あんまり面白い質問なのでついコメントする気になりました。”やはり”私は普通ではないとのかと思いました。質問者さんはなぜこの質問をされたのでしょうね。「やはり言葉」を多用される方をあまり好ましく思っておられないか、もしくはご自分もついよく使ってしまって困っておられるか、あるいはその方の成長過程でなぜそうなったのか等と不思議に思われたからでしょうか。
私の考えでは二通りおられるように思います。第1のグループの方々は自分でも気づかず”やはり”を多用される方です。#1さんが答えておられるのと同じです。単なる癖なのでしょう。あまりお話がお上手ではないということでしょうか。ほんとの意味で”やはり”を使いたいときその言葉は死んでいます。
第2のグループは、自分は教養のある普通に物事の判断できる人物だという事を聞き手にあるいは自分自身にもアピールして安堵感を覚えている人たちの集まりです。第1のグループの人たちは指摘されれば話し方が改善できる人たちです。しかし第2のグループの人たちは多少厄介だと思われます。人に話をする場合でも自分の私的な意見を一般化して相手を納得させようと言う気持ちが無意識に働いているからです。勿論意図的である場合もあります。聞き手にまわった場合はよく理解できなくてもある程度は理解できていますという意思表示に使っています。さらに話し手の気持ちを傷つけまいという気持ちが話し手に「あなたはは教養人ですね。」と言う代わりの言葉として使っています。それくらい気配りの上”やはり”を使っているのですから注意したりコメントしたりすると気分を害してしまいます。
もう少し手厳しく言うとまさに自己が確立していないため自分の意見もなく判断基準も持っていない人たちがよく口にします。
こういう人たちは”長いものには巻かれろ”式の人たちですからまず創造的ではありません。悪く言うと烏合の衆です。よくいえば”見ざる、言わざる、聞かざる”です。私は英語でこの言葉にぴったりくる表現はないのではと思います。普通に訳すとAnyway,After all, as I thought, So, 等全然意味が違いますね。無理に合わせて訳すと、Generally speaking, as most of people thinks. でしょうか。こんな事を言うのは講演者か政治家です。やはり日本人らしい表現だと思います。悪く言うと島国根性、良く言うと最適化文化、適合文化でしょうか。
質問者様の質問の意図は測りかねますが私は日本という国が今後国際的な存在感を持つため、あるいは主張するためには個人が論理立てた意見、あるいは感性豊かな自分の意見を持ち相手に伝える技術を備えなければならないと思います。従ってできるだけ意味なく、責任の所在を不明確にする”やはり”という言葉は使ってほしくないと思っています。
質問者様の意図と全く異なった回答になっていたらすみません。私も気になっていたものですから。
お礼
早急な、かつ綿密な分析された回答ありがとうございました。 なぜ私が、この”やはり”という言葉が気になったかを、今考えています。 私は古典落語が好きで、毎日聞いています。落語家は、言葉や台詞が短時間には重ならないようにして、はなしています。笑いを取るときは別として、同じ表現を避けたり、言い換えたりしています。私はそれに気ずき、感心しました。(落語家、だけでなく演劇・小説・新聞記事でも同じですが) 私は、日常しゃべる時にも、その重複が気になっているようです。 ただし、なぜ、よりによって、”やはり”という言葉について、ここへ投稿するほど気になったのか、まだ分かりまん。 本題に入りますが、 <第2のグループの> <自分の私的な意見を一般化して相手を納得させよう> ということは、よくわかります。 社会の中でも <責任の所在を不明確に> に通づるのですね。