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「いただきます論争」について

 さきほど、ある記事を見てビックリしたのですが、とある小学校で児童の母親が「給食費を払っているから、『いただきます』を言わせないでほしい」というお願いを学校側にしたそうです。しかも、こういう親は最近は少なくないとか。  なんでも、お金を払っているのだから、わざわざ誰かに言う必要性はないとか、手を合わせるのが宗教的であるとか、いろいろ理由があるようですが、僕自身は、食べ物やそれに携わってきた全ての方々に自分が「生かされている」と考えているので、人の親がこういう見解を持っている事自体、憤りを通り越して悲しみと哀れみを感じてしまいます。今、こういう考え方は当たり前なのでしょうか。皆様の意見を、お聞かせください。

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  • galluda
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回答No.19

がると申します。 ………ありがとうございます。一瞬、目の前が本気で暗くなるほどの衝撃と共に、新しい知識を身につけました。 タイトルを見たときに「いやまぁそれはなかろう」と思っていた内容がまさかそのまま記述されているとは… いずれにしても、あまりにも愚かな見解だと思わざるをえません。 一つには。いただきます、ご馳走様は、感謝の意です。では、よしんば給食費を払っているとして。子供の立場から見れば、それは「親が払ってくれている」という感謝の対象であるはずです。無論「美味しい(……よねぇ? きっと多分)給食を作ってくれている人々」への感謝もあるでしょう。もしかすると「一緒に食事をすることが出来る友人たち」への感謝があるかもしれませんし(昔はともかく、昨今の家庭事情を考えると割合に深刻です)。 …いやまぁ、小さな子が心の底から「無事に食事が出来ることを感謝する」ほど達観できるとは思わないのですが。それでも、本来であれば「食物があること」自体もまた、感謝の対象のはずです。 ちょっとえぐると「両親が収入を得ることが出来る状況」への感謝とか。まぁあげていけばきりがないですね。 こういった「他者への感謝」の心を、まずなによりも当の親御さんが失われている気がしてしかたがないです。 口で言う必要がない、というのはある程度まで事実ですが。躾として考えると、きちんと口で言うことで身に付く側面もありますから、否定材料にはならないですね。 宗教的云々に関してはなにをかいわんや。宗教ってものをあまりにも勘違いしている、無知のきわみとしか思えません。 宗教というものの定義はじっさい出来ないのですが(宗教学者が複数人そう答えていたので恐らくそうなのでしょう)、私はそれを「聖なるものの顕れ(ヒエロファニー)」であると考えます。 自らと「自らではないもの」の存在を知ること。それは、他人を知る上でも大切な思考なのではないでしょうか? 何故に宗教というものが出てきたのか。それに対してどう向き合うべきなのか。 妄信し食いつぶし食いつぶされるという「もどき」ではなく、本来のあるべき宗教感というものをきちんと取り戻したほうが…と思ってしまうのは私だけなんでしょうか? 総括して。 そうですねぇ……質問者さんのおっしゃるとおり。子供がかわいそうです。 というか、親御さんのその発想があまりにも理解を超越しすぎていて…なにか異世界の思考が流れてきたように感じられてしまいます(苦笑

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  • hitoshit
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回答No.29

>給食費を払っているから、『いただきます』を言わせないでほしい まあ、「お金が全て」なんでしょうね。 根本的に「自分の事が見えていない未熟な親」ということでしょうか。 「お金」があるから、それは「私のもの」という考えの現われだと思います。 人間は所詮一人では生きていられないもの、 そこには「人と人」「人と周りの環境」の中で互いに「妥協」によって結びついているもの。 こんな親が増えるごとに「なぜ人を殺してはいけないのか」を子供に教えられない世界になっていくのだと思います。 自分自身が見えなければ、人のことなど、考えられる様には思えませんからね。

snkronized
質問者

お礼

 みなさま、回答ありがとうございます。多くの方々より戴きました貴重なご意見、大変参考になりました。心より感謝申し上げますとともに、ここでまとめてお礼とさせていただく非礼をお詫びいたします。  皆さん仰られる通り、「いただきます」というのは、我々の血肉となるために命をくれた食材に対する感謝。そして、それに携わった全ての人達に対する感謝の意だと思います。そういった全ての人たちに「支えられている」「生かされている」と知る事が、しいては他人を思いやり、時には慮る基礎となり得るのではないでしょうか。飛躍し過ぎかもしれませんが。  今思ったのですが、「苦労を知る」と言うのは自分が苦労を経験するのは勿論だけど、同時に人がどれだけ苦労をしているかと知るという事でもあるような気がします。  さておき。もう一つ考えられるのは、それは「美意識」ではないでしょうか。確かに、「食べられる事は有難い事」だと分かってさえいれば、わざわざ声に出したり、手を合わせたりする必要はないはずです。それをあえて形として表すのは、その姿が美しいだと思います。  以下、続きます。

snkronized
質問者

補足

 続きです。  礼法とは、みんなが気持ちよく生活する為のルールです。それを様式美として形成したのは、素晴らしい文化だと思います。  だって、例えば落し物でも拾ってあげたとして、「あ、どうもありがとうございます。おかげで助かりました」と深々と頭を下げられるのと、「あっそ、ふーん」ってプイッとされるのとでは、誰だって前者の方がいいに決まってます(一部の偏屈な方を除けば…)。つまり、礼儀作法とは必要であると同時に美しいものでありますから、それができない、あるいは知らないというのは、必要な事が欠如した、美しくない人という事ではないでしょうか。それを一般社会では「恥」と呼ぶと思うのですが、いかがでしょう。 「衣食足りて、礼節を知る」という言葉があります。「へっ、メシの前に手ぇ合わせようが合わせまいが、知った事かボケ。礼儀なんざオレ様には関係ないわハハーッ」なんて言ってる人は、きっと自分で自分を精神的に余裕のない「貧しい人間」だと暴露しているのに気づいていないのでしょう(もちろん、貧乏人が悪者という意味ではありません)。そういう親に育てられる子は可哀想です。また、それに気づかない親も哀れです。  それを「それこそ宗教的だ!!」と仰る方もいると思いますが、おおよそ日本の伝統文化はほとんど宗教絡みだと存じますが。正月の初詣然り、節分然り、七五三然り。お祭りは言うに及ばず。最近はおかしな連中が増えたおかげで誤解されてますが、宗教そのものは非常に優れた「学問」(と、本来は一括りにはできないのですが)ですし、決して悪いものではないはずです。でなければ、何百、何千年と受け継がれるはずがないじゃないですか。  まあ、本当にこれが「ネタ」だったら、それに越した事はないですけどね。ともかく、こういう「当たり前」の事を、一度真剣に話し合うのも良い物ではないでしょうか。これは熱くなるべき、大した問題だと思うのですが、いかがでしょう。  …とまあ、こういう事書くと「ケッ、あの野郎また文化人気取りかよ」なんて言われちゃいそうなんですけど、とりあえずそういう事で。ありがとうございました。

  • tewpi
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回答No.28

早い話が、結局は「ネタ」でしょうね。 仮に永六輔さんの番組での投書が事実だったとしても、さほど気にするほどのことじゃないっしょ。稀有な例にすぎません。 どの時代でも「はあ?そんな考えの奴いるの?」とか「そんなやつおらんやろ~」って人間は一定数いますよ。 いかにも文化人とか言われる人間の好みそうな話題ですね。 いわく、“現代の日本人は豊かになったけども心がどうだ”、“いくら経済的に豊かになっても肝心の心がどうたらこうたら” まともな人間ならそんな考えしないし、仮に居たとしても、そんなの一種の変人でしょ。 熱く語るほどの話題じゃないっす。 みんな釣られすぎ。

noname#16104
noname#16104
回答No.27

変わった親ですね。浅ましいというか、心にゆとりがないというか。 そもそも挨拶の言葉なんてのは型通りの決まり文句なわけで、いちいち意味にこだわってたら面倒で仕方ないですよねえ。 ふと想像してみたんですけど、ある日曜日の朝10時、この家の子供が寝ぼけまなこで起きてきたとしましょうよ。 子『お早う』 親『もう10時だよ。早くないでしょ』 子『えっと・・・じゃあ、こんにちは』 親『こんにちは?今日は何なの?先を言いなさい』 子『えっと・・・こんにちはお日柄もよろしく・・・』 親『はいはい。早く朝ごはん食べてね』 子『いただきまーす』  もぐもぐ 子『ごちそうさまー』 親『これのどこがご馳走なのよ。それ嫌味?』 子『じゃあ・・・ご飯作ってくれてありがとう』 親『有難う?滅多にないっていう意味?   なにそれ!ご飯はいつも作ってるでしょ!(怒)』 挨拶言葉の字義を厳密に考えるとこんな風になるわけですよね。 平素からこれくらい徹底して字義にこだわって暮らしているなら、給食に『いただきます』はおかしい!と学校に抗議するのもアリかなっと思いますけどね(笑)。 まあなんにしても気の毒な人達だな~と思います。

  • kikyou1
  • ベストアンサー率33% (9/27)
回答No.26

少し気になるので顰蹙を買うのを承知で意見。 調理された食事を前にして、それを食べて楽しみ、命をつなぐことが出来るという事を感謝すべきである、 (動植物、生産者、調理師、親、・・・) というのは道徳として当然のことなのでしょう。 しかしながら、実際には声の届かないそれらの存在の犠牲や働きに対し、 どのような形で感謝を表明し、或いは表明しないかは 極めて宗教的な判断になり得ると考えます。 (宗教的でないと感じるのも有力な価値観であることは尊重しますが) 特に、学校でよく行なわれていた 手を合わせて「頂きます」 は特定の宗教の作法を連想させますから、 一部の人にとっては受け入れ難いものであるかもしれません。 日本人は宗教に無頓着だといわれますが すべての人ではありません。 特に公の場では、無意識に宗教的行為を押し付けてしまうことにならないよう 気を配ることも必要であると思います。 そのお母さんに深い考えがあったのかどうかは私は知りません

  • deme-king
  • ベストアンサー率22% (32/142)
回答No.25

この論争が、本当であれ都市伝説であれ、どちらにしてもこういった類の親が増えてきているのは確かなようです。 ★ほったらかし=放任主義だと思っている ★叱ると怒るの区別が付かない親が多すぎ ★褒めて育てる教育だからと、それを強要してくる ★家でするべき躾(挨拶)を学校に求めてくる 上記は、小学校の先生をしている友人が漏らした悩みです。どの項目も、単純だけど今は難しい問題なんだそうです。 私の実家は祖父が生きていた頃は兼業農家でした。祖父は寒い日も暑い日も朝早くから出かけ、刺すような冷たい水の中で作業をすることもありました。 私はそれを見て育ってきたので、お米の一粒、大根の一片も粗末にすることは許されませんでした。しようものなら、父や母から手が飛んできます。 『いただきます』『ごちそうさま』はそんな祖父や同じ農家の人たち、作ってくれた母親への感謝の気持ちだと思います。そこには宗教とかお金とかではなくて【心】があるべきだと思うのですが・・・。 どこの宗教に入り、誰を信じようとそれは個人の自由です。でも、食べるということが当たり前の行為ではなく、何かの犠牲や誰かの助けで出来ることだというのをしっかり教えないといけないと思います。

回答No.24

http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/katei/news/20060121ddm013100126000c.html これですよね。 宗教的といっているのは手を合わせる行為にかかるようですね。 >今、こういう考え方は当たり前なのでしょうか。 当たり前ではないと思います。 いただきます=命をいただきます だと私は思っています。

  • iyamon
  • ベストアンサー率22% (47/213)
回答No.23

わあ! 食堂とか外食先でも『いただきます。』『ご馳走様でした。』という私は変な人と思われているのでしょうか。 ショックでした。 この父兄の育った家庭は、黙って食べて、黙って食事を終えていたのでしょうね。今の家庭ではどうなんでしょうかね。食材はスーパーで買ってきたので『いただきます』って言わなくてもよいと教えていらっしゃるのでしょうかね。知りたいですね。 昔まだタバコを吸う人の天下だったとき、電車に乗って前に座っていた人に『タバコを吸っても良いですか?』と聞かれてちょっと感激した日は遠い昔になるのでしょうか。自分だけがよければ良いという世の中にならないよう祈る思いです。 皆さんの回答を読むと救われます。

noname#83948
noname#83948
回答No.22

…信じられません。これって本当の話なんですか? もし本当だとしたら、とんでもないバカ親が いたもんだと呆れ果てます。 質問者様が「憤りを通り越して悲しみと哀れみを 感じてしまいます」と感じるのは、もっともだと 思います。私も子供の頃から、食事をする時は必ず 「頂きます」終わると「ご馳走様でした」を 言うのは当たり前だと教わって来ました。 「手を合わせるのが宗教的である」なんて何を考えて いるんでしょうかね。宗教云々の問題ではないのに。 いい年をした大人がそんなことさえ理解できないのか と不思議に思います。こんな親に育てられた子供は 気の毒ですね。ますます嫌な世の中になってきた…と 思います。嘘だったらいいのに…。

回答No.21

20歳の学生ですが、この話を聞いたときには変な親が増えたなと思ってしまいました。 随分偏屈な考えですよね。。 私もsnkronizedさんと同じような考えで「いただきます」を言ってきました。3年ほど前に仏教(浄土真宗)の勉強をしたのですが、その際「私たちの命が生かされているのは、たくさんの命が犠牲になっているからこそだから、その生物全てに感謝の意を持つのは当然のことだ」と聞きました。こう聞くと宗教的に感じるかもしれませんが、キリスト教だって食事の前には祈りを捧げたりしますよね。なので、宗教的だからっていうのはちょっとおかしいかなと思っています。 「いただきます」って言葉にはそれだけではなく、作り手にも感謝する言葉だと思います。幾ら給食費を払っているから食事が出てきて当然。というのには納得できません。「いただきます」を言わせないで欲しいという家庭では家でも言わないのでしょうか…?もし私が自分が作ったものを家族が食べるときに何も言われなかったら、「調理されたものが出てくるのは当然なんだ…」と切なくなります。 徒競走の話にしても、最近妙なことを言う親が増えている気がします。視野が狭くなっているのでしょうか。どうであれ、子供が可愛そうです。感謝の言葉、挨拶さえ出来ない子になってしまう訳ですから。 本当に学校の先生は大変だなと思います。 言いだしっぺの親御さんの意見や顔が見てみたいものです。

  • tewpi
  • ベストアンサー率36% (255/707)
回答No.20

ところでこの話しは、本当に現実の話なんでしょうか? 以前、今の小学校の運動会では順位をつけるべきでないと、徒競走で全員が手をつないでゴールする話しの是非が話題になったことがありました。 教えて!でもその存在に疑問を出していた人がいましたが、しかしどうにもその学校の存在が特定できないのです。 すべての回答が「聞いたことがある」「本で読んだ」の類で、中には「私は知ってるがどこに住んでるか個人情報が 特定されるので言いたくない」と回答し、「どこの県かだけでも教えて」の要求は無視だったりしました。 この「いただきます」の話しも、「みんなでゴール」や「死体洗いのバイト」と同類の一種の都市伝説である可能性を否定できません。 そこで、質問者さんに補足要求というか、お聞きしたいのですが、あなたのご覧になった記事と言うのは、なんという媒体の、いつ掲載のものなのでしょうか? もちろんその媒体に載っていたからと言って、それで存在を証明できたことにもなりませんが(新聞でもやらせ・捏造・誤報は山ほどあるんで)、少なくともとっかかりになるとは思えます。 なお、質問者さん以外でも情報をおもちの片、お教え願えれば幸いです。

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