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業平橋はまだありますが、東武の駅名が替わりました
ここ向島に無粋な(失礼をお詫びします)構築物ができ、東武鉄道の駅名も業平橋からカタカナ名に改称したとのこと。 ところで、在原の業平の「なにし おえば いざこと問わん 都鳥 わが思う人ありやなしや」の地について教えてください。 1. 業平朝臣が川に面した岸辺の地は、業平橋の橋場でしょうか?言問橋の橋場でしょうか? 2. その岸辺は向こうの隅田川に立っていたのでしょうか?それとも花川戸など浅草側であったのでしょうか?
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こんにちは。 bungetsuです。 まず、「業平橋」と呼ばれる場所は東京では2箇所あるようですね。 大川に架かる「吾妻橋」(安永の頃は「東橋(あずまばし)」と大川から分流させた大横川に架かる「業平橋」。 大横川に架かる橋は墨田区の吾妻橋3丁目から横川1丁目に架かる橋です。 業平は、事実は解りませんが「伊勢物語」の7段あたりから、 「昔、男がいた。京で生活していく気力も失せ果てた末に東国に行った・・・」 とあり、 さらに、9段では、 「更にどんどん行くと、武蔵の国と下総の国との間に、かなり大きな川がある。それを隅田川という。その川のほとりに群れをなして、京に思いをはせれば、限りなく遠くに来てしまったのだなあと悲しみを分かちあっていると、渡し守が、「早く舟に乗れ。日も暮れてしまう」と言うので、乗って渡ろうとするのだが、皆わびしくて辛い思いである」 とでています。 http://teppou13.fc2web.com/hana/narihira/ise_story.html >>1. 業平朝臣が川に面した岸辺の地は、業平橋の橋場でしょうか?言問橋の橋場でしょうか? これはあくまでも私見ですが、浅草寺の開基が大化元年(645)というところからして、おそらく人の流れも浅草寺参りが古くからあったと思います。 従って、現在の吾妻橋の付近に舟の渡し場も当然あったのではないでしょうか。 伊勢物語の第9段に出てくる、 渡し守が「早く舟に乗れ。日が暮れてしまう」 と言っていることからすれば、吾妻橋(業平橋)の渡し場だったと推測いたします。 >> 2. その岸辺は向こうの隅田川に立っていたのでしょうか?それとも花川戸など浅草側であったのでしょうか? 前記をそのまま推測すると、業平は大川端でしばし風景に見とれていて、船頭に叱られた・・・との解釈から、浅草側で詠んだ可能性の方が高いと思われます。 回答になっているでしょうか・・・?
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- ysk26
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伊勢物語には「すみだ川のほとり」としか書かれておらず(川を渡る前なので右岸でしょうけど),古今集の詞書にも他の文献にもそれ以上の情報は書かれていません。 よって,場所を特定することは不可能です。 (勝手な説はいくつかあるみたいですがよく知りません) そもそも隅田川の流路が当時と現在とでは異なります。 さらにいえば,業平が実際に東下りをしたのかどうかも怪しいもので,京にいながらバーチャルの世界でストーリーを作りあげ歌を詠んだ可能性もあります。 王朝和歌の世界では,そういう例はごく普通にありますので。 いずれにしても,くだらないカタカナ語に放逐されて伝統的な地名がまた一つ消えていくのは嘆かわしいことですね。
お礼
知水博物館や東武鉄道、或いは墨田区の学芸員の方々にお伺いしても、やはり隅田川は当時とは流れが変わっているようですね。 そして無論今の、荒川方水路や綾瀬川もあの形ではなかった。むしろ隅田川とは北区あたりで分岐させ、掘削したのは昭和とか。 小2で曽っての湿地帯の小菅近くに移りましたが、掘削した用具や機械、そして使った材料も土手にはたくさん残っていました。 ですから今の現況での位置を比定しても意味はないかもしれませんね。 王朝のバーチャル文化もありうるとはまことに、そうですね。 地名は私は大事です。いろんなところでつまんない地名になっていて。高層建築も高速道路も私は憎らしい。 仕方ないのでしょうかね。 ほんとうに有り難う御座いました。一つの見方を教わりましたが、そもそもは業平橋と言問橋とがあるのが、どうも問題でして。 もう少し、開いておきます。
お礼
有り難う御座います。BUNGETSU さま 昨日は40数年勤務した大学図書館の同僚達と根津あたりのお江戸を偲んで朝から夜間まで留守にして、ご回答を拝読する事が出来ませんでした。 今回もまた浅学の私に初学の事をたくさん内容としたご回答でとても嬉しいです。 ☆【「業平橋」と呼ばれる場所は東京では2箇所あるようですね。】 (1)大川に架かる「吾妻橋」(安永の頃は「東橋(あずまばし)」、そして (2)大川から分流させた大横川に架かる「業平橋」。 ★昔は「吾妻橋、(安永の頃は「東橋(あずまばし)」も業平橋と呼称していたのですか。 そして「吾妻橋」と「東橋」という字表現があったのですね。 東武で浅草から隅田川を渡り、業平橋駅の線路沿いに隅田川から支流が出ていますね。 それが北十間川と横十間川という表示になっていますね。 この、現在の業平橋のあたりに京の都をでて東国にきた朝臣が佇んだというより、 やはり大川のほとりでしょうね。 多分、現在の「吾妻橋」のあたりの辺(ほとり)に行き着いたのでしょうね。 http://teppou13.fc2web.com/hana/narihira/ise_story.html はまことに有益なサイトで有り難う御座います。 ご紹介の9段を素直に読むと、仰せのようにやはり今の浅草側から、大川に行き着いていると思うのが、自然のような気がします。 私も何度となく業平から浅草に電車でも自転車でも行き来して、どうしても吾妻橋であろうと思ってはいたのですが。 でもこれは私の間違いで、大横川の業平橋か、言問橋なのかなぁと考えていましたが、やはり東橋, 吾妻橋でよかったのでしょうね。 ★浅草寺の開基大化元年(645)は傍証であっても、船頭の“せかし”とともに非常に説得性のある事項だと存じます。 つまりそれから考えてもやはり、吾妻橋となっているあたりの雷門を出た大川へり、浅草側に軍配ではないでしょうか。 更にバーチャルという受け取り方もあるとのことですが、奥のほそ道にもそういう解説や芭蕉自身の正体隠密説を語る方もおられますね。 しかし、要するに大きな事柄はともかく付随している細かい事情は時に文学的編集がなされて当然ですので、私自身はバーチャル解説解釈に価値性を認められません。 司直の証拠とされる必要などは微塵もない次元のことですものね。 有り難う御座いました。