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月の石の価値
月の石の価値は地球に持ち帰ってから生まれたようです。 では、現在の月にある石には価値がないのでしょうか? 月面を歩いた宇宙飛行士が蹴飛ばした石っころの価値とは?
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- littlekiss
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ん? ごめんごめん、他所で 「ただよりたかいものはない」って話を目にしてたもんだからね ここ三日、この「ただよりたかいものはない」このことを あれこれ思い巡らせあそんでいました。 修辞技法の中に撞着語法ってのがあるのよね 撞着語法(どうちゃくごほう、英語: oxymoron)とは、修辞技法のひとつ。「賢明な愚者」「黒い光」など、通常は互いに矛盾していると考えられる複数の表現を含む表現のことを指す。形容詞や連体修飾語、句、節などが、修飾される名詞と矛盾することとしては、形容矛盾(けいようむじゅん)とも言う。集合論・論理学的には、「Aであって、かつ、not A」であるということはありえない(矛盾律)のにもかかわらず、そうであるかのように語ることである。狭い見方をすればつじつまがあわず、単なる誤謬にすぎないように見えるが、複雑な内容を簡潔に表現する修辞法として用いられている場合もある。 質問内容に戻って、 ●月面を歩いた宇宙飛行士が蹴飛ばした石っころの価値とは? ↑ ここなんだけど、位置確認してもいい? 宇宙飛行士が石っころを蹴とばした場所はどこ? 月 or 地球 or soreigainobasyo? 何でそんなこと訊くんだよって? 宇宙へ飛び出すのギモン「宇宙でボールを投げるとどうなるんですか?」 http://www.kids.isas.jaxa.jp/faq/develop/de05/000085.html 【なにはさておき量子論】 http://www1.odn.ne.jp/~cew99250/ryousiron.html
#10です。 #12さんの、 >存在の価値は人知をはるかに超えて存在する価値・・・ という言葉は、「数学の定理は(人間がいなくても成り立つ)永遠不滅の普遍的真理だ」という言葉を思い出させます(数学的プラトニズムと言います)。この意見を自分は否定できないのですが、ちょっと居心地が悪いのも事実です。数学は「そればっかり」で動いているとも思えないからです。 それでもっと中立的立場で、意味は(価値は)、関係性から生じるという方向で考えましたが、止めました。ここに突っ込むと面倒なので(#10と同じです(^^))。 こんなのでは、駄目でしょうか?。石を、食材に変えてみます。美味しい食材には、大抵希少価値があるので高値が付きますが、そんな事とは別に、上味いものは上味いです。上味い食材にはそういう、永遠不滅(?)の力があります。素のままでは不味い食材でも、調理次第では化けます。このときも、その力はその食材に、もともと備わっていたと考えますよね?。 つまり造園は調理だ、と言いたい訳です。和食風に言えば、素材の力を引き出す技だと。 当たり前すぎる事を書いて恥ずかしくなったので、余談を2つ。 歳のせいか、昔より日本庭園や神社仏閣が好きになりました。それで深夜に、京都仏閣巡りなんかをBSで見てると、「電気代かさむから、早く寝なさい」と、嫁さんに叱られます・・・(^^;)。 成り金趣味の庭ですが、悪趣味も突き抜けると、余りにも良く考えられた悪事に「よく考えた!」と感動するみたいにも、なるようです。北海道の某霊園は最初見たとき、「なんて悪趣味な!」と思ったのですが、悪趣味もやり尽くすと・・・、 http://www41.tok2.com/home/kanihei5/chindera-touhoku.html ・・・、けっこう人気あるみたいです・・・(^^;)。
お礼
少し雑談っぽくなりますが・・・ 成り金趣味が受けるのは、そのインパクトにあるようです。 存在感の誇示にすがる人の姿を思えば、やはり、これも人間臭い感じがします。 一種の泥臭さだと思えば中々面白いもんです。 >石を、食材に変えてみます。・・・ 石を飾り物としてのオブジェ的扱いとして使う・・・調理法 これには幾通りもの道があります。 これを話だすときりがなくなるので止めます。が 一つだけ 京都の東福寺に八相庭という庭があります。 重森三玲という作庭家が作った庭です。 全国の庭園を調べあげた末に、石そのものに神の如きものを会得して作庭を行ったとされる人の作品です。 私は若い頃にこの庭園を実際に見ました。 その印象は・・・ なんと毒々しいのだろう 凄いのは確かに凄い・・・ やり過ぎではないのか・・・ といったものでした。 強いインパクトを感じましたが、惹かれませんでした。 安らぎの「や」の字もない、超自然的造形といった感じです。 だが、ここまでやれるのは並みではない・・・そんな感じです。 調理というこ綺麗な世界ではありません。 どこか、調理というものを突き抜けてしまった世界のようです。 人を相手にした世界ではないように見えます。 この異様さは一般的ではありませんが 枯山水という宇宙的展開の一つを見せてくれているようにも思います・・・。 重森三玲という人の作庭法は 磐座や磐境といった神々の宿る神聖な場所における石の存在感からきているとも言われています。 まあ、私には真似もできませんし、真似をする気もありませんが・・・ 感心するのは、よくぞここまで石にこだわったものだ、という事です。 私には「石っころ」ぐらいがちょうどいいのかもしれません・・・ >存在の価値は人知をはるかに超えて存在する価値 なかなかいい言葉ですね。 石っころにも当てはまると思いますよ。
- mmky
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[世の中の お金 お金 ・・・・・小さい石っころはどう聞いているのでしょう? お金はいいから、月に戻してくれ・・・落ち着ける場所に戻してくれ・・・ なんて呟いているかもしれませんね。] ○ なるほどですね。山川草木悉有仏生ですから、そのように月の石は考えているのかもしれませんね。 存在の価値は人知をはるかに超えて存在する価値ですから、人間がどのように庭園を造って愛でても、自然の造形の前には色あせて見えますね。手を加えるな、あるがままの世界をあるがままに見、あるがままに溶け込めというのが老荘思想ですが、そのようであれば、石ころを陳腐な研究のために持ち帰るということはありませんね。ましてや経済価値など考えることすらありませんね。 太公望は河で釣りをしているのですが釣り人ではないのですね。一枚の水彩画をかもし出すために、糸をたれているのですね。これは、例えば、月にはアームストロング船長らの足跡が残っていますが、この足跡こそが本当の未来への遺産ということですね。 このように、存在の価値をそのまま認める思想も哲学にはあるのですね。経済的価値は誰しもにわかり易い価値ということで説明しますが、それだけではないのですね。 存在の価値は自然の生命活動の賜物ですから、人間にはあまり関係しないことですね。むしろ、人間がそこに関与することは当然、自然破壊をもたらすことになりますが、それでも営々と人間が生き続いているという事実は存在の価値のほかに、進歩という価値も認められているからなのでしょうね。 ここに、調和と進歩という相矛盾する命題が存在し続けていることが見えてくるのですね。 月の石、路傍の石からいろんな考えが見えてくるのが哲学ですね。
お礼
ありがとうございます。 >人間がどのように庭園を造って愛でても、自然の造形の前には色あせて見えますね。 まったくその通りです。 しょせん、造園なるものは人のままごと遊びに過ぎないものです。 自然からみれば、下手なままごと遊びです。 だが、その下手くそがいいのです。 下手であればあるほどいい・・・(言い過ぎか) いろいろと広く捉えていらっしゃるようですね。 環境問題に踏み入る姿勢が感じられますが この事も当然の帰結のように思われます。 身の周りにあふれた何気ない物の集まりによって、この世界があるという事実からすれば 小さい石にも価値があるように思います。 だが普段は実感できないことです。 毎日沢山の人が、沢山の石っころを蹴飛ばしています。 何の価値もない物と思って・・・ 造園の仕事をしていて時には、石というものに不思議な感触を得ることがあります。 なぜ、このようなものが、ここにあるのだろう? 草や木と違って何も話さない・・・感じですが この人に媚びない無口さに惹かれてしまうのです。 石ほど憂欝なものはない、といった言葉もあります。 重く、動かず、語らずといった感じです。 また、何かがそこには凝縮しているようにさえ感じます。 結局分からないのです。 石というものの本質が分からない。 成分や生成の歴史は調べれば分かるでしょう。 でも、なぜこのような物があるのか?ということが根本的に感覚的に分からない、伝わってこない。 だから、「石っころ」なんでしょうね。 或いは、「石っころ」と呼ぶこと自体が、人間の無知の象徴なのかもしれない 宇宙という、あまりにも大きすぎるものへの無知の象徴・・・ そんな感じさえしてきました。
- littlekiss
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月の石… とくれば… やっぱ、これははずせませんでしょー みとかないとね、歌詞 君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで ふむふむ 岩ー石ー砂 マクロからミクロ 砂ー石ー岩 ミクロからマクロ ●世の中の お金 お金 ・・・・・ 小さい石っころはどう聞いているのでしょう? ↑ どう聞いているかって? こう聞えてる ↓ 伝統的ファイナンス理論からの決別 http://www.mof.go.jp/pri/publication/financial_review/fr_list4/r70/r_70_050_062.pdf
お礼
行動ファイナンス・・・ よく分かりませんが 自由経済市場における実践哲学みたいなものでしょうか。 ともあれ 正統とされてきたものに隅に追いやられていたものが台頭してきた、といった事なのでしょうね。 一顧だにされなかったものが、そうではなくなった・・・ という解釈なのでしたら、それもいいかもしれません。 しかし、 それも経済理論の範疇にあることとして捉えられているようです。 月の石の価値を経済観念から一度離れて見てみたいと思います。 石っころは、別な声も聞いてみたいはず・・・のように思います。
価値は結局、人間の側にあるという平凡な意見です。ただし、価値は労働に還元できるとか、そういう話を始めるとややこしくなるので、ここではしません。どっちかというと曖昧な話です。 >月の石の価値は地球に持ち帰ってから生まれたようです。 ではないと思います。持ち帰る前から、月の石の価値は決まっていました。価値があるので、国家予算規模の巨費を投じて取りに行った、が実情に思えます。当時は冷戦時代だったので価値の中には、「石そのものの価値」のほかに、当然政治的価値もあったはずです。大阪万博に月の石がやって来たのは、そういう意図も込みだったと思います。 「石そのものの価値」を問われている気がしますが、自分には定義できないので、曖昧に例を引いてみます。 アポロ計画の伝で行くと、「庭のどこぞに、こんな木と石を、こんな風に配置してみたい」という思いがあるから、造園業も成り立つんだと思います。そうすると(石も含む)造園業の価値は、デザイン的価値に還元できるの?という話になりますが、予告通り、ここには突っ込みません。 でも石収集家の存在は、ご存知ですよね?。この人達の趣味は、造園のデザイン的価値の延長にあるように思えますが、はたから覗くと、石そのものに価値を見い出しているようにしか見えません。金銭が絡むオークションだってありそうな気がするのですが、どうなのですか?。 同様に、月の石収集家だって可能なはずです。というか、いるはずです。現物を収集できないので思いはあっても、収集家にはなれませんが、月にホテルが建つような時代になれば、現実味が出てきます。このとき、宇宙飛行士が蹴飛ばした石っころには、恐ろしい高値が付きそうです。この高値は、月にホテルが建つような時代になったから生まれたのではないと、自分は思います。蹴っ飛ばした瞬間に生まれました。 じつは熱狂的な月の石収集家に相当する集団は、現実にいます。NASAの周辺です。アポロ計画は、たった一つ月の石を持ち帰ったわけじゃないです。けっこう沢山持ち帰ってます。それから半世紀ですが、半世紀の間、地道に月の石の研究が続けられ、学術的価値を出しています。審美的価値とはちょっと違いますけど、その価値は、持ち帰る前から決まっていました。こういう人達は、アポロ計画が再開されたら、狂喜乱舞するはずです。 曖昧な話ですが・・・。
お礼
曖昧を ありがとうございました。 とあるホテルの屋上庭園には、一億円以上もする石が置かれています(事実です) 石の値打ちもこれくらいになると大変なものですが 造園の審美的価値からみれば、さほどでもありません。 希少価値によるものです。 実は造園における材料そのものの価値は大したものではないのです。 いわゆる付加価値の面が大きいのです。 様々な材料を組み合わせたデザインの良さの価値です。 このデザインの価値が分からない人は 材料である石や木の値段ばかりを気にします。 材料の価値が庭園の価値だと思っている人の庭は、だいたい成金趣味の庭で終わってしまいます。 お金が す べ て だ ・・・という悲痛な叫びが聞こえてくるような感じです。 世の中の お金 お金 ・・・・・ 小さい石っころはどう聞いているのでしょう? お金はいいから、月に戻してくれ・・・ 落ち着ける場所に戻してくれ・・・ なんて呟いているかもしれませんね。
補足
このへんでちょっと整理しておきたいと思います。 皆さんの大部分のご意見では 月にある石には、経済的価値は無い でも、地球に持ち帰った小石には相応の価値がある といったものでした。 これらのご意見は、きわめて冷静で客観的なものだと思います。 私だけがまだ少し、石っころの夢を捨てきれないでいるようです。 月面を歩いた宇宙飛行士の「路傍の石」の価値・・・ それは、希薄な存在の物の価値でもあるようです。 人間にとっての価値観からみれば、無いように見えるのも当然ですが 自然や宇宙の有りようから見れば、無いとは言い切れないようにも思います。 雑草に価値が無い、とは言い切れないように 石っころにも価値が無い、とは言い切れない感じもします。 月にある石も同じではないでしょうか? 宇宙の中の石っころ・・・ これをどう見るか 皆さんの経済的価値観はだいたい分かりましたので 残りの部分というか 希薄な存在の物の価値観、といった事についてのご意見をいただきたいと思います。 よろしくお願いします。
月にあれば価値は無いでしょう。 月の石が価値があるのはそれを持ってくるのにどれだけの経費がかかったかって事です。 また地球上には極少数しか無いという希少性… 逆に言えば月に行けた人だけが持ってこれた物ですから… 月に行ける人であれば月の石に価値は無いでしょう。 ダイヤモンドだってそこらにゴロゴロしていれば価値は綺麗な石ころ程度でしかありません。 誰もが月に気軽に行けるようになれば誰でも手に出来る物です。 そのうちアポロ着陸記念館でお土産として売られるでしょうねぇ。
お礼
そうですね。 月への旅行のお土産に石っころを・・・ なんて時代がくるかもしれませんね。 アポロで月に行ったときの写真で印象に残っている一枚に 大きな石の傍らに宇宙飛行士が写っている写真があります。 宇宙の暗闇を背景として写っている写真です。 その大きな石は大変形の良い石で、なんというか そこにあることが不思議な感じさえするものです。 小さい石っころとは違う大きな存在感があります。 今に月に行けるようになれば きっと記念写真を撮る名所になるかもしれません。 「アポロ石」なんて名前が付くかもしれませんね(笑) 月の石っころを持ち帰って この小石は、あの「アポロ石」と同じなんだ・・・と思えば やはり大切にすると思います。 月にある大きな石の子供みたいなやつ・・・ かわいい石っころじゃないですか お金の価値はなくても大事にすると思います。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
価値は需要と供給のバランスで決まるというのが経済学の基本ですから、月の石も、隕石も同じですね。 欲しい人がたくさんいて、量が少ないものは価値が高いということですね。 月の石も隕石も量が少ないので価値が高いということですね。大量にあると、そこらへんの石や水と同じように価値は限りなく低くなるということです。 月の石は月に行けば価値はなくなりますね。ダイヤモンドは地球では希少な石ですし女性の憧れの対象ですから価値が高いですが、ダイヤでできた星に行けば価値はなくなりますね。そんなものですね。
お礼
>ダイヤでできた星・・・ すごい重力なんでしょうね そのへんの石っころは、皆なダイヤモンド・・・ 月の石っころは 地球の石っころとさほど変わらない 欲しい人がいなければ価値は無い のでしょうね。 どう見ても、ダイヤモンドには見えない石っころ でも時には ダイヤモンドよりも素晴らしく見える時がある・・・ ロマンチック過ぎますかね・・・。
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
価値なんていう概念は人間が造った 概念です。 だから価値の有無、どの程度の価値があるか、 なんてのは人間の都合で決定されます。 この場合は経済的価値のことでしょうか。 経済的価値には使用価値、利用価値、交換価値 処分価値、などがありますが、最も重要なのは いくらで売れるか、という価値です。 現在月の上にある石を買おうとする人は おそらく存在しないでしょう。 買おうという需要が無いのですから、価値は 無い、ということになります。
お礼
経済的な価値観から見ればごもっともです。 利用できないものは価値も値打ちも無い 当たり前ですね。 ただし >人間の都合で決定・・・ という独善的な価値観だけで、物を見ていいのかどうか 疑問はありますね。
- 雪中庵(@psytex)
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100mを9秒9で走る事に、世界中が価値を見出した 時もあるが、今さら10秒を切ってもあまり騒がれない。 早く走る事によって、何か世の中のためになる訳では ないが、一番早い人は称えられる。 逆に山ほど月の石を持って帰れば、価値はなくなる。
お礼
目新しいものに価値がある・・・ となるとこの場合 そのものよりも、その情報の新鮮さに価値がある・・・となりやすい 価値観の崩壊とは、いとも簡単なようですね。
- MOG777
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難しい質問ですね。 現在の月にある石は活用や管理することができませんから、使用価値はゼロといえます。 ただ、かって月の土地を売りに出した会社が話題になったことがあり ということは話の種やロマンチックさの種としての価値はあったわけです。 これは経済学の分野に質問を投げた方がよろしいのでは?
お礼
う~ん と そのへんにある小石を石っころ・・・と言い そのへんに生える草を雑草・・・と言う 石っころも雑草も価値がない・・・かどうか 気が付かないだけ・・・なのか 地球にある石っころも 月にある石っころも 火星にある石っころも 価値がないのか? 価値がないものは無くてもいいのか? 無くていいとは思えない では価値があるのか? 「雑草という草は無い」 からすれば 「石っころという石は無い」 そのへんかな・・・?
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お礼
>撞着語法・・・ 自己矛盾を抱えた言葉の中での「遊び」だと仰りたいようですね。 それは質問や答えやお礼すべてに対する皮肉にも聞こえてきます。 ですが 多分分かっておいでだと思います。 自己矛盾のない心も言葉も存在しないと 矛盾をさらけ出して、矛盾のないものを求める説明が必要だと、も であるのならば 価値のないとされているものに価値を見出そうとすることへの説明が必要のようです・・・。 質問の内容をもう一度振り返ってみてみたいと思います。 石っころの位置は月面です。 アポロ計画によって月に送りこまれた宇宙飛行士が 重力の少ない月面を跳ねるようにして歩いた場所です。 宇宙飛行士はその時、知らず知らずのうちに 石っころを蹴飛ばしながら歩いていたはずです。 生命維持装置を付けた宇宙服は、億以上もした代物です。 巨億の費用をかけてたどりついた月の世界は 岩石と砂だけの荒涼とした世界でした。 宇宙飛行士は足元にある小石には、たぶん始めは何の価値も見いだせなかったと思います。 それは地球に持ち帰ってこそ価値がある、と思っていたはずです。 ただの石でも、巨億の費用の代償が伴った希少価値があるからです。 何のために月に来たのだろう? 石っころを拾いに来たのだろうか? と思ったかもしれません。 石っころを拾いながら 地球を振り返って見たときにどう思ったでしょう。 宇宙の闇に浮かぶ青い地球はどう見えたでしょう。 青い地球が、石っころに見えたかもしれない 青い地球という石っころ あの小さな青い石っころから自分は来たのだ・・・ では、この足元にある小石は一体何なのだろう・・・? 分からない・・・? 宇宙の中の存在に対する価値付けとは・・・分からない? 分かっているのは 青い地球が自分にとって、かけがえのない絶対的な価値があるという事 この月の石を地球に持って帰れば、間違いなく価値を持つという事 そして生まれてくる疑問の数々・・・ この石の本当の価値とは、地球に持って帰った価値とは違うのではないだろうか?という疑問 この石を地球に持って帰ることは本当に正しいことなのだろうか?という疑問 宇宙という神の創造に対する価値を、人間は定めることが出来るのかどうか? 人間の持つ経済的価値観は、宇宙という神の創造に触れてもなお崩れないものなのかどうか? 月の石っころを蹴飛ばす、と、拾うとでは違いますが、宇宙飛行士の月面活動において接した小石、と解釈してください。 以上が質問の内容における疑問点の再確認です。 くどくどと言わない方がいいと思いました。 でもその必要もあったかもしれません。 その意味ではお礼申し上げます。 できれば皮肉だけではないお答えを頂きたいものです。 それでは。
補足
確かな答えは得られませんでしたが、このへんで締め切りたいと思います。 感想を込めてまとめてみました。 月に行くという体験の無い私達にとって 今、地球にある月の石の価値とは 人類が月に行ったという冒険の偉業の価値です。 石そのものには価値が無い・・・それが普通の見方のようです。 また、その見方の延長で、現在の月にある石にも価値は無い 一般的にはそんなところだと思います。 しかし、私は長らく自然に接してきたせいでしょうか そうした見方には、疑問を抱いてしまいます。 「宇宙の本質への直感という、意識外の情報の働きかけを人は受けてしまう時がある」 ように思います。 小石が、ただの石っころではなく見えてしまう時があるように思います。 月にある石も、きっとそうではないかと思いました。 たとえ小さくても、宇宙の中での存在の価値を決めることはできない・・・そんなふうに思います。 意識外の情報がもたらされる事によって、すでにある価値観が揺らいでしまう それは私だけに起きていることではない・・・ できればそう思いたいです。 皆さんありがとうございました。