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漢文の置き字の質問
勿 傷 吾 仁 也(私の仁を傷つけてはいけない)→吾が仁を傷なふ勿かれ 朽 木 不 可 彫 也 (朽ちた木は彫ることは出来ない)→朽木彫るべからざるなり この2つ、前者の「也」は置き字とみなして書き下しのときに表示しないらしいですが なぜ後者も前者とにたような形をした文なのに「也」を表示するのでしょうか 恐らく「断定」の意味だとは思いますが、どうやってこれは断定、でこれは違うとみるのですか 前者の後者の違いをおしえてください
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「也」は仰るとおり断定を表し、例示された文の「也」は両方断定です。 「勿傷吾仁也」が「吾が仁を傷なふ勿かれ」になるのは、1番目の方が書かれているように、 古文で「なかれなり」という言い方をしないから、それだけです。 漢文訓読は、古代中国の文語を、訓読調独特のものもありますが、古文にすることで、 これは古文の言い方の問題なのです。 書き下し文の段階では、「吾ガ仁ヲ傷ナフ勿カレ」とするしかありませんが、現代語訳では、 原文にある「也」の断定を反映させて、「私の仁を傷つけてはいけない“ぞ”」等と訳したほうが、 原意により近くなります。 ついでに書きますと、「朽木彫不可彫也」も、この部分だけを取り出しているのでそのように 読み下してありますが、論語では、「朽木ハ彫ルベカラズ、糞土(ふんど)ノ牆(かき)ハ杇(ぬ)ル ベカラズ」のように、「朽木」と「糞土ノ牆」を取り立てて言うために「ハ」を付け、実はこれは、 孔子がある弟子のことで怒っている言葉なので、「ベカラズ」のほうが古文としては強く言っている 感じがして、もたついた感じにならないからかと思うのですが、「ナリ」を付けずに読んでいるものが 多いように思います。 私が持っている岩波文庫の『論語』も、そのように読み下しています。 勿論、「朽木、彫ルベカラザルナリ、糞土ノ牆、杇ルベカラザルナリ」等でも間違いではありません。
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- TANUHACHI
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前回「読み下しには一つの正解以外のものがないとはいえない」とのお話しをさせていただきましたが、どうも判りにくかったようですね。 例題Iの読み下しですが「吾が仁を傷(そこ)なう勿かれ」とも「吾れ仁を傷つけること勿きなり」と読むことも可能です。 確かに「勿」は単独の文字として「勿か・れ」と読みます。そこから「~するな」「~してはならない」との意味を示す構文に使用されます。問題はこの文字が「どのようなシチュエーションで使われるか」との「文全体との関係」「その文章の性格」です。もしその文章が法令のような「上意下達」「命令伝達」だったなら「なかれ」と読み下すことが自然でしょう。しかしその文章が「それ以外」だったなら、「なきなり」と読み下しても支障はないでしょう。 そしてもう一つ。「勿 傷 吾 仁 也」も「朽 木 不 可 彫 也」も何らかの文章の一節です。この五文字の言葉と六文字の言葉だけで完結しているとは考えられません。それぞれの言葉に照応する「対句」があるはずです。 「対句」は中国の魏晋南北朝頃に生み出され六朝時代から唐に掛けて見られる文章表現形式の一つで、2つ以上の語呂の合う句を対照的に用いる技法です。実際にこうした対句を用いた文学作品は数多くみられ『平家物語』の冒頭「祇園精舎~」が有名なものとして知られています。実際に言葉に出して読んでみると、目で見る文字以上に言葉のリズム感を味わうことができます。有名な韓愈の『雑説』の一節を例として引用します。 原文:「世有伯楽、然後有千里馬。千里馬常有。而伯楽不常有。」 読み下し:「世に伯楽ありて然る後に千里の馬あり。千里の馬は 常にはあれど伯楽常にはあらず」 僕が「吾れ仁を傷つけること勿きなり」と読んだのはこの文章に対応する言葉を想像したからです。「汝れ 我れを 傷つくると雖も」などがあれば文意が成り立つことになります。逆に疑問を感じたのは「仁を傷つけてはいけない」との文章の「仁」の部分です。「儒教概念」としての「仁」を傷つけるとはどのような意味なのでしょうか?。もちろん「仁」=「人」として音が共通していることから「相手に身体的・精神的に損傷を負わせてはならない」との解釈することも自然です。でもその場合は「吾れ 仁(=人)を 傷(=損)なふこと なし」などともなるはずです。それは先にお話しした「勿」の文字が「命令を表す」性質の文字だからです。となれば「勿 傷 吾 仁 也」の文意は「あんたが私に対して危害を加えることは許されない」となります。 そもこの一句の文章の主語をどの語と理解するかでも解釈は異なってきます。「勿傷吾仁也」の前に「雖傷汝我」があればこの「吾」と「仁」の関係はどうなるか。「吾」は主語となり「仁」は目的語となる可能性もあります。訳文の「私の仁」がどの様なことを表現しているのか、はっきり言って僕はわかりません。 質問者様はどうしても「パターンとして憶えたい」との気持ちがおありのようですが、それは乱暴な話です。漢文も現代文や古文同様「文章全体」の理解が大切です。文章を読みながら文脈を追い求めていく以外に方法はありません。
中国語で断定か否かという問題ではなく、日本語として読む時に、前者は「勿かれ」が命令形なので「なり」が付けられない(「なかれなり」とはいわない)から置き字として扱う、というだけのことでしょう。