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三国志についての観点
三国志を読んでて一番に疑問に思うのですが、 何故劉備は荊州を関羽に任せたのでしょうか? 荊州は一番の要だったはずですよね。 一番の部下だからという理由なら、漢中に張飛ではなく 魏延を置いた理由が分かりません。 漢中も大事な前線なので二番目の部下である張飛に任せるはずです(荊州を関羽に任せたから) どう思われますか?
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- jyuni
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一般的に蜀には都督になれるような 人物が少なかったから 関羽の場合は流れでなったと 考えています。 諸葛亮が益州に行ったのがきっかけで 関羽は一人残されたような感じと見ていいのではないのでしょうか? 性格を知りながらも関羽に任せていたことによって (やはりあの傲慢な性格により)自分の首を絞める結果になっている始末ですので やはり都督ではなく 将軍の器だったと思われます。(適任者としては 恐らく 法正がよかったと自分では考えています) それから魏延ですが 演技ベースで語ってらっしゃる方ではわからないですが 正史ではかなり有能な人物でした。 劉備が魏延に対して 漢中の守りについて聞いたところ 魏延は「もし曹操が天下の兵を率いて攻めて来たならば、大王のためにこれを防ぎましょう。副将が10万の兵で攻めてきたなら、これを飲み込みましょう」と言って やはりいつも劉備の期待に答えていたからではないでしょうか? 間違いなく言えることは関羽も張飛も性格には問題があって都督向きではなかったと思います(劉備も承知だったはずです 特に張飛の場合は日ごろ注意もしていたとのことですし)
- mimirin1110
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他の回答者の方も言われてますが、荊州は孔明が守る予定でした。入蜀と平定は「ほう統」(字が化ける・・・)の役目でしたが、彼が急襲に遭い戦死してしまったので、孔明が代わって指揮を取らざるを得なくなり、残った関羽が荊州を守ることになった・・・と。あのメンバーで孔明を除くと、荊州防衛にうってつけなのは関羽だったということです。もしかしたら趙雲もうまくやってくれたのかもしれないけど、歴史に「もしも」はないですし・・・(泣) 張飛については、夷陵の戦いでその器量は知れてるでしょう。武将としては一級でも、統率者としてはあるいは呂布以下かもしれません。 関係ないかもしれませんが、ゲームでも、張飛の統率力は低いです。多分魏延の方が高い。後世の一般市民の見解においてもそういうことだということです。答えになってませんが。
- maris_stella
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横山光輝の「三国志」のコミックを見ていましたが、やはり歴史的事実からの逸脱というか、読者に勘違いを誘導するような絵柄や展開があります。 例えば、諸葛亮孔明という歴史的に非常に有名な人物について、横山のコミックだけでなく、一般に流布されているイメージとして、普通の身体付きの男で、知謀の軍師であるという像があります。孔明は実在した歴史的人物であり、実際の孔明は、身長1メートル80か、それ以上の偉丈夫であったのです。しかし、関羽や張飛の大男振りを誇張するため、孔明は中肉中背の男として描かれています。 >何故劉備は荊州を関羽に任せたのでしょうか? 色々な背景事情がありますが、基本的に、後の質問にも関係するのですが、関羽は、荊州の「太守」として、荊州という地域(一つの国とも言えます)の経営と守備を委任されたのです。経営とは、つまり「政治」のことで、治安を維持し、領土を保守し、人民の生活を保証し、税収を獲得し、また優れた人材があれば、文官・武官として登用するような仕事を委任されたのです。 しかし、太守は通常、「軍事権」も持っており、叛乱の鎮圧や、侵略に対し、軍事の将軍として先頭に立って闘うと共に、軍略の才能も必要とされました。 「将軍」というものは、三国志の時代であれば(あるいは、中国の歴史では、一般にどの時代であっても)、単に身体が大きく、力が強く、戦闘で武勲を上げればよいというものではないのです。無論、それらは前提としてありましたが、それ以上に、「軍略の才能・知謀」が必要とされました。 張飛は、将軍であり、短絡的で一本気で、猪突猛進型の将軍のように見えますが、将軍である限りは、個人として戦闘しても恐るべき豪傑・戦士であると同時に、軍隊を指揮して軍略を立て、部下の隊長や兵士をいかに操って戦闘をするか、その能力にも秀でた人物であったのです(ここの処を、単純に、張飛は思慮がない人物という錯覚が流布しています)。 張飛はともかく、関羽を荊州の太守に置いたのは、一つに、蜀漢は領土が小さく、人材も少なく、国の生命線とも言える地域を、見事に経営し守備するための人材としては、関羽しかいなかったということがあるのです。つまり、関羽は、「政治的能力」も持っていたのです。「太守」に必要な能力は、「政治能力+軍事将軍の能力」でした。 (単なる、もの凄く戦闘能力の高い豪傑というだけなら、幾ら出世しても、百人の兵の隊長が上限でしょう。千人、五千人の兵を指揮して、孔明が計画した軍略のなかで重要な役割を、他の将軍たちとの連携で戦うためには、相当な知謀や思慮分別が必要になります。孔明は、十万人以上の兵を指揮できる将軍ですし、関羽なら五万人程度、張飛は、一万人ぐらいが上限だということです。何万人もの兵を指揮できる将軍ともなれば、政治家の能力も備えているのです)。 >一番の部下だからという理由なら、漢中に張飛ではなく >魏延を置いた理由が分かりません。 関羽を荊州に置いたのは、「一番の部下」だったからではなく、関羽が軍事将軍としても卓越しているだけでなく、政治家の能力も持っていたからです。 魏延を漢中の太守としたのは、一つに、蜀漢には人材が乏しかったことと、魏延には、軍事将軍としての能力だけでなく、政治家としての能力もあったからです。(しかし、蜀漢に対する「忠誠心」や「節操」はというと、疑わしい処があり、孔明は、魏延が自分の死後、叛乱を起こし、蜀漢を乗っ取ろうとするだろうという疑念を抱いています。それは、魏延が政治的指導者としての能力もあったので、単なる軍事将軍の叛乱では済まないからです)。 張飛には、軍事将軍としての才能は十分にあったが、政治的才能には不安があったので、重要な領土の守備経営者、つまり「太守」にはできなかったのです。 性格的に、関羽は、身分の低い者に対する配慮が深く、相手の身分が高いからと言って、すりよるというようなことはしません。また学問もあり、礼儀正しい人物でした。それに対し、張飛は、相手の身分に応じて態度が変化し、身分の高い者は、相応に認めるが、身分の低い兵士や一般人民は軽視し、理不尽なことを平気でするというような処がありました。張飛も軍事将軍である以上、「礼儀」は心得ていたのですが、それは身分の高い者に対してしか機能しなかったのです。 関羽は冷静沈着な指導者としての資質を持っていましたが、張飛は人間関係で単純な処があり、感情的で、視野が狭かったとも言えます。そして、そのような張飛の性格は、酒に酔ったりした場合、将軍としての思慮を逸脱して露呈してしまったということがあります。 張飛に政治的才能が皆無であったとは言えませんが、蜀漢は国土が狭く、人材が足りず、荊州にしろ、漢中にせよ、「人心掌握」というのが非常に重要であったのです。太守の統治に人民が不満を持っては、後がない・余裕のない蜀漢としては、致命的であったのです。 人民を大切にしなければならないという条件では、酒に酔って、腹が立ったからと言って、部下を殴ったり蹴ったりしたり、人民に暴力を揮うような太守では、困る訳で、漢中の太守には、張飛ではなく、より慎重で賢明な魏延を任命したということです。 ------------------------------ 諸葛亮孔明については、政治家としての面と、軍事将軍としての二つの面があり、古来、政治家としての孔明が、第一級であったということには、誰も異論がありません。しかし、軍事将軍・軍略家としての孔明については、第一級とは言えないという評価があります。 有名なのは、出師の表を出して、魏征討に孔明は乗り出すのですが、魏の内部事情で、長安の守備が手薄になったことが一度だけありました。このとき、魏延は、(失敗の危険があるとしても)急襲して長安を奪い、蜀漢の領土を魏の北部にまで拡大する好機だと孔明に進言します。孔明もそのことは分かっていたのですが、「政治家は、一か八かの賭には出ない」のです。しかし、戦争は、「賭」をしなければならない局面があり、これを逃すと、敗北となる状況があるのです。 孔明は魏延の進言を却下します。あとから見れば、この局面では、魏延の方が、軍事将軍として(また同時に、戦時下の政治家としても)、孔明よりも優れた判断を行っていたのです。これより後には、二度とこのようなチャンスは訪れなかったのです。こうして孔明は、度重なる遠征に疲れて病死し、蜀漢は、二代で消滅します。 (「三国鼎立」という状態は、魏・呉・蜀漢の三国の国力が釣り合っていたような感じを与えます。しかし実状は、国力や有効領土の広さ、国民の規模などだと、魏以外の国に好意的に見ても、魏が中国全体の70%以上を占め、呉が20%ほど、そして蜀漢が10%程度です。蜀漢としては、劉備が集めた有能な人材がまだ残っていた段階で、乾坤一擲の勝負を魏に仕掛けないと、結局「じり貧」で、結果的には魏(その後継としての晉)に敗退することは時間の問題だったのですが、孔明は、「賭」に出ることができなかったのです)。
- stormtrooper
- ベストアンサー率0% (0/2)
1.劉備が関羽に荊州を任せた理由 劉備が蜀取りを始めて入蜀したときは 荊州に諸葛亮、関羽、張飛、趙雲などが残っていましたが、 蜀取りの終盤になると関羽をのぞいてみな蜀に入っています。 新しく手に入れた益州の経営には、やはり人手が必要だったのかもしれません。 劉備は益州の人にとってはよそ者の侵略者ですから。 荊州は劉備陣営の領土となって多少の時間も経っていたので、 関羽に経営を任せても問題はないと思っていたのかもしれません。 荊州の都督が関羽だった(しかいなかった)というのは、 やはり蜀の人材不足をもの語っているような感じがします。 2.漢中に魏延を置いた理由。 当時の蜀の人も張飛が漢中の防衛に当たると思っていたらしく、 蜀書には、「人々の評判では必ず張飛が任用されるだろうといわれ、 張飛自信もまた内心そうだろうと自認していた。 先主(劉備)は意外にも魏延を抜擢して督漢中・鎮遠将軍に任命し、 漢中太守を兼務させたので、一軍みな驚いた」 とあります。 張飛は身分の低いものに厳しい性格を持っていて、 結局は部下の裏切りに合うことになりました。 一方魏延は士卒をよく養成したとあります。 戦闘の指揮だけならともかく、 政治の要素も含んだ前線の指揮官となると魏延の方が適任だったのかもしれません。 魏延は漢中を守り通しているので、 劉備のこの人事は結果的に成功だったと言えると思います。 それからこの魏延ですが、実はあの趙雲よりも官爵は上だったりします。 最期が最期だったので、演義などではひどい扱いを受けていますが。
お礼
蜀の人材不足は仰るとおりですね。魏延の人事も成功だったと思います。魏延は五虎将軍に入らなかったけれど言われるとおり優秀な将軍です。人材不足は分かるのですが、それなら魏延と黄忠に任せる(地元なので)べきでは?と思ったもので。
- tiaki7
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鳳統の戦死が大きかったのでは? と言うか期待はずれか?鳳統の穴埋めができなかった。 それまでの予定では孔明こそ荊州に残り経営する 張飛と関羽が孔明を助ける。だったはずじゃ?
お礼
そうですね、鳳統が生きてれば彼が・・・というのが一般の意見ですよね?
- wildcat
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三国志を読む限りでは張飛将軍は、蛮勇の士で思慮分別に欠けていたように見えます。 部下に乱暴を働き、恨みをかって寝首を欠かれたというエピソードが本当なら、1軍の将としても失格なのではないでしょうか。 また、いろんな人事はこの時代なら諸葛孔明の進言によるもので劉備自身の意見はあまり反映させないようにしていたかもしれませんね。
- disease
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張飛は忠誠心以外は戦場でしか活躍できない男です。 統治能力は魏延にも劣るということでしょう。 あと張飛は近くにボディガードとして置いておきたいという劉備の意思もあったかもしれません。
お礼
そうですね、趙雲なら・・・そう思います。もしかして皆さんゲームの先入観が強いのでは(すいません)