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「思い出作り」という言葉はおかしいのか?
「思い出作り」という言葉はおかしいという意見があります。 思い出とは作るものではない、自然に出来るものだそうですが・・・。 でも、お見合いと同じで「無ければ努力して作る」というのは自然なことだと思うのですが違うのでしょうか?現実には生まれたときに両親がいるとは限らない・・・。 「思い出作り」という言葉がおかしいという人は恵まれた人なのでしょうか。
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> 「思い出作り」という言葉はおかしいという意見があります。 実は私もそのクチかも知れません。 「思い出作りのために○○しましょう」といった言葉は、おかしいとまでは言わないが、あまり好きではありません。 > 「無ければ努力して作る」というのは自然なことだと思うのですが 質問者さんのお考えは、至極ごもっともだと思います。 ただし、 > 思い出とは作るものではない、自然に出来るもの というのは、「(自分は恵まれているから)思い出をわざわざ作る必要はない」と言いたいのではなく、「思い出を作ること自体を目的にするのはおかしい」という意味で言っているのだと思います。 例えば中高生の部活などで対抗試合直前に「3年間の最後の思い出作りのために精一杯頑張ろう」などと指導教師が部員を励ましたりしますが、この場合の目的はあくまで試合を頑張ることであって、(勝とうが負けようが)良い思い出はその努力の結果として後から自然に形作られる物ですよね。 意味はわかるものの、文言通りに受け止めると、何か目的を取り違えた表現に思えて居心地悪く感じてしまうのです。 「精一杯頑張れ。それはきっと一生のすばらしい思い出になるだろう」といった言い回しの方が、自分としては納得できることは確かです。
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- Postizos
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広辞苑(第六版DVDロム版)によりますと。 おもい-で【思い出・想い出】 1.前にあった事柄で深く心に残っていることが思い出されること。また、その事柄。また、そのきっかけとなるもの。源氏物語総角「空しくなりなん後の—にも」。「初恋の—」「—の品」 2.後々まで思い出しても楽しくなること。また、そのさま。日本永代蔵4「—なる人心」 だそうで、この2の方だとすると思い出を人為的に作る事はできるとも言えそうです。 しかし「今となっては良い思い出」というふうに必ずしもその時は良いとは考えられなかった出来事が時間の作用で受け入れゆるせるようになるというような、時間が及ぼす心の作用を思い出には含んでいると思うのですよね。 それには「努力」というような、その時の善かれと思ってすることは関係しないわけです。 また必ず時間を置かないとならないので、思い出になるかどうかはその時にはわからないわけです。 恵まれていなくて、良い思い出にならないとしか思っていなかった体験が「思い出」になるときこそ思い出の力が発揮される時なんではないですか? そう考えるなら「思い出作り」でやっとこ作られた思い出はじきに色あせるような気はします。 >「『思い出作り』という言葉がおかしいという人は恵まれた人なのでしょうか。 」 ここに書かれた文章だけではその発言をした人の真意はわかりません。ですがもしいろいろと経験をしてきた人の発言であれば、「ひねくれ者」だとか、「素直じゃない」とか、「へ理屈だ」とかの批判をするのはちょっと早まった行為ではないかなと思います。 その発言だけではその人のこれまでの人生や境遇を決めつけることはできないと私は考えます。 結婚は打算や人生設計が入ってきて当然と思いますが、「思い出」という概念には計算・計画だけではどうにもならない物が扱われているように思います。 「後悔しない良い思い出になるようにしよう」と言う事はできますが「思い出を作ろう」と言うだけでは少し言葉足らずではないかなと私は思いました。ただし前に言った軽い意味での2の用法も否定する事はできないとも思います。
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- key00001
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> 思い出とは作るものではない、自然に出来るものだそうですが・・・。 何にでも文句を言う人が居るモノですね。 「理屈と膏薬は何にでも付く」ってヤツで、そういう屁理屈に囚われて、その先のコトが見えなくなってるんでしょう。 努力したって、良い思い出として残るかどうか?なんてコトは判りません。 そう言う意味では、「自然に出来るモノ」は正論でしょうね。 ただ、そんなコトは「思い出」を持ってる人間なら、誰でも判ってるコトで、思い出が無い人間なんてほとんどいません。 だから、そんなコトは判った上で、それでも「思い出を作ろう!」って言っていると言う点には、考えが及ばないんでしょう。 質問者さんが仰る通り、良い思い出として残る様に「努力すること」が「思い出作り」じゃないですかね? 「少しでも思い出として残る様に!」「少しでも思い出が出来やすくなる様に!」など、工夫したり努力することが、おかしいとは少しも思いませんよ。 余談ですが、「良い肉は塩で食べても旨い」なんて言って、全くタレを使わない人が居るんですよ。 確かに塩で食べても旨いです。 塩をチョンと付けて食べるのも、食通っぽくて、ちょっとカッコいいとは思います。 でも、その良い肉を、より旨く食べるためだけに作られたタレとか、その肉に合う選ばれたタレで食べたら、塩で食べるより、シビれるくらい旨かったりもします。 あるいは、塩も楽しみ、タレとか色んな食べ方で楽しむのが、贅沢じゃないですかね? 「絶対に塩のみ」なんて言うのは、理屈や形式に拘って、一番肝心の「美味しい」を忘れてないか?と思います。 それとか、「宝くじ」みたいなモノかも知れません。 宝くじは、買わなきゃ絶対に当たらないですが、「宝くじなんて当たらないからムダ。真面目に働く方がいい」なんて言うのも一理はあります。 でも、絶対に当たらないワケじゃないし、夢を買ってる部分もありますよね? いつも「良い思い出を作りたい!」って意識したり願っている人が、多くの思い出を手に入れられる可能性がある人じゃないでしょうか? 思い出も、それらと似た様なモノだと思いますよ。 思い出は、必死に努力したって作れるモノじゃないですけど、努力した結果、狙い通り、良い思い出になるコトだってあります。 だからこそ、自分に出来る範囲は努力すればいいです。 それが「思い出作り」でしょう。 逆に言えば、「思い出は自然に出来るモノ」なんて正論っぽいコトを言って喜んでる連中は、思い出を作るために努力しないワケです。 思い出が少ないとか、もっと良い思い出に出来たかも知れないチャンスを、みすみす逃す人ですよ。 そういうひねくれた人は、自分が損するだけだから、「うん、そうだね・・」って言っておけば良いんじゃないでしょうか? 「沢山の思い出」とか「より良い思い出」が欲しい人は、素直に欲張って、思い出を作りに行きましょう!
お礼
ありがとうございます。
淡々と人生を平凡に生きつづけ、ひとは生命が尽きれば死にます。その平凡な人生を振り返って、ああ、あの時はあんなことをした、あの時はあんなことがあった、と懐かしく思い出し(易くし)て楽しむことができるように、節目には具体的なモニュメント(別に巨大な石塔などでなくても、ちょっとしたお祝いの膳でもいいでしょう)を残してはしらのきずにするのは悪いことではないと思います。それは他の動物たちよりも際立って優秀な記憶力を持った生き物である人間のささやかなおごりでもある、いいことだ、と私は思います。そんな人間の働きが芸術を生み出した要素のひとつでもあるのではないでしょうか。 >「思い出作り」という言葉がおかしいという人は恵まれた人なのでしょうか。 そうかもしれませんね。それともシャイなひと?人生は芝居そのものです。できるなら思いっきりしゃれのめして、わざとらしく生き死にしていいでしょう。白眼視するひとは放置っておきましょう。
お礼
ありがとうございます。
- hakobulu
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「思い出作り=結果として良い思い出ができるように今を頑張る」でしょう。 ただ「頑張る」と言えばしかつめらしい表現になってしまうので、頑張る結果としての「(良い)思い出」。それを作ることを「思い出作り」と表現するのだと思います。 >「思い出作り」という言葉がおかしいという人は恵まれた人なのでしょうか。 : とりあえず、という注釈付きですが、自信家だろうと思います。 常に今に生きるだけで納得した人生が送れる、と考えているのでしょう。 たまには過去に浸りたくなることもあるはずで、そのために思い出は貴重なものですが、そこまでは考える必要がないほど自信を持っている(と思っている)。 その意味では「恵まれた人」と言うこともできるでしょう。 ただ、「思い出作り」と考えるまでもなく、今を精一杯生きること、それ自体が最高の思い出になるわけですから、思い出を作ること自体にあまりこだわる必要がないことも事実です。
お礼
ありがとうございます。
お礼
ありがとうございます。