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なぜ日本で哲学が人気があるのか
「町の小さな書店でカントの本が置いてあるのは日本くらいのものだ・・」という記事を読みました。 どうも、哲学は外国に比べ日本で人気があるということらしいのですが、なぜなのかお解りになる方教えてください。
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カントの本があるから哲学に関心が高いということにはならんと思いますが、哲学のもたれているイメージとして、ストイックさなどがあるんじゃないかなと。 哲学者はキレ者だとか、世俗的でないとか、一風違っているとか、寡黙だとか。 こういうのは、ストイックさに集約しえるんじゃないかと思います。いくらか端数は出ますが。 黙ってなんちゃら、のように、黙ることの美徳感も、日本人を意識付けている有名なところですし。 黙るところの美徳というよりも、余計なことを言わない。余計なものを付けない。 茶道なんかそうですね。日本で旺盛な武道もそうですね。 合理的、しかも、それと美意識を密接に関係付けることが得意な体質を、日本人は養ってきており、それをもって生きているともいえます。 西洋哲学というのはどこか、日本人のもつそういう美意識で捉えやすいのでしょう。 合理性と美や、探究心が合致した思考は、芸術的な発想、精緻な技術、そういうものを生み出し、工業と芸術がフュージョンした近代にも、日本風土は見事にマッチします。 近代以前に、そういう近代精神的な性質を、日本人(日本人だけでなく)は養ってきていたのではないでしょうか。 近代、モダニズムと言うのは、いつも、時代の転化期に現れるロック(ロックは広義である)の一つのようなものと思えるのですが、人々は、民族としての歴史のなかで、そのロックの潮流を何度も体験してきていることで、その風土を養ってきたのでしょう。 ただ、変化ばかり追って、その変化を目立ったものにしたり、壮大なものにし、気をとられたりすると、その民族や集団に蔓延する空気は、権力的になっていきます。 目立つと言うことは、そういうことです。 目立つとこと、目立たないところに落差、凹凸ができる。自然が目立ってしまうような現代は、そいう凹凸が激しい。人為が目立った近代と、そういう意味では変わってない。目立つものを常に仕立て上げている。 逆に、些細なことや、見えないことほどに目配せが行き届くようになると、その集団は、民族やグループとしては、泰平に入るということになる。落差が無くなり、円くなる。 どちらが善いとはいわないのが普通だが、普通ではないので言ってしまうと、円い方が善い。 偉人賢人偉業快挙が目立たなくなるような風土は、平和だと言うことでしょう。 この世で、最も目立たないものが、注目されて居無いもの(発見されて居無いような未知にこそあると限ってしまうのではなく、既に見えているはずのもののうちにもあるもの)が、この世の希求です。目的が、家族の安全とか、世界平和とか、人道やエコからヒーロー(理想、夢)、などの諸々の欲求とか、好奇心をくすぐるもの、そんなのは目立ち過ぎて目からはみ出すほど余りある。 だから、欲しがったことは無いけれど、実は、もっとも欲しいものであった。 そんなもんだね。 じぶんとかちょうどいいよね。 特に欲しがったことないし。だけれど、些細なことや、見えないことだね、じぶんは。 快楽でもないし、難問の解でもないね。それ(じぶん)は、欲求の外だね。 日本人のカント好きからこういう話になりましたが、 ご質問が、カント→哲学 の構図(連想)で、日本の小さな本屋にカントがあるのは、日本人が哲学好きだという話。 それはなんでですか?ということで、 回答が、哲学→ストイック の構図(連想)で、ストイックというのは、日本風土で十分に育まれているのではないですか?たびたび訪れたロックにより。 という話。つまり、日本人には、そんなストイックな哲学が、茶道を美しく思うように、敷居の高い、魅力的な気風を感じる。付け加えれば、そんな哲学貴族と、問いや悩みを共有することによって、当人もまた、その気風を帯びることができる。逆に、そういう気風を風土によってあらかじめ持ってしまっているために、古今の哲学者達と同じような問いを持ってしまいやすいということも、逆説ではあるがいえる。哲学がそもそも、日本風土にあるものだと。こういう逆説に触れるためにも、先ほどのロックや近代性の話が意味のある位置を占める。 で、変化ばかり追いかけるのでは、何時までも泰平にはなりませんという、おまけの話。
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- JACO1011
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海外事情がわかりませんので質問の前提自体は正しいと仮定して回答しておりますが、 > だから、(1)在来の共通認識を再認識するため、 > または、(2)新しい共通認識を構築するため、 > 哲学などに対する関心が高まる。 > > うーん。どっちでしょう。 これにつきましては、世間知らずですが、少なくとも私の知る限り(1)のような運動が現在の日本で主流であるとは見受けられません。どう思われますでしょうか。 (2)のような状態というのはどのような社会集団においてもあらゆる時点で見受けられるものです。「近頃の若い奴は常識が無い」とジジババが言う状態が常識になって行くという状態であります。20年も前にはチャパツといえばゾクかヤンキー、不良であることの自己主張でした。宝塚歌劇団の団員でもなければ、不良ではない人が髪を茶色に染めることなんかなかった。会社員がプリーチで営業するなんて考えられませんでした。 日本における問題点というのはそのどっちなのかということではなくて、敗戦後にアメリカに押し付けられた(黒船襲来後という説もありますが)西洋カルチャーを、日本人が自ら納得し選択したものだという体裁になっていることについてのジレンマです。社会的強迫神経症みたいな状態です。 マンガでも昔話でも、敵と戦争になったら敵地まで攻撃しにいって撃破するのが当り前で圧倒的に支持されるのに(桃太郎然り、機動戦士ガンダム然り)、日本は自衛隊だから専守防衛で攻撃には行かないということになっていたり、天皇が「人間宣言した」ということになっていて、それまでの価値体系のけっこう肝になる部分がなし崩し的にタテマエ上は否定されているということです。 これを前提にして何らかの共通認識を構築しようとしても、しっくりこないんです。大多数が納得する常識が構築できない、という問題が大きいと思います。 じゃああらためて、やっぱり軍隊を持つことにしよう、とか、天皇は現人神ということにしよう、と言われても、ああそうですかと納得できるものでもありません。 前提をアケスケにして、つまり現在の日本の国体、法規は、戦争に負けて押し付けられたものであるが、という前提を明らかにた上で、それはそれとして仕方無いし良い部分もあるので受け容れることにするのか、或いは主権国家として改めて他国の介入を許さず一から法令・国体の再構築をするか、国民投票でもして納得した形で一度決めてみるというプロセスが必要なのかもしれません。 主題がどんどん逸れていって申し訳ございません。
お礼
共通認識の構築は、相当のエネルギー(きっかけ?)がないとダメでしょうね。 ただコレを掘り下げることは、有意義でしょうね→書きながら、自信がない。 >主題がどんどん逸れていって いいえ、今回はこのテーマを通じて日本人という枠組みを考えたいということでしたので、大変ありがとうございます。 (最初はその意識は薄かったんですが) お礼遅れて大変失礼致しましたm(__)m 【で、ここをお借りしまして】 締め切ります。 皆様、力のこもった回答ありがとうございました。 再々度読み込まないと、私にはまとめられそうもありませんが、次につながる問いも一杯出来ました→いつになるやら。 ポイントは「きっかけ」「土壌」語っていただいた方夫々に差し上げたいと思います。
「なんで日本人は演歌がすきなのか」 「……イヤ、俺は好きじゃねぇぞ」 「でも演歌好きなのは、日本人くらいなもんだぜ」 「まぁな」 「なんで日本人は演歌がすきなのか」 「だから、そうとは限らねぇだろ!!」 「淡谷のり子は演歌嫌いだったみたいだけどな」 「ああ、そりゃぁそうだろうな」 「『あんな物は日本人の歌じゃないっ!!』って」 「どうでもいいけど、似てねぇな」 「でもさ、日本人って演歌好きなやつ多いじゃん」 「ああ、なんでだろうね」 「演歌ってさ、観念的なんだよ それが日本人に合ってんじゃねぇの?」 西洋の哲学だってさ、大陸側とイギリスのような島国側じゃぁ 不思議と島国の発想は観念的なんだよね」 「なるほど、そうかもな」 「参考になるかな」 「ならねぇだろうな」
お礼
重量級の回答の後に、ああ、いいなあこういうの・・・・と思った私がバカだった。 >演歌ってさ、観念的なんだよ >不思議と島国の発想は観念的なんだよね えー、そうなんですか。 ついていけねーよー。 これも質問しないといけないんでしょうか(-_-;)
- maris_stella
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哲学とは何か。それぞれの時代の社会は文化において、色々な考え方や関心の対象などがあるのです。中国北方文化の龍とか、インド洋の巨大なロック鳥などは、想像の産物ですが、しかし、何故このような象徴を古代の人が考えたのか、それには色々な文化的思索根拠があるのです。 当時の人の思考をよく考えないと理解しにくいのです。また、アナクロニズムに、意味不明なことを延々と伝えるような伝承は、脳が腐っているというか、idiotologia とも言い、プラトンはこういう根拠ない知識を、ドクサ(δοξα)とも呼んだのです。ドクサは臆見とも意志の涎とも言え、正確な知識(「エピステーメー」=真知)を持たない愚者が「実存の決意」なしに選ぶ道だとも言えます。 -------------------------------- 幻想の共同体(例えば、日本の文化社会や INET 偶奇疑似共同体など)においては、何時果てるとも知れぬトリヴィアルの泉、また惑迷でもあり、ノモスの規範の外にあるが故に、言説秩序における夾雑物として、どうしても紛れ込んでしまうものです。それ故、ハイデッガーは、実存の根柢には、「憂慮(Sorge)」があるとも述べました。 そこで、日本での哲学の社会的な位置付けと言うことなら、憂慮も重要ですが、また考え・自問せねばならないこともあるでしょう。 >「町の小さな書店でカントの本が置いてあるのは日本くらいのものだ・・」 哲学とは、驚異から始まるとはアリストテレースの言葉ですが、近世哲学であれば、それはデカルトの懐疑であるということになります。まず、懐疑せねば、哲学カテゴリーでの質問に対する回答としては、不十分だということです。 具体的な水準の話で言えば、まず、「町の小さな書店」に、カントであろうと、プラトンであろうと、デリダであろうと、「哲学書」がどこにでも置かれているというような事態が、本当に日本にあるのか、という疑問があります。質問者の方は、小さな町の書店で、カントの本などが置かれている場面を実際に見られたことがあるのでしょうか(一つの例ではなく、一般化できるほど、多数の実例を経験されたことがあるでしょうか?)。 ないはずだと、わたしは思います。何故かというと、日本の書店の商品販売形態が、「売れる本」を在庫するという原則で運営されているからで、よく観察すれば分かりますが、日本の小型の書店のほとんどは、あるパターンの商品揃えをしていることが分かります。 まず、代表的な月刊誌・週刊誌等があり、次に、新潮や角川が代表する文庫本があり、少年コミック、少女コミックの新刊、そしてベストセラーの小説単行本、あとはビジネス書籍、ハウツー本と、こういう風に品揃えのパターンが決まっています。 現在の書店は、棚に並べる本の「回転速度」が非常に速く、売れない本はすぐに返本され、次々に売れそうな、または販売実績のある本が入荷して、棚を占めます。月に千冊とか、それ以上の新刊がある日本の出版現状では、書店の棚を、出版社が確保するということに、販売の戦略が立てられており、その結果、回転率・利益率の良い、「売れる本」ばかりが、書店の書棚を占めているのです。 -------------------------------- この現状では、「哲学書の類」が、書店の書棚に並ぶという可能性はほぼ皆無なのです。無論、大型の書店に行けば、「岩波書店」コーナーがあったり、人文科学のコーナーがあれば、哲学の本は、そう言った場所に並んでいます。しかし、通常の町の小さな書店では、品揃えは、どれも驚くほど似ており、そこには、カントも含め、哲学書が置かれる余地などないというのが実状です。 しかし、 >「町の小さな書店でカントの本が置いてあるのは日本くらいのものだ・・」 この言表は、現在の書店の状況を考えると合致しませんが、まったくの根拠のない話でもないのです。いまから10年前、いや、20年か、それ以上前であれば、日本の小さな町の書店で、このような状態が存在したとも言えるのです。では、それはどういう理由からなのかです。 現在から二十年前、三十年前の書店だと、書店の経営方法が現在とは、相当に違っていたのです。二十年前、三十年前でも、日本の書店では、書籍がまるで、生鮮物であるかのように販売されているという批判が、ヨーロッパの識者のあいだで指摘されたことがあります。つまり、書店は、売れそうな新刊を次々に書棚に並べ、基本的な古典本などは置かないというような状況が二十年前にすでにあったのです。 しかし、「例外」とも言えることがありました。二十五年ほど前に、角川書店が、「角川商法」と呼ばれた方法で、大量の文庫本を出版するようになる以前は、また、そのような商法の展開後もしばらくの期間は、一般の書店では、文庫本などの「新刊回転」はそれほど迅速なものではなかったのです。そもそも回転するための新刊文庫本自体の出版数が、まだそれほど多くなかったのです。 それはどういうことかというと、文庫本などは、一旦、書店の棚に並べられると、それが客によって購入されるまで、半年、一年、ときには、数年以上の期間に渡って、棚に在庫として並んでいたのです。また、「出版されている文庫本全体の総数」が少なかったのです。 そのため、一般の町の書店でも、「岩波文庫」を五十冊から二百冊ぐらい在庫として棚に並べているということが多くありました。一ヶ月とか二ヶ月のような短期間では、岩波文庫は売れませんが、一年とか二年も時間があれば、少しづつでも需要があり、売れていったという状況があったのです。 このような時代には、「岩波文庫が置かれる棚のスペース」が確保されていたのです。そして、その場合、置かれている岩波文庫は、「赤帯(海外文学)」か「青帯(海外思想・哲学書)」の二種類が主でした。岩波文庫には、「白帯(日本文学)」や「黄色帯(社会・経済)」などもあったのですが、それらは、あまり置かれていないという状況でした。 岩波文庫を置くためのスペースが確保されていた時代には、町の小さな書店に行っても、岩波文庫本が一定数は、埃を被りながらも置かれていた訳で、「青帯(海外思想)」の文庫本ではどういう本か、という具体的イメージを述べると、「カントの本」が出てきます。また実際に、相対的に、カントの本が、他の著者の本と共に並んでいる可能性が高かったのです。 先の、日本では、町の小さな書店に、カントの本が置かれているという状況は、現在から二十年か三十年前の状況としては、合っているのです。ただ、現在は、もはや、そのような商品揃えをしている書店は、日本には、まず「ない」のです(特殊な書店……つまり、大学前にあり、大部分の客が大学生という書店……などや、大型書店には、今でも岩波文庫は置かれていますし、哲学書もあるでしょうが、一般の小型書店では、もはや、そういう本は駆逐されてしまっています)。 -------------------------------- しかし、時代的に二十年あるいは三十年ほどずれているとしても、確かに、日本の町の小さな書店などに、岩波文庫のカントの本などの哲学書が置かれていた状況は、存在しました。そして、こういう状況は、確かに諸外国の書店では、見られない情景だったのです。 日本において何故かつて、このような状況が成立しえたのか、そのことは問題として残るでしょう。理由の一つは、日本の社会は伝統的に、社会階級の固定的な分化が持続せず、階級間の移動が、比較的に緩やかに可能な社会であったという事実があります。この社会階級の分化は、経済力や権力的な階級分化以外に、知識における分化というものもあります。中国や西欧では、「知識」を一部特権階級が独占するということが常態でもありました。 日本はしかし、江戸時代で見ても、特権階級・支配階級の武士階級が、知識を持ち、儒学などの学問を学んだのは当然として、一般庶民、つまり農民・商人・技術者の子弟たちも、基本的な文化教養は身に付けていることが多く、このことが、「文盲率」の低さと、明治維新での文化開明でおいて、多数の国民が新しい社会や文化に容易に適応できる素地となっていました。 明治維新後百年以上を経過した現在でも、西欧やその他の地域・社会にあっては、なお特権階級の知識の独占が継続しています。さすがに、「初等教育・義務教育制度」は世界的に普及していますが、しかし、「高等教育」になると、支配階級の子弟は、高等教育を受けるが、庶民階級は、高等教育は不要であるとして、社会の機会的にも、知識を持つ階級と持たない階級の分化が存在するのが実状です。 日本の場合、知識階級と非知識階級の境界が曖昧であるということがあるのです。例えば、新聞や雑誌を見ても、日本の大新聞は、知識人向けと大衆向けの両方の面を持ち、知識人向け専門の新聞というものはないのが実状です。しかし英国などでは、大新聞に、知識人向け新聞と大衆向け新聞の分化があり、内容が著しく異なっています。 「哲学」とは、非常に身近で具象的な目的と内容を持つ他方、もっとも抽象的で、実用性と無縁な学問だとも言えます。ある意味、「あたりまえのこと」である生きているこの世界の現実について、反省的に、世界や存在や、行為や人生の意味や価値や機能を、一旦分解して、再構成して、相対的な姿を把握しようとする営みが哲学であるからです。 ある意味、「生きる方法(人生の具体的哲学)」なら、誰でもが持っているのです。しかし、それは相対的なものであり、視点を変えれば、「現実」とか「生活」の意味や見え方さえも変わって来るというのが、哲学の反省的思索です。しかし、このような「抽象的な理論的思索」は、実生活とは実に無縁だとも言えるのです。 しかし、実生活に無縁な知識を持っているということが、また文化の水準を決めているとも言えるのです。生活現実に密着した視点しかない場合、どうしても「視野狭窄」が起こる訳で、それに対し、抽象的ではあっても、諸文化の世界観や価値観などを相対化させる哲学の思索は、文化とそれに帰属する人々の思考や行動は発想に、「多様性」と「柔軟性」を与えるとも言えます。 すでに述べたように、日本の場合、知識の階級分化がそれほど顕著でなく、普通の人が「哲学的問い」に出会ったり、また出会いを誘導するような書物や知識が、一般大衆の前に、容易に入手できる形で用意されているという伝統があります。 -------------------------------- 日本においても、江戸時代でも明治時代でも、非常に高度な「知の世界」は、特権階級や帝国大学などが独占していました。これに対し、岩波書店は、ドイツのレクラム文庫に範を取って、安価で誰でもが購入できる「文庫本」という形で、高度な抽象学問の世界の文献等を、一般庶民にも入手可能な形で提供し、それが非常に大きな成功を収めたという事実があるのです。 これが、大正から昭和五十年代頃まで続く、 >「町の小さな書店でカントの本が置いてあるのは日本くらいのものだ・・」 このような書店の状況を作り出したのです。とはいえ、最初に述べたように、この二十年ほどで、「岩波アカデミズム」と呼ばれる、知の大衆啓蒙の出版文化は、圧倒的な消費文化が書籍販売の世界にまで浸透した結果崩れます。しかし、日本は高学歴社会にも、同時になった訳で、町の小さな書店からは、カントの本などは消えましたが、情報の流通、知識の流通により、なお哲学書は、一般庶民のある数の人々には支持されており、多くの若者も、意味がよく分からなくとも、現代でも、デリダとか脱構築とか、構造主義とかポストモダンとか、現代思想の用語は、非常に多数の若者が使用しているという状況にあります。 これはやはり、世界的に見れば、特殊な状況なのです。一説では、フランスの難解な現代思想の本の購入者は、翻訳を通じてとは言え、日本人が非常に多く、母国フランスでは、大して売れない哲学書が、日本では、翻訳書として、本国以上に売れているというような状況もあります。 例えば、デリダのような、西洋の哲学史全体を踏まえた難解な思想を展開する人の著作が、多数翻訳され、それを、専門の学者だけでなく、一般の学生や一般の社会人が購入して読み、しかしやはり分からないので、「デリダ入門」「デリダ解説」などの入門書等が日本語で書かれ、それがまた多数売れて、採算が取れるというような国は、日本以外に、あまり見あたらないのです。 この状況の淵源を尋ねれば、以上に述べたように、日本では、知識においても階級分化が顕著でなく、国民が全体的に、文化や知識への意欲を持っているのだということになります。(また、そのような室町・戦国、あるいはそれ以前の時代からある日本の「伝統知識文化」を基盤に、明治維新の成功があり、大正文化の繁栄があり、戦後復興と高度成長があり、岩波アカデミズムがあり、現在に至って、高学歴社会と情報社会の繁栄があるとも言えるのです)。
お礼
短いお気楽質問に長い回答ありがとうございます。 本屋さんの事実関係については、まあ、大雑把にはOKですよね。 >「階級分化が顕著でない」、「室町・戦国、あるいはそれ以前の時代からある日本の「伝統知識文化」」、「明治維新」、「戦後復興と高度成長」 これらのキーワードは一つ一つ検証が要りそうですね? #8様のお話で重要と考えるのは >高学歴社会と情報社会の繁栄 ですね。 効果については予定していませんでした。 新しい質問になるかな?
学問分野でかっこいいのは、海洋学者とか歴史学者、考古学者(インディジョーンズ)なんかかっこいいと思いますが、学問って冒険じゃないですか。やっぱ。 その冒険者達の巣窟において、学問の祖、哲学って言うのは、なんか、計り知れぬ旅のイメージというか、黙示的というか。イデア的で人身的で、非常にストイック。机の上から一歩も動かず、行きたいわけでも無いのに宇宙の果てまで行ってしまうのが哲学です。 で、その哲学の持つストイックさの由来、それに違和感を与えない日本の風土形成の歴史を説明するために、ロックを持ち出したんですが、ロックというのは音楽です。 ジミヘンとか、ビートルズとか、バッハとかディランとか。 また、ロックというのは潮流。 時代から時代へたち現れる。 ロックというのは、広義なんです。 哲学、瞑想、ロック、なんかどれも似ているとおもわれませんか? まぁ、だからなんやねんという話なんですが。 ロックがストイックさを養ってきたんだと思うんですね。 ストイックっていうのは禁欲主義で、その起源はストア学派にあると、今辞書で調べて知ったんですが、僕が言ったストイックのイメージを現すのに禁欲主義というのはあまり参考にならんなと思いました。 暴欲に対する概念としての禁欲なら、少しは意味も通るかなとは思いますが。 余計わかりにくくなったかな。 ストイック、日本人の美意識を生んだ風土はどのように養われてきたかということで、ロックの潮流を色濃く受けてきたことによるんだという話でした。 ロックとは何かといえば、音楽、哲学、瞑想などに代表される抽象的行為を生み出す、背後に潜む潮流であるということです。 参考にでもなれば、どーぞ。
お礼
あ、音楽でしたか。 うーん、鈍かった。 ロック・・・バックグラウンドが深そうだといいんでしょうね。 考古学者もいましたね。シュリーマンなんか。それで、あこがれてなる人もいるんでしょうね。道を踏み外さないで^_^;
- JACO1011
- ベストアンサー率55% (127/227)
キリスト教原理主義者がカントを読むとは思えませんし、彼らには不必要であると思うのですが、相対的に現代日本で哲学などに対する関心が高いのだとすると、宗教だとか道徳だとかが廃れていて世界観に対する共通認識が薄れていることが、ひとつの大きな要因ではないかと思えます。
お礼
ありがとうございます。 >世界観に対する共通認識が薄れている だから、(1)在来の共通認識を再認識するため、 または、(2)新しい共通認識を構築するため、 哲学などに対する関心が高まる。 うーん。どっちでしょう。
外国に比べ、といってもそれぞれに人気を集めているものはあるでしょう。日本でもそれほどの文化があるとは思いませんが。 ともあれ、「人気」のもとは、欧米文明を輸入する歴史があること、「大正教養主義」、岩波文庫発刊、などですね。戦前の旧制高校では「デカルト・カント・ショーペンハウエル」のデカンショ節とか、ヘーゲル、阿部次郎とか、西田幾多郎…を議論するのは常識のようでした。 どちらかというと、舶来の難解な学問を知っているふりをしてみたいというインテリ志向がそれなりに優遇されてきたからということでしょう。漢学も和学もそれに比べると人気はないに等しいですね。
お礼
具体的なお答えを頂きました。 >「大正教養主義」、岩波文庫発刊 大正デモクラシー絡みですよね。 少し解説をいただけると助かります^_^; >インテリ志向がそれなりに優遇されてきた うーん、そうなんですか。 >舶来の難解な学問を知っているふりをしてみたい おっ、耳が痛い! またよろしくお願いします。
- kurokawa
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私も#1の方の仰るとおり「人気があるから本が多い」のではなく「周囲に哲学に関心のある人間がいないから本で学ぶしかない」のだと思います。 あるいは日本人は自分自身の哲学的な考えを持っていても、その考えを語りたがらない事が理由のひとつでは無いでしょうか? 周りとの協調性を重んじる、人と違う事をしないとゆうのが古くからの日本の考えがあるとおもいますが、その様な考え方が「自分なりの哲学」を人の前で語る障害となっている様に思います。
お礼
>自分自身の哲学的な考え >「自分なりの哲学」を人の前で語る障害 これらだけでも2つの問い(質問)が立てられます。 深い考察を頂きました。
- tkr1977
- ベストアンサー率20% (80/395)
こんばんは。 冒頭の引用文がどのような流れの中で表現されたものか分からないので、ニュアンスが異なるかもしれないことを初めに断っておきます。 「哲学」とはモノの考え方、捉え方を研究していく・探っていく学問ですよね。 ですが、(欧米に比べると)日本の教育課程の中でそのことは十分になされていません。 ですから、社会人になって1~5年ぐらいの(キャリアが)若い人や管理職に就くようになった人などが勉強するために買っている、買わざる得ない状況だと解釈でします。 すごい抽象的な書き方をしたので分かり辛いかもしれません。その場合、「手に取るように哲学のことが分かる本」など、かんき出版社だとか中京出版社などが出版している「哲学」の入門書を読んでみることをお薦めいたします。
お礼
>冒頭の引用文 え~。忘れました。1ヶ月ほど前に、新聞か雑誌のコラムで外国に行って気が付いたが・・・というくらいの記事だったような。あまり深い内容ではないと記憶します。 >キャリア管理職に就くようになった人などが勉強するため おー。そうなのですか。これは予想しませんでした。 それで、「買わざる得ない状況」がちょっと解らないのですが。
- cbento350
- ベストアンサー率12% (7/55)
外国の人は特に学ばなくても哲学的な考え方を持っている人が多いと思います。 外国の偉人は、科学者であっても、哲学に精通している人が多いです。 日本には哲学が根付いてないので、本で学ぶ人が多いのではないでしょうか?
お礼
ありがとうございます うーむ。あまり高尚な質問ではないんです。^_^; 真の意味の「哲学」(自分でも判らん)というほどではなく、また、偉人とか科学者というレベルではなく、日本では結構、私なんぞを含め普通の人がたいして判りもしないのに好き、または、かっこいいと思っているのではないかと思いまして。 で、そうなら、そういう土壌があるのか、何かきっかけがあったのか判ると面白いなということなんです。 よろしくお願いします。m(__)m
お礼
正月ボケで、御礼が遅れており申しわけありません。 長文に対し、内容のあるお礼をしようと思いましたがだめでした。 #4様が「きっかけ」を論じ、#5様が「土壌」を語られてまとまってきたかなとは感じております。 「ストイックさ」「美意識」でああそうかなと。 ありがとうございました。 しかし、中段以降が良くわかりませんでした^_^; 私も哲学よく判りませんので(おっ減点もの?) ロックて何? さて、質問文のカントは(よく記憶しているわけでもないが)別にサルトルでもスピノザでもいいのです。 そして、学問の分野でかっこいい(?)のはソクラテスなどの哲学、ニュートン、アインシュタインの物理学、後は文学者くらいですかね。 ほかの国でもこうなんでしょうか。 うーむ。