかに効果的に指摘して、考え直してみる気にさせることができるかどうかにあります。 さて、「ものみの塔の致命的な間違い」ということですが、やはり、ものみの塔独自の教理である、1914年キリスト臨在説や、輸血拒否、クリスチャンなのに、天に入らず地上に生き残る とされる「大群衆」と言う人々、「他の羊」と呼ばれる人々などについてのものみの塔の教理は、全く聖書的根拠のないもので、「致命的」なのですが、余りに核心を付き過ぎていて、あらん限りに抵抗を試みるでしょう。 複雑な論議や神学的な話しは、当面避けた方が良いでしょう。できるだけ身近で取っつきやすい話題からはいるのが良いでしょう。 聞く耳がある程度できてからなら、下記の記事の中から、分かりやすいと思うものを選んで話して見ることもできるかもしれません。 下の「参考URL」を参照してください ご相談や質問なども受け付けています。 比較的に扱いやすいと思える話題: ちょっとした突破口ができれば、少しずつそれを広げてゆくことができます。 例えば、全てのエホバの証人は実際には「血を食べている」という事実をどう思うかという話題の方が分かりやすいでしょう。 次の記事を参考にしてください。 99 全てのエホバの証人は、実際には「血を食べている」という衝撃の事実 http://yoberu-t.com/file99.html 100 「輸血拒否」という教理と聖書が本当に述べていることの比較論考 パート1 http://yoberu-t.com/file100.html 101 「輸血拒否」という教理と聖書が本当に述べていることの比較論考 パート2 http://yoberu-t.com/file101.html
- MichiyaS
- ベストアンサー率40% (34/83)
キリスト教系の教えで人は不完全な存在である、神は完全な存在である、というようなことを聞きます。神のことは知りませんが、人が不完全であるということについては同意します。少なくとも私個人は自分が全知全能の存在では無いと自覚しています。 自分自身が全知全能ではないと自覚しているのであれば、如何なる宗教の教えであっても、それが絶対的に正しいかどうかという判断などできないはずです。 なぜ自分は、ある教えが正しく、ある教えが間違っていると判断できるのでしょうか。 人は社会的な生き物だから、多くの場合、実体験と齟齬が生じないかぎり、自分が属している社会集団全体が共通に信じていることを自分も正しいと信じます。 エホバの教えも多くの人が信じるようになればその社会での常識になります。 エホバの信者が集まる集団の中では常識なのです。 どの常識が正しいのか、どの常識が間違っているのか、という議論は、多くの場合、不毛だと思います。 洗脳の問題についても同じようなことが言えるのですが、「どうすうれば洗脳を解くことができるのか」などという議論はおかしいのです。自分自身は洗脳されていない側である、自分が正しく彼は間違っているという前提に、多くの場合、絶対的な根拠など無いのです。 私たちは全ての物事について、私たちの集団ではこういう考え方が一般的だ、何故ならこういう根拠があるから、と言えるに過ぎません。 科学と宗教の大きな違いは、科学は実験や統計による根拠を求め、批判があれば定説が覆るのに対し、宗教は、教義に対する批判を容認しないということです。 科学的見地、科学的常識の多くは、しょっちゅう変わります。光速度を超える物は無いという説はとりあえず支持される結果になりましたが、信頼できる実験結果があれば覆ります。しかし宗教はおかしいと思ったことでもおかしいと言うことを許しません。 エホバの証人が輸血問題などで批判を受けるのは、まさにこの点で融通が効かないからだと思います。イスラムの豚肉食やヒンズーの牛肉食に対する禁忌も非科学的な戒律という点では同じようなものですが、生死や健康に直結しないので問題視されないだけでしょう。 キリスト教(伝統的な)は有名なモーゼの十戒で偶像崇拝が禁止されているにもかかわらず、教会の解釈でキリスト像やマリア像の崇拝は偶像崇拝ではないということにしている宗派が大半ですが、そういった柔軟さが世界中で信者を得ている一因なのだと思います。 日本の神道になんか仏教と半ば合体してしまっていて、明治時代に神仏分離令を出す必要があったほどです。そもそも各地の有力な豪族を従える手段として、地方信仰を容認し統合した結果として古事記や日本書紀という物語ができたのだという説もあるほどです。 話を戻しますが、ある宗教のどのような教義が間違いであるとか正しいとかいうことは、そもそも私たち凡百の民にわかるはずが無いし、宗教の側には、私たちが疑問に思うようなことに対しては何らかの回答が用意されているでしょう。 問題は独自の教義のために、実生活で周囲と軋轢が生じるということです。 冠婚葬祭なんかで。家に仏壇置いたらダメ、とか言われるそうですが。 問題を解決するために考えるべきことは、なぜ彼らがそういった教義を信じるのか、そういった教義を信じる集団を頼るのか、ということです。 ご主人より宗教団体のほうが信頼感があるということなんですが、必ずしもご主人が普通以上に頼りないというわけではありません。 たとえばほかの親族との不和だとか、生い立ちの問題や、近所付き合いの問題など、いろんな理由があると思います。 ただいずれにしても、奥さんが毎日の生活に何の不満や不安も無ければご主人の不興を買ってまで宗教団体に入るようなことは無いでしょうから、きっと何かがあるんです。 その何かに対して解決を与えることができれば、周囲と軋轢を起こしてまで宗教に頼ることは無くなると思います。
- vasco
- ベストアンサー率15% (9/57)
なるほど…。 しかし彼は悪い例を挙げて理論を出してますね。その空手の先生はよくない指導者ですよ。 だからこそ、ぜひ先ほどの動画を観ていただきたい! エディさんは選手の祝勝会に参加しないことで有名でした。そして昔のボクシングジムは試合に負けた選手を竹刀で殴ったり、やはり「悔しかったら勝て!」と活を入れていたのですが、エディさんはそれを見てトレーナーに怒ったそうです。 「その棒、シナイ言うの? そんなの捨ててヨ。ボク、ハートのラブでボクサー育てるノ。シナイ捨てないとボクシング教えないヨ!」 ハートのラブ。いやらしい意味じゃありませんよ。負けたボクサーに対して最大限の愛情を注ぐ。いえ、自分の育てた選手が常に負けることを想定しながら愛情を注ぐ。そういう意味です。 だからエディさんは、試合展開が絶望的と判断するとタオル投入が早かった。赤井英和最後の試合の時がそうだったんですが、7ラウンドで赤井がダウンした時、他のセコンドが「立て!」とか「頑張れ!」と叫んでる最中、エディさんだけが「もうダメヨ」とつぶやいてました。これもyoutubeで観ることができます。 「選手無事に家に帰してあげるのも、ボクの仕事ナノ」 私、この人こそが聖書を体現していたと思ってます。
お礼
vascoさん:折角、動画を添付していただきましたが、私しか動画は観ないと思います。馬鹿馬鹿しいと思いますが、信者の方はネットでエホバに対して否定的なものは見ないように言われています。組織からポルノ映画を見るようなものだと表現されています。私が薦めるものも見ません。私は妻からすれば迫害者ですから・・・。vascoさんがエホバの事をどこまでご存じかわかりませんが、一般常識は彼らには通用しません。楽園で復活する為には、エホバの証人の意見が絶対でこの世の意見の相違点は受け入れられないようにマインドコントロールされています。どんなに良い事でもエホバの組織がNoであればNoなのです。これが親子間でもエホバが原因で離縁された方も知っています。すごい、知識武装をしている宗教でオウムとは比べられない程の組織だと思っています。ちなみに妻は私に対して、サタンに惑わされている可哀想な人だから救ってあげたいと考えています。要するにお互いが救いたい気持ち同志ですから交わる事が不可能なんですよ!!私もvascoさんが提案していただいた動画のように色々と試そうとしましたが、そこまで辿りつかないから駄目なんですよ!! すみません!!このような回答ではなく、前向きな回答ができれば良かったのですが正直、難しいです。 度々のお答えありがとうございます。
- vasco
- ベストアンサー率15% (9/57)
度々失礼します。 「人間は不完全で、自分を完全に制御することが出来ません。 カッとなった時や、体が勝手に反応して反撃した時、過ぎた力は取り返しのつかない事態を招きかねません。 核が手違いで発射されたら、地球は死の星になります。」 あれですね、こんなこと言う人って、己の子供がグレた時に初めて間違いに気づくタイプですな。 人間は不完全です。それは正しい。だからこそ、格闘技という素晴らしい競技がある!! http://www.youtube.com/watch?v=WLQmLQgg93M ↑はエディ・タウンゼントさんを取り上げたドキュメント動画です。ぜひご家族の方や他の信者さんとご視聴ください。これを見れば、ボクシングが野蛮な殴り合いなどではなく、愛とドラマに満ちたキング・オブ・スポーツだということがよく分かります。 そしていつかご家族と一緒に世界戦を観に行くようになれば、あなたは素晴らしき趣味人です。
お礼
vascoさん:「こんなこと言う人って、己の子供がグレた時に初めて間違いに気づくタイプですな。」⇒残念ながら、気付かないと思いますよ!!信じられないかも知れませんが、本気で世の中の人を救いたいと考えている集団ですから・・・・。 信者の方の武道禁止に関する他のコメントをもう一つ紹介します。 【空手の先生とか、どうでしょうか? 「闘争心をあおるような言葉で教えたりしませんか?」 試合がありますね。 勝つことが、目的に実際はなっていませんか? 負けたら、悔しいって泣いてる子供を見ますね。 悔しかったら、勝て!って、励ましませんか? 才能や素質がある子供は、強くなれるけど、そうでない子供は、負け犬ですか? 人生の落ちこぼれなので、いじめてもいいですか? 信仰の問題なので、その目的、それに捕らわれる時間などの問題もあります。将来、地上の楽園で生活する時、武道の精神や身体の武器(体術)は、必要なくなるでしょう。 あると逆に自分にとってマイナスかもね。 武道をスポーツと見ても、子供の内に“教育”し、将来それで身を立てたり、オリンピックでメダルをとかありますよね。だから、子供だからとか、プロだからとか関係なく、過ぎた力は取り返しのつかない事態を問題を招きかねないと言えます。不完全な人間は“力”を十分には、制御できないのですから、感情に任せたり、カッとなって後先考えなかったり、“力”を悪いことに使う「誘惑」に勝てなかったりするのです。】 結局、武道禁止の理由がここまでの展開に発展するんですよ。組織が武道禁止の定義を掲げている以上、正しいと言う定義にしなければならない訳です。輸血禁止も同様ですが、この事が原因で命を落とした方もいる自体、問題です。私もこんな宗教にはまった妻に対して頭を悩ませています。
- vasco
- ベストアンサー率15% (9/57)
ものみの塔の致命的な間違いを教えて下さい。 格闘技禁止、という部分です。 それについてのエホ証の見解は、以下の通りです。 エホバの証人は聖書が次のように述べる人々の一人でありたいと思っています。「彼らはその剣をすきの刃に、その槍を刈り込みばさみに打ち変えなければならなくなる。国民は国民に向かって剣を上げず、彼らはもはや戦いを学ばない」-イザヤ2:4. 聖書はまた、こう述べています。「できるなら、あなた方に関するかぎり、すべての人に対して平和を求めなさい」。(ローマ12:18)これらの原則を生活に当てはめると、格技に対する私たちの態度にも影響が及びます。それにはボクシングやレスリングはもとより、柔道、剣道および相撲などの武道が含まれます。これらの武道は今日スポーツとみなされています。エホバの証人は、広くスポーツと呼ばれているものを学校が教育の一環として取り入れていることに異議を唱えたいとは思いません。しかし前述の聖書の原則を考慮するとき、ほとんどのエホバの証人は格技を練習することは良心的にできないと感じています。なぜなら、そのような技術は、実際に人と争うときに用いられることがあり、そうした技能に心得のある人は問題の解決法として腕力に訴える場合のあることが観察されているからです。ですから、エホバの証人はそのような格技には加わりません。証人の若者たちはそのような競技に参加することを免除していただくよう願い出ますが、授業時間内に行われる他の体育教育の教科課程には喜んで、できる限り協力いたします。 ああ、アホみたいですね。 私、小さい頃からのボクシングファンなんですが、世界ランカーのクリスチャン率(特にカトリック)相当高いの知ってますよ? そりゃそうですよね。だって軽中量級はフィリピンや中南米の人、多いんですから。 「そうした技能に心得のある人は問題の解決法として腕力に訴える場合のあることが観察されているからです。」だって? 私、この前シンガポールで花形進会長(元世界チャンプ。大場政夫に勝ったことも!)とお会いしましたけど、「問題の解決法として腕力に訴える」ことなんか全く知らない感じの、小柄で優しいおじさんでした。 でもエホ証の人に言わせれば、自分の子供を花形ジムに通わせるのは許されないことなんです。 ひっどいハナシですよ! 聖句を交えて説明するまでもないです。 昔、エディ・タウンゼントさんというボクシングのトレーナーがいました。どういう人だったかは、検索してみてください。 この人は熱心なカトリック信者で、試合後にはいつも教会へ行って告解していたそうです。 エディさんの言葉を、ここで取り上げます。 「選手が試合勝った時、ワタシいなくていいの。友達たくさんイッパイできるから。 選手が試合負けた時、ワタシが選手抱いてあげるの。ワタシ、負けた選手のミカタです」 この言葉、聖書そのものだと思いませんか?
お礼
ある信者の武道に対するコメントです。果して、武道禁止と何が繋がるのでしょうか? 「人間は不完全で、自分を完全に制御することが出来ません。 カッとなった時や、体が勝手に反応して反撃した時、過ぎた力は取り返しのつかない事態を招きかねません。 核が手違いで発射されたら、地球は死の星になります。」 私はこの答えを聞いて聖書が武道禁止を伝えている訳ではなく、組織が禁止と言っているからそれが正しくて、その為の理屈を言っているように聞こえます。いずれにしても、エホバの信者の理屈が理解できません。 ありがとうございます。
- burahuman
- ベストアンサー率27% (167/604)
致命的な間違いと言うか人間として絶対に許せない部分として 以前問題になった輸血拒否の件で教義の為なら愛する我が子さえ平気で見殺しにする体質。 人間の命を軽んじ主の前には自分の命さえ価値無いものと考える為当然他人の命など虫けらほどにも尊重しない価値観。 もうすぐハルマゲドンが来ますわ~、この世界の秩序が一新されエホバの証人に入信した人だけが主の国で永遠の命を授かるのです、と。 これを下品な言葉に翻訳すると 「ヤイヤイてめーら我々の宗教に入らねえような奴らは皆殺しにしてやるぜ」と言う意味になります。 自信を持ってそこまで言えるなんて素晴らしい教えじゃ有りませんか、ヤクザだってそこまでは言いません。
お礼
そうですよね!!自然な答えですよね!!しかし、彼らが問題なのは、フラットな視線で物事を判断できないようになっています。組織に操られた奴隷みたいですよね!!ご回答ありがとうございます。
A No.4のお礼を読みました。憤慨しているように感じましたが、あえて再度回答させていただきます。どうか冷静に読んでください。 bonjin0909さんは「エホバの証人の考えは絶対に間違っている」という前提で話を進めているようですね。以前言っておられたとおり、奥様や娘さんが「エホバの証人の考えは絶対に正しい」というふうに考えているというのであれば、多分、話し合いは決裂してしまうでしょう。私との討議でさえも感情を害しておられる様子、今後が心配です。 bonjin0909さんが以前言っておられたように、結局、その間違いをいくら論理的に証明したとしてもそれを受け入れるかどうかはまた別問題ということになります。ですから、bonjin0909さんが仮にエホバの証人の致命的な間違いを見出したとしても現状はあまり変わらないような気がします。 bonjin0909さんの最終的な目標を是非思い出してください。それは単純に家族で幸せな生活を送れることではありませんか。bonjin0909さんは奥様と娘さんがエホバの証人の信仰を実践していることをその目標の障害とみなし、排除しようとしているのだと思います。その意味は私も分かります。しかし、上でも説明したとおり、たとえ自分の妻、娘であっても当人の信仰を覆すというのは非常に困難です。 といっても私はエホバの証人をひいきしているのではなく、真に現実的な見方を述べているだけです。だれか彼女らの信仰を覆すことができるのでしょうか。(といっても、これは飽くまで長年彼らを観察してきた私の結論ですが。今bonjin0909さんはそれができないかどうか模索しておられる段階なのですよね。それも分かっています。しかし、いずれそのような結論に達するかもしれません。) もし家族間で宗教的な対立が生じるとすれば、「家族の幸福」という目標からはほど遠い、本末転倒な状態を招きかねません。ですから、むしろ家族間のいわば「宗教戦争」が生じないようにするための対策も(bonjin0909さんが今している模索と)平行して講ずるべきではないでしょうか。文字通りの宗教戦争は自分の主義・思想を他の人に押し付けることによって生じます。もし、押し付ける方が圧倒的に強ければ、中国のチベット問題のようになります。もし、双方の力が同等であれば、各地で見られる宗教紛争のようになります。 押し付ける、つまり強制は、必ず反発を招きます。bonjin0909さんのご家庭に当てはめると、もしbonjin0909さんがご自分が今信じている考え・主義・思想(信仰に限らず)つまり「エホバの証人は間違っている、だからそれを辞めるべき」という考えを奥様や娘さんに押し付けようとするなら、家庭内の宗教戦争が起こる可能性が高いということです。(だから、bonjin0909さんはそうならないように、彼らの致命的な間違いを見つけて、彼女らを説得したいと模索しているのですよね。それも分かります。) ですから、「共存」のための解決策は「お互いの考えを尊重する」ということになると思います。彼女らは別にbonjin0909さんにエホバの証人の考えを押し付けているわけではないでしょう。同じように、bonjin0909さんも奥様と娘さんにご自分の考えを押し付けなければ、家庭内の宗教戦争は生じないでしょう。しかし、説得してはいけないというわけではありません。説得が高じて「押し付け」、「強制」になると対立を生むということです。 「共存」のためには幾らかの歩み寄りや調整は必須です。全員が同じ宗教をしている家庭よりも幾らか余分に努力する必要もあるかもしれません。しかし、最終的な目標を思い出してください。家族全員が幸福に暮らすことができれば、とりあえずはそれでよしとすべきではありませんか。 私とbonjin0909さんの見解が分かれている原因は、結局、エホバの証人の信者を説得することが可能かどうかという点にあるのだと思います。私は多分無理という前提で話し、bonjin0909さんはその可能性がないかどうかを模索している段階で、その可能性を全否定されることに憤りを感じたのでしょうか。今回もそこを押して私の見解を述べさせていただいたのですが。その点はどうか許してください。それで、bonjin0909さんはその可能性を最大限模索してもよいと私は思っています。実際に、できるかできないか結論を出すとよいでしょう。ただ、それが高じて家族間の宗教戦争が勃発することだけはないようにというのが私からの忠言でした。私のような見解も不必要な問題を起こさないための「保険」だと思って心に留めておいてください。
お礼
憤慨していません。しかし、yangmaskさんはエホバの証人にとって良い理解者に感じます。yangmaskさんはB案が単純に家族で幸せな生活を送れることだと思いますか。もちろん、その手段を選ばなければならないかもしれません。しかし、私はこの問題に直面してから現在は無宗教の元2世の話・教会にも元2世が沢山いるので多くの話を聞きました。PTSD・精神障害等殆ど、2世の問題ですよ。娘がこの状況になるかも知れないのにこれが家族で幸せな生活を送れることですか。勿論、家族と宗教戦争は避けたいと思いますが、今回の質問も単純に否定する事を前提にお尋ねしている訳ではありません。私自身がこれから直面する可能性がある場合の心構え・万が一、妻がエホバの教理に疑問が湧いた時の対応・将来、娘がエホバに疑問を抱いた時の妻子の関係。その為には私自身がエホバの洗脳方法・教理の中身を知る必要があります。しかし、yangmaskさんは武道・輸血の話を聞いてもエホバの信者の答えしかありません。聖書の解釈よりもこれらを正当化するための理論を述べているだけです。2世の良い話だけをしていましたが、B案を進める事とエホバの教理の正当性を私に伝えれば答えは一つしかありませんよね!! お互いの考えを尊重すると言う事はどうしたら良いですか?信者は尊重するための窓を閉めていますよ。 最後に私はyangmaskさんのお答えを保険だと考えていません。そして、今までお付合いしていただいた事に感謝しています。
> 単純にエホバの教えに反するものは否定です。驚くことは否定する理由はなくて、考える事をしない。 洗脳されてしまっている状態ですね。大変心配です。 > 教えに反する事は考える必要がないと言う回路になっているようです。 教えに反することは「考える必要がない」ではなく、「サタンの誘惑なので心を開いてはいけない」と洗脳されます。 私は、ご主人様に必要なのはもはや宗教の理解や間違い探しではなく、洗脳技術の理解や洗脳されてしまった者との向かい方ではないかと思います。 http://www.jihonji.net/ehobanoshoninhashaku.html http://blog.kn-system.net/article/159179300.html http://okwave.jp/qa/q4833428.html http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1454609429 http://www.exjw.net/gnu/
お礼
CUE009さんのご意見もっともだと思います。この方法も視野に入れています。しかし、間違え探しと言うより社会との交わりに対しての弊害についてどのような考え方になっているかは多少の知識がなければと考えています。仮に妻が疑問点を持った時に私が何も知識がないとこれも問題かと考えています。奥様が元信者のご主人を脱会させた話をお会いして聞きました。この事を参考にしています。実現できなくても、一つの方法として考えています。他の方法も皆さんのご意見等を参考に私なりに考えていきたいと思います。ご意見ありがとうございます。
- B-juggler
- ベストアンサー率30% (488/1596)
No.9 仏教徒、数学屋です。 うん、「神の存在」についてだけ。 輸血の禁止は、どうやらきれいに書かれてありますね。メモメモ^^; 我々から見ると(一神教の人間ではないとしておきます)、 「神の存在は証明できない」と思っています。 こう考えてみてください。 「この文章は間違っている」 この文章が正しいとすると、この文章は間違っているはずです。 正しくないはず!! おなじく 間違っていると、正しいことが書いてあることになりますよね。 #間違っている、ということを、間違っているということは正しい^^; つまりたったこれだけの話し。 この一文ですら、不完全なんです、ここに矛盾があります。 #不完全性定理はこれをもっと突き詰めるとでてきます。 これを神の存在とやってしまう。 当然証明できないね! ただ、信仰心だけ。 問題は、邪教(この言葉が適切かどうかは別問題)に対しての信仰心だってことでしょう。 お礼によると、誰も確かだとは言い切れないという節がありました。 要するに不完全なまま、この状態だとね、突き進んでしまうんですね・・・。 不完全性定理を脱する方法はひとつしかないです。 「外から見る」のです^^; 「数学自身が正しいことを証明できないのなら、物理や化学に照らし合わせてみよう!」 という考え方を取ります。 そうしないと数学は成り立たないのですよ ヾ(@⌒ー⌒@)ノ この場合も同じだと思います。 「一度外から見る」 それをやらずにいると、井の中の蛙でしかないわけです。 自分たちが世間様からどういわれているか?なんてことを、 しっかりと探して見せることではないでしょうか? #そうか学会に似てますね。ここのところは。同じ手でいけるかな? #σ(・・*)はよく使うんですが^^; 手段としてもう1つ。餅は餅屋作戦! 教会に行くんです。ほんとのミサに参加させるんです! 神父さんか牧師さんかにきちんと話してもらうんです。 #もちろん、下準備として、家のがこうこうでして、きちんとした教義を #教えてくださいませんか? とお願いしておいて。m(_ _)m σ(・・*)は そうか学会 からの脱出を結構やってきています。 ほとんどがこの手です。 「外から見せる」「正しい教義を知らしめる」。 ということで、後はお任せします。 幸多からんことを。 十方三世一切佛 諸尊菩薩摩訶薩 摩訶般若波羅密 合掌 #気になさらず。呪いとかではないです。ただのたくさんの仏さんが #助けてくださいますように って言う祈りです。 #キリスト教 「神のご加護があらんことを」 って言うのと一緒だと思います。 ヾ(@⌒ー⌒@)ノ (=^. .^=) m(_ _)m (=^. .^=)
お礼
ありがとうございます。
- pantomana
- ベストアンサー率10% (1/10)
お礼に含まれた質問への回答です。 (1) ヨハネ4:23.は、霊と真理で崇拝すると言う新しい崇拝方式を述べています。 霊とは、霊となったイエスの事です。(第1コリント15:45.46.ヨハネ6:63.)。 真理もイエスの事です。(ヨハネ14:6.)。 ですから、場所的な集まりは肉のイスラエルの崇拝方式であって、真の崇拝者には見える場所は全く関係なく、霊の体である教会(会衆)キリストに集まると言う事です。 (2) 旧約聖書は、キリストに導く養育係。(ガラテア3:24.)。 そして、律法は、罪の認識を生じさせるものとして与えられたものです。(ローマ3:20.)。 そして、罪はイエス・キリストの罪の無い血で贖われましたから、キリスト・イエスに信仰を持つ人は罪を意識する事無く、罪を犯す前のアダムと同じように神の子となれるように信仰の道を歩む事が出来るようになったのです。 律法は、新しい契約に代わったので一切守る必要はありません。 ローマ2:12.には「律法のもとにあって罪を犯した者はみな律法によって裁かれます」。 律法は、殺人を犯さなくても、盗みをしたら律法違反者になりますから、「血を食べてはならない」と言う律法を適用するなら、安息日も厳格に守らなければ律法違反者として裁かれます。 (3) 滅びの子は、イエスを裏切ったイスカリオテのユダが滅びの子と呼ばれたように、行動パターンが似ている者のと言えます。 ものみの塔組織は、末端の会衆では一円の誤差も許さない明確な会計報告を行わせていますが、ものみの塔協会は一切の会計報告をせず、ユダが金庫番でありながら常々くすねていた盗人と同じように、後ろめたい使い方をしていると聞いています。 会計報告を請求しても頑として無視しているのがその証でしょう。 そして、第2テサロニケ2:3.「先ず背教が来て、不法の人つまり滅びの子が表し示されてからでなければ、それは来ないからです」。 主の日が来る前の最後の決定的な徴として、滅びの子が明確に表し示されると言う事です。 聖書は、イエスの語った言葉で霊ですから、聖霊の助けで読む事をお勧めします。
お礼
ご回答いただき、ありがとうございます。私なりに聖書を読んでもう少し、読んで理解出来ればと考えています。色々なアドバイスも併せてお礼させていただきます。
お礼
「問題を解決するために考えるべきことは、なぜ彼らがそういった教義を信じるのか、そういった教義を信じる集団を頼るのか、ということです。 ご主人より宗教団体のほうが信頼感があるということなんですが、必ずしもご主人が普通以上に頼りないというわけではありません。 たとえばほかの親族との不和だとか、生い立ちの問題や、近所付き合いの問題など、いろんな理由があると思います。 ただいずれにしても、奥さんが毎日の生活に何の不満や不安も無ければご主人の不興を買ってまで宗教団体に入るようなことは無いでしょうから、きっと何かがあるんです。 その何かに対して解決を与えることができれば、周囲と軋轢を起こしてまで宗教に頼ることは無くなると思います。」⇒この原因もあると思いますが、妻の性格も要因の一つに考えています。いずれにしても、バプテスマを受けていますので、慎重に対応しなければなりません。 ご回答ありがとうございます。