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ステレオタイプの出てくる議論の定義の仕方について
あくまで例にすぎませんが、 たとえば私が「なぜ日本人は(外国人と比べて)議論をするのが苦手なのか」について議論したいとします。 もちろん、議論が得意な日本人がたくさんいるのは知っていますが、 自分の経験や文化的背景を調べたことにより、日本人全体(ステレオタイプの日本人)として議論が苦手であると、ある程度確信を持てていると仮定します。(統計的根拠はないものとします) しかし、このままでは議論を進めることができないような気がします。 なぜなら、議論が得意な日本人がいるために、 例えを変えれば、妻を殴っていない夫に「なぜ妻を殴ってしまったのですか?」と聞いているのと同じような気がしてならないからです。 このような事態を避けるために、日本人を「典型的な日本人」と定義したい場合、どうすればいいのでしょうか。「典型的」だとあいまいな気がしますし、「議論が苦手な日本人」ではなんか本質をとらえられていないような気がしてしまいます。 …これを書いているうちに思ったのですが、「日本人は議論が得意だ」と主張する人が現れたら議論が破綻してしまいますね(笑)。先ほどの夫妻のように。 これを解決するにはまず「日本人が議論が苦手であるか」を議論する必要がありますが、個人レベルでは不可能な気がします。(統計的根拠がないため。)そして私の知りたい「なぜ~」を深められないような気がします。 そもそも結論ありきで議論をするのが間違っていますね。 しかしこれらを回避するにはどうしたらいいのでしょうか? 「日本人が議論が苦手であるとするならば、それはなぜだろうか?」 「日本人が議論が苦手であるステレオタイプはどこから来るのだろうか?」 などなどいろいろ回避を試みようと思ったのですが、どうも納得できません。 どうか、皆さんの知恵をお貸しください。
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- NAKO-P
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「日本人は議論が苦手である」という命題は、正しいとは言いにくい命題ですよね。 議論が得意な日本人がいれば、つまり例外があれば覆るタイプの命題だからです。実際に、議論が得意な日本人もある程度の人数はいるでしょう。日本人も様々ですから、「日本人である」ならば即「議論が下手になる」という必然性までは言い切れないはずです。 一方、「なぜ日本人は(外国人と比べて)議論をするのが苦手なのか」と言われたら、確かに(得意な人もいるだろうけど)日本人は苦手なのではないかな、と私も思っています。 理由は、学校で本質的には習っていないから、と考えています。日本の教育課程・教育制度のマイナス面の影響が直撃しています。 海外の教育と比較すると、実はすぐに気が付きます。 海外では、『言語技術』(Language Arts)という、言葉で意見を伝え合うスキルを身につける“教科”があります(是非検索してみてください)。その「意見を伝え合う」の延長上に「互いに議論ができる」があります。 例えば「事実」と「意見」の区別ができる、ということは、アメリカでは小学校4年生で習うそうですよ(木下 是雄著『理科系の作文技術』より)。日本では大学生でもごっちゃにして話したり、ニュース“ではない”報道バラエティー番組を見ていると、根拠となる事実が明瞭でないままに意見ばかりが主張されるケースが多いですよね。 つまりはそもそも、言葉で意見を伝え、相互理解や合意形成の方法を、日本の教育において学んでいない国民が多く輩出されている現状であり、かつ、 ・教える立場の人も、「よりよい議論ができるようになる方法」を過去に学んでいないので、他人に教えられらない。 ・ある人が議論が上手&得意であっても、議論をする相手が議論下手であれば、その場では良い議論がなされない。議論は、議論に加わる全員がそれぞれ、良い議論を構築するためのスキルが必要。 という、“良い議論が構築できない”マイナス要因が存在しているところも、悩ましいところです。 ----- 逆に言うと、ちゃんと教育を受けたり、訓練を積めば、日本人でも良い議論ができます! 簡単に言うと、日本人は、議論(の手法)に慣れてないだけです。 スキルは、経験を正しく積めば、高まります。 よって「日本人は議論が苦手である」とは言い切れませんが、「(多くの)日本人は議論に慣れていない」ので「(議論に慣れている国の)外国人と比べたら、(比較的)議論をするのが苦手」という印象に至ると思われます。
- atomonados
- ベストアンサー率31% (55/174)
論題の問題点を2つあげます。 (1)何故と問うている。これでは論点が絞れず,浅く論点をめぐって終わりとなる。 (2)自己言及の構造になっている。これは質問者さんのご指摘の通り。 どんな方法がよいが説明します。 肯定側と否定側に分かれてディベートする。ディベートの方法は,肯定側と否定側が途中で入れ替わるなどより客観的な議論になるように工夫がある。討論するまでもなく是であろうことも否定側にたって主張しなくてはならないので認識が深まる。意外な主張が生みだされたりする。 例えば論題はどんなものがよいか説明します。 「何故を深めたいときには何故と問うとよい」是か非か。 「論題が議論を支配する」是か非か。 「議論においては論者の能力より論題が重要である」是か非か。 「議論において,論者の能力より,論者がディベートに関する共有知をもつことのほうが重要である」是か非か。 「韓国人は中国人よりディベートに関する共有知をもっている」是か非か。 要するに,問題を分析して是か非かで問う。質問に挙げられた論題は,素朴に発生する一次的な疑問のタイプで分析ができてない。論題を作る段階で,二次,三次と分析し深めておく。討論の中では深まらないだろうという論題にしておいて討論するので,論題以上に深まる。 自己言及はパラドクスとなり討論は混乱する。それを避けるためにはまず,日本人がする討論の議題に日本人を含めないようにする。 最も問いたい最初の問いの答えを求めないこと。部分的な論題の討論で得ることに満足すること。 ステレオタイプがキーワードみたいだけど,これについてはどうだろう。質問者さんは,日本人の議論下手の根拠としてステレオタイブを考えているようだから, 「ステレオタイブの人どうしは同じ意見を持っている」是か非か と自分の常識に問いかけたらいいのじゃないか。 雑な回答になりましたが,参考になれば幸いです。
お礼
ありがとうございます。 よく考えさせるような回答でした。 最後に皮肉で返されるとは、何も言い返すことができません。 確かに私は最初、皆が「日本人は議論下手である」という共通の考えを持っていると考えたうえで論題を作りました。そういうところを考慮せずに質問をした点で私は議論下手な人間ですね。 ここで少し補足を入れさせていただきます。 キーワードはステレオタイプではなく、「議論」です。「議論」について何か発表した後、それに関連した論題について討論する、というルールで、これに合った論題を探しておりました。わかりづらくてすみません。 そして提案していただいたディベート方式も魅力的なのですが、これもルールで自由討論方式のようなものしかできないと決まっています。(別の機会に試してみたいですが) しかし、回答を見てかなりすっきりしました。 書店で見かける「なぜ日本人は~なのか」という本は用心するべきですね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 貴重なご意見、参考になりました。 しかし、「日本人は議論が苦手である」是か非かという論題はあくまで私の提示した一例に過ぎず、 この場で質問したかったのは、「日本人は議論が苦手であるのかどうか」ではありません。 私が疑問に思っているのは、「なぜ~は…なのか?」という題を提起したときに、必ずしも「~」は「…」でない場合があることで、矛盾が生じてしまうことです。 確かに、日本人の典型として議論が苦手、と言うことができますが、それはあくまでイメージであり、誰も確かめてはいないと思います。 「日本人は教育されていない→だから議論が苦手である。」はどうやら「教育がされていない」というのが真であるので論ずることができますが、 「日本人は議論が苦手である→それは教育されていないからに違いない」となると、先に結論が述べられているのでよくないと感じます。 同じような形の題を挙げますと、 「なぜイギリスの食事はまずいのか」 「なぜ野菜にはビタミンが豊富に含まれているのか」 これらを議論するには、まず「イギリスの食事はまずい」「野菜はビタミンが豊富」が前提としてなくてはなりません。 後者はデータを持ってきて議論することはできるかもしれませんが、 前者は認識に頼ることしかできません。「イギリス人は料理に関心がないから」と言うのは前提になりません。 これが前提となってしまえば、極端に言えば、 「なぜイタリアの食事はまずいのか」という題があった時に、 「イタリア人は料理に時間を費やすほど暇ではないから」というのが提示されるとまかり通ってしまいます。 しかしこういうのを抜きに人々は平気で議論しますよね そこを疑問に感じているのです。