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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:友情について)

友情とは何か?結論は友情は契約!

このQ&Aのポイント
  • 友情は人と人との間に成り立つ契約であり、小さな親切をすることで大きな親切を期待する関係です。
  • 友情は利益に関係なく成立する純粋なものである一方、メリットを見越して友情が成立するという考えもあります。
  • もし純粋な友情を持っているのであれば、関係を成立させる基盤はお互いへの信頼や理解、共有する価値観などです。

質問者が選んだベストアンサー

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  • bfox
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回答No.4

1、ある意味正しい。しかしそれは友情(友人)という単語を使っただけの単なるステークホルダーの事ではないでしょうか? 2、結果としてメリット・デメリットが発生するというだけで、それを念頭に置いていない人間関係は持っています。 3、「一緒にいて楽しいから」が基盤だと思います。しかしそれをメリットと捉えるとなると2の答え自体が覆されてしまいますが…… 4、「お互いがそれぞれの価値観に共感し、相手への信頼関係を持つ間柄に生まれる親愛の感情」とでも言いましょうか……。 う~ん難しいですが、やはりメリットやデメリットが念頭にあるかないかだと思うんですよね。 >対人関係において、メリットの無い関係というものがよくわかりません。 これは私もそう思います。 「付き合いの結果としてメリット・デメリットが発生する」か「メリット・デメリットを考えた上で付き合うか」の差だと思うんです。 小学生の時とかって、いちいちコイツと付き合えば宿題やってくれそうとか、家が金持ちっぽいからとか考えて付き合ったでしょうか? 価値観が合って、一緒にいて楽しくて、なんか解らないけど信頼してて。 そいつが苛められてたら「てめー!俺の友達に何すんだよ!」って一緒にケンカして。 その時にいちいちメリットやデメリットなんて私は考えていなかったなぁと思います。 そこにあるのが友情ってやつだったのかな?と思います。 そう考えると大人になればなるほどそういう意味での友情って無くなっていってるような気がしますね。

noname#148745
質問者

お礼

よく考えられた回答を、ありがとうございます。回答者様は、メリットとデメリットが無い対人関係はないという点に同意してくださっています。しかし、 >結果としてメリット・デメリットが発生するというだけで、 とおっしゃる。となれば、損害をこうむっても、それが友情を保つか否かという判断に影響しないと、基本的にはお考えなのでしょうね。利害関係に先立って、友情を考えていらっしゃるというわけです。 ――それは何か?。「楽しい」というものです。しかし「楽しい」は、お笑いを見て快楽を感じるのとは異なることでしょう。自分の同胞だと感じられ、波長が合うことによって生じる安心感に似ているものなのかな、と私はご回答を読みました。 言い換えると、友人とは同胞であり、自らの帰属意識を規定する際に、大きな役割を果たすということです。No3の方のご意見が今一つ私にはわかりませんでしたが、こういう意味なのかな、と関連付けて解釈させていただきました。

noname#148745
質問者

補足

皆さま、どうもありがとうございました。この問いは一端、締めさせていただきますが、ここから発展させた問いを新たに投稿いたしました。そちらも参照していただけると幸いです。

その他の回答 (15)

回答No.16

 ☆☆(回答No.6) ~~~~~~~   ○ (モンテスキューの心の内なる影の声):じつはわたしは 利害関係を超えた――ということは 利害関係に換算すると こちらの持ち出しになってもよいと〔無根拠にて〕思える――あいだがらが 友情としてあると思っていた。けれども・・・かなしきかな 人間よ。   ☆ というところではないでしょうか?  ~~~~~~~~~~   ★★(上記へのお礼欄) モンテスキューの内面の声は、そのようなものかもしれません。この意味では、彼は純粋な友情を見出したがっていた、ということはできるでしょう。  ☆ これでその定義をふくめて《友情》について了解したのではないのですか?  もうひとつ 同じ言い分を例示しておきましょう。  ★★(No.14お礼欄) ~~~~  私は No3 と No4 の回答を読んで、次のように考えています。  ( a ) 友情とは同胞である。同胞は自己のアイデンティティを確固としたものにするために不可欠な存在である、と。  ( b ) しかし、無論、齟齬が生じることはあるでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ ( a )の《同胞》を じんるいに広げただけです わたしの《社会関係性》というのは。  ( b )の《齟齬》は 《その社会関係性の実現の度合いが 相手それぞれによって違うということ。度合いが薄いということは 〈齟齬〉が生じているということ》に対応します。  あまりいい加減な応答をつづけるのは いただけません。  それに乗ったわたしがわるいとしてもです。  

noname#148745
質問者

お礼

>これでその定義をふくめて《友情》について了解したのではないのですか? この程度の説明で、何が了解できるのか、私にはわかりません。可能性がありうるという点について、そうかもしれないね、と言っただけ表面的な同意です。 次にNo14のお礼欄はあなたに向けたものではないのです。私の書いた部分を見て、自分の考えと接点があるとおっしゃりたいらしい。bについては、あなたに向けた言葉ではないのですから、何とも言えません。だが、a「同胞を人類に広げただけ」は見過ごせませんね。「だけ」と言って済まされるのですか? とすれば、あなたは思想や哲学に向いていないかもしれませんね。概念を拡張する際に、どういう手続きを踏むべきか、まったく理解していないことになるからです。そして共同体レヴェルの問題は、設問の趣旨から外れるので、他でやってくれとお伝えしたはずですが。

noname#148745
質問者

補足

投稿を控えてくださいとお願いしたにもかかわらず、その点について一切の釈明や説明もなく、一方的に見解を縷々の述べ、自分の意見に同意するようと議論をしかけてくるのはいただけません。討議倫理という点からしても、ネットのエチケットとしてもマナー違反でしょう。当分、ブロックさせていただきます。

回答No.15

友情とは,(敵に)小さな親切をしてやり, お返しに大きな親切を期待する契約である

回答No.14

こんばんは、Marie-Aimerさん。 >友情とは、誰かに小さな親切をしてやり、 お返しに大きな親切を期待する契約である。 ↑ 「契約」を「約束」としたらば… 【走れメロス を面白く語ってください】 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1153274156 心遣いのつもりが… 相手にとって迷惑なことだったりすると 「小さな親切、大きなお世話」ρ(`D´#) んっもぉぉっ! 心遣いのつもりが… 相手にとって「ありがとう!」て言いたくなるようなことだったりすると 「小さな親切、大きな親切」(^人^)感謝っっ♪ まね、相手のあることだからね、遣うって言ったからって…おっと、小遣いじゃないよ、心遣い これ「よかれ」と思う気持ちね。こちらの気持ちがどうであれ結果次第っちゅうのー 遣った先でどう受け取られるか相手次第なんだよなあー。祈りにも似た気持ち。いい風に転べ。 で、 「メリットやデメリットを考えない純粋な友情」つーのは、掛け値なしって言うか… 損得勘定抜きにってことだろうから、時に相手にとって憎まれようが厳しいことも言いと 友情を抱く同士であっても間違ってれば「間違ってる」正しければ「正しい」ともの言いあえる そういう間柄のことなのかな? もしそうであるなら、そういう間柄の友人はいるよ。 「何が関係を成立させる基盤になっている?」うーん、そうだなー、付かず離れづ どっかで見ていてくれてるからかなあー。 「あいつも頑張ってるからおれも頑張ろう」ってな感じかなあー。 「友情をどのように定義しますか? 」これは、あれだよ、元気の素。 「君たちがいて僕がいた」 http://www.youtube.com/watch?v=l1fRxmQTm6Y&feature

noname#148745
質問者

お礼

こんばんは。いろいろな回答者がいましたが、友情を実体験で分かっている方は、あなたなのかもな、という気がしつつ読みました。 さて、なるほど、お互いの進む道にお互いが敬意を払っていて、お互いが、お互いのやれる形でサポートをしているというわけですね。しかも元気の素というからには、あまり気を回さないでも、相手の存在だけで、幸福な気持ちになれる、と。このような基盤があるので、お互いに言い合っても、喧嘩にならないわけです。 こうした点を、私はNo3とNo4の回答を読んで、次のように考えています。友情とは同胞である。同胞は自己のアイデンティティを確固としたものにするために不可欠な存在である、と。しかし、無論、齟齬が生じることはあるでしょう。だから、 >心遣いのつもりが… 相手にとって迷惑なことだったりする こういう時は、単なるうわべの価値観の違いという以上に、相手との根本的な異質性を感じて、悲しくなるのです。お互いに同胞ではなかったのか、違うんのだな、と。こうした悲しみが重いものであるのは、自己のアイデンティティの基盤をカリッと傷つけられるからだと考えています。 しかし、もしよかったら、一つ、踏み込んだ質問させてください。あなたにとって、異性の友人は存在するのですか? というのも、おっしゃっているような「祈る気持ち」は、私に言わせると、恋愛に近いような気がするのでした。あまりに友情が重いものであるため、恋愛とほとんど変わらないのではないかと思えるのです。身も蓋もないいい方をすると、恋愛と友情の違いは、肉体関係の有無ということにならないでしょうか。そして、精神的なレヴェルでは十二分に結びつきを感じているのだから、残る問題は、相手がセクシーであるか否かという純粋な性の相性の問題にならないでしょうか。 恋愛と友情はよく似たものとみなされるので、友情の成分が大体わかった後は、その差異を考えなければ、十分な定義を出来ないと考えての質問でした。

noname#150036
noname#150036
回答No.13

お世話になってます. ボク個人の考えとして回答させていただきます. 1.契約説が正しいと思います. たとえば,友人が持っている物や人間関係のうち, 当人が,さほど価値を感じていないが,ボクにとっては とても価値が有るものを見つけた時に,無償で貸しても らえる.または真似させてもらえる保障があるからです. またその可能性が高い人を判断して(その人の行いを見て) 友人にしています.これはお互い様で歩み寄りです. もしかしたら,我々は気づかずに,原始的な器官の影響 を受けて判断しているのかもしれませんが,ボクは専門 ではないので,ちょっとわかりません. 精神分析理論では,自分の中に『赦しの輪』『救いの輪』 というシステムがあるそうですが,それを友情のなかに みいだしたならば,契約説が覆される場面もありそうです. というより形を変えた契約になるんでしょうね. 2.メリットのない友情は,少し仲良く,しかもお盆と 正月だけ.それでいて末永く.と続いている人がいます. 季節のお便り的な人物です. しかしデメリットとなる友人は,一人もいないです. 3.基盤になるのは,なつかしさでしょうか. しかもあまり頻繁に会わないこと.あまり手間がかから ないことですね.お互いに. 4.友情とは,ハイブリッドである. 一人じゃ出来ないときに,二人なら出来る. 1人+1人=2人が親密になる. 1人がへこんだとき1人が盛り上げる. ああ あまりにハイブリッドな人間関係. ※個人の感想であり効能には個人差があります(´ω`;)

noname#148745
質問者

お礼

ありがとうございます。基本にはメリットがあるが、ノスタルジーが補完的な要素を果たすと理解しました。つまり今現在の即戦力とならなくなってしまった「友達」でも、利益にならないと見捨てることなく、価値を新たに見出すというわけです。しかも、「あまり頻繁に会わないこと.あまり手間がかからないこと」とお書きなので、非常に一貫してらっしゃいますね。

回答No.12

 つまり むつかしく考えすぎなんですよ。  たぶん。まりえーめさんは。

noname#148745
質問者

お礼

わざわざどうも。しかし、そういうお言葉は明晰にお答えになることができた方だけが発せられるものと思います。私から見ると、あなたのおっしゃることは十分にそうではありません。有体にいうと、あまりに曖昧なので、何も考えていない人と紙一重に見えております。

noname#148745
質問者

補足

できれば、当分、投稿してこないようにお願いいたします。その理由は、紙幅を費やした割に、中身が薄いと感じたからです。また話もかみ合っていません。あなたと話をするより、他の回答者の意見の方が有益だと思うので、そちらの方に集中したいとも思っています。

回答No.11

 たぶんと書いておいたので 最後というのが決まりではなかったと言い訳できるわけです。  でも大風呂敷がいやだとおっしゃる。  ただどう大風呂敷であるか。これを明らかにしておくことが 対話のための最小限必要事であろうと思います。  ○ 友情をきづくのに けっきょく何もしない。ただそこに存在するだけである。あとは 声をかける機会があるかないかだけということになります。生まれつきの自然本性において 友情の素はそなわっているゆえに。  ☆ これが わたしにとって最も緻密な定義です。見解の相違において お納めくださいませ。  モンテスキューが 友情の構築に失望して何もかも打算に帰したということは 思い描いていた友情を捨ててしまったということですが もしこれに挫折していなければ いま定義しているわたしのようになるはずです。そこの違いだけだと思います。意外とかんたんだとお思いになりませんか? つまり風呂敷はちいさいでしょう?

noname#148745
質問者

お礼

>見解の相違において お納めくださいませ。 と書いてありますが、何もしないでよい、自然状態で良いとは何とも楽観的なお答えだなという感想をもちました。

回答No.10

 たぶん最後の投稿になるとおもいますが。  ★(No.8お礼欄) ~~~  たとえば、高校の同級生に感じる友情と、ネットで議論する誰かに対する友情は、同等の重みをもちますか? 私は持たないと思います。しかし、こうした区分けが、あなたの「友情」という語の使用によってはできないわけです。あまり私は、あなたの議論に意義を感じません。  ~~~~~~~~~~  ☆ 理論上誰れに対しても 友情として《同等の重みをもちます》。  理論上というのは 潜在性として――生まれつきそなわった自然本性として――という意味に取ってください。  あとは 実際にどの程度において友情が実現されているか。その度合いの違いということになります。

noname#148745
質問者

お礼

ありがとうございます。最後ということで、了解いたしました。おそらくあなたは、非常に大きなことをお考えになりたいのでしょうね。だから、「度合いの違い」と言って片付けてしまえる。しかし私は、細部を緻密に考えることに意義を見出すのでした。 というのも、私にしてみれば、ミクロな議論をきちんとしない限り、マクロな議論も成立しないと思えるからです。たとえば「親を愛するように、隣人を愛しなさい」という言葉があったとしますね。この時、「親を愛するとは何か」を定義しないと、「隣人愛」の性質は精密にわかりません。何かテキトーなことを言って終わってしまいます。同じことで、「友愛」という理論的な大ぶろしきを広げる前に、個人の「友情」を考える必要があると思えるのです。あなたが「同等の」と言ったところで、そのモデルになるケースを緻密に考えた上で、発展させなければ、説得性は出てこないでしょう。しかしこのモデルとなるであろうケースについて、あなたは「何か」という曖昧な言葉で片付けてしまったのでした。 もちろん個人情報を過度に書き込む必要はありません。だが、ある程度は個人的なことを書かないとわかりませんし、面白くありません。ましてや、あなたは人より器が大きいのでしょう? あなたの回答を読んでいて思いますが、全般的に、他人の書いたことには口を出したがるが、自分の意見を緻密ぬ煮詰めて表現するのが下手なのではないかという印象をもっているのです。ともあれ、双方関心の持ち方が違うのですし、それはすぐに埋まるわけではありません。ご投稿そのものが最後ということで承りました。

  • hekiyu
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回答No.9

1.モンテスキューの言葉をどのようにお考えになりますか?   ↑  欧米人は、婚姻ですら、契約と考えますからね。  日本人が感じる契約と、モンテスキューが感じる契約とは  異なるのかも知れません。  それはともかく、この定義に従えば、メリットの無い奴とは  友達になれない、てことになるでしょう。  これでは、まるで政治家のつきあいです。  結婚で言えば、政略結婚みたいなものです。  私は、逆に利害関係が無いからこそ、友達になれる  と考えております。 2.メリットやデメリットを考えない純粋な友情をお持ちですか?   ↑  そのように心がけております。 3. 2について、Yesであるのなら、何が関係を成立させる基盤になっているとお考えですか。   ↑  つき合っていて、楽しい、癒される、緊張しない、などですか。 4. 友情をどのように定義しますか?   ↑  共感、信頼があり、利害関係が無く、互いに尊敬し得る関係。  

noname#148745
質問者

お礼

ありがとうございます。 >私は、逆に利害関係が無いからこそ、友達になれると考えております。 なるほど、モンテスキューの意見は完全に違うというのですね。それはそれで承っておきます。しかし、あなたのご回答は、次のようなロジックにも考えられますね。つまり、利害関係が無いからこそ、緊張感が無くて楽しいし、適当な発言をして相手を慰めることもたやすい、話を合わせることも自由自在、と。 これも一つの友情のあり方でしょう。しかし、私には、そのような関係が非常に表面的な関係であって、「友情」と強調して考えるほどのものに思えないのです。実際、会話のエチケットを心得ている人なら、相手を不快にせずに話すことができるでしょう。エチケットを心得ている人と友人になりやすいことは確かです。しかし、それだけがすべてではないでしょう。 このように突き詰めて考えると、私は、あなたのご回答に、あまり満足できない次第です。もっと別に本質的な問題があると考えて、この質問をしておりました。

回答No.8

 ★★(No.6補足欄) ~~~  そういえば、あなたは前に、どこまでも平等で自由なコミュニケーションを取りたいとおっしゃっていましたね。友情が無ければ、それは不可能であって、友情こそ、あなたが関心を持つべきテーマではないかと思えます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ この主題は 次のような取り扱いからすれば 範囲が広がり過ぎるのではないかと思われます。  ★★(No.5お礼欄)おっしゃっているのは「友愛」であって、友情ではないと思います。話のスケールが共同体のレヴェルになっていますので。  ☆ つまりは《共同体レベル》における 《慈悲》あるいは《愛》といったテーマで論じるべきものだと思われます。  ちなみに 慈悲も もとは 友といった言葉から出たそうです。  そうして  ★(No.7お礼欄) ある程度、その連想をめぐらせる片鱗は書いてありますが、語の定義が無いので、意味が分かりません。  ☆ というお叱りを受けました。  こう定義します。  ○ 友情とは いま・そこにいるというただそれだけの存在をつうじて 互いに自由な批判をとことんおこなって行けるあいだがらである。見解の相違に遭っても そのようにして互いに了解しあえる信頼関係にある。  ☆ みづからの身を投げ打ってでも相手の状態をよくするというおこないは 伴っていてもよいのでしょう。なくても成り立つと考えます。  ですが 自同律だとまたお叱りを受けるかも分かりません。でしたら この定義の内容が ちょうど馬が合うという言い回しがあるように自然史過程として 成り立つということになるかと考えます。堂々巡りにしかならなかったでしょうか?  言葉にして説明する責めに誰もが任じなければならないと思いますが 少なくとも論理〔で表わす事態〕は超えているのが 友情なのではないですか? 逆に言うと 論理で示せたなら 友情はその論理の中に押し込められてしまいますから。  なぜ友情があると思うのか? という問いは 次の問いに似ています。 なぜわれわれは生まれて来たと思うのか?   ○ 友情とは 社会関係性(人は互いにかかわり合うということ)なり。  ☆ でしょうか?

noname#148745
質問者

お礼

補足、どうも、ありがとうございます。まず、共同体の話は別でやってください。友情はマクロな視点で見れば、友愛というべき共同体の問題に発展させられることは認めます。しかし、私はまず、ミクロな視点で、マクロの基盤となる個人の関係を考察しておきたいのです。将来的に新たに友愛について問うかもしれませんが、私のペースというものがありますから、あなたにとってはよくても、私はよくありません。実際、個人間の友情について、私の思考は明晰に未だなっていません。 さて、あなたからの友情の定義ですが、一端、承っておきます。しかし、これはかなり漠然としていますし、「いま・そこにいるというただそれだけの存在」というからには、場合によっては「知り合い」程度の浅い関係も含むようだと思います。いや、浅い関係をすべて、あなたは友情とおっしゃりたいらしい。というのも、「社会関係性(人は互いにかかわり合うということ)」を友情とまとめてらっしゃるからです。 このように言い切るのなら、友情という関係の意味は、いうなれば脱構築されてしまい、何も意味していないことになります。というのも、一切合財が友情になるからです。その結果、世界すべてが友人だと言ってもよろしいくらいの、茫漠とした視野が持てます。 だが、ここでいう「友情」とは、もう普通の意味の友情ではありません。というのも、もうすでに、友情という言葉そのものが機能しなくなっているからです。たとえば、高校の同級生に感じる友情と、ネットで議論する誰かに対する友情は、同等の重みをもちますか? 私は持たないと思います。しかし、こうした区分けが、あなたの「友情」という語の使用によってはできないわけです。あまり私は、あなたの議論に意義を感じません。

回答No.7

 No.6です。  ★ 「こころざし」を定義・説明してくださいませんか?  ☆ これは まづはほかの言葉として《夢》や《実行性を超えた現実》と言っています。  たぶん  ★ 精神的な同胞という意味で、「こころざし」とおっしゃっていますか?   ☆ これは 違うでしょうね。《精神的な》という規定は なじみません。《ただ そこに わたしと友とがいる》というところに成り立つものだと思うからです。  したがってわざわざ《同胞》という規定もしないでしょうね。《はらから》であれば――特に同じ日本語を話すのであれば―― 友情はつちかいやすいかも分かりません。  《政治運動》が関係ないことは すでに含まれていますね。  ★ あなたのそのご友人と、どのような「こころざし」を共有なさっていたのでしょうか。  ☆ 強いて言えば――《ただそこにいる》というだけではなく 強いて言えば―― この場合は 高校の同窓生であるという共通の基盤です。時空間を同じくしたというそれです。しかも同級生ではなく あまり話し合ったことはなかったのでした。それでも あとから(かなり歳を取ったあとから)その頃を振り返って話に花を咲かせるうちに かなり何かが培われたといった事情です。  人間の《現実》は 実行性のみによっては成り立っていない。という命題をめぐって問い求めた質問があります。もしそのような《事実世界プラスアルファ》というような場が 現実であって 人はその場の住人であるとなれば めでたし めでたしなのですが 果たしてどうでしょう?  ☆☆【Q:虚数とは その名のとおりに想像力の世界なのか?】~~~~   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6759902.html  (趣旨説明欄) 虚数とは その名のとおりに想像力の世界なのか?  まづ 推測がゆるされるとしたらのお話です。    ( あ ) 虚数は 現実とどうかかわっているのか?  この問いから出た考え(推測)ですが その名のとおりに    ( い ) 虚数とは 《想像をめぐらしたその観念の世界》である。  と言えるものであるのか? これが質問です。おしえてください。         *  さらに推測を交えた世界に入りますが 趣旨説明を述べます。  まづ ことは ひとの意志行為です。これに注目します。  たとえば実数であれば 意志のあり方は――その表明にまで到ればなおさらですが―― イエスかノーかあるいはその中間でまだ決められないか この二つないし三つに分かれると思われます。まづほかにはないでしょう。  ところが 虚数の概念を仮りに導入したら どうなるか?  たとえば イエスもノーもまだまだ決める段階にはない。いえ その情況は相手からその答えを求められ決断をも迫られている段階ではあるのですが どういうわけか(つまり これが 虚数の世界であるかも知れないのですが) 実数としての意志決定をしぶっている。  つまりは言いかえると これは 大きく見れば いまの段階としては不確かな実数の世界( a )とそして同じくいま考えあぐねているその想像の雲に乗った小世界( bi )とで構成される複素数( a+bi )としての実態である。ということになりましょうか? いえ どうなのでしょうか?  いまもし ひとがたとえば人間不信に落ち入っていて もはや実数としての意志決定を成し得なくなっているとしたら どうなるでしょう?   いまの仮説のかぎりで その人は 虚数の世界にのみあることになります。すべては 想像をめぐらしつづけている。と言えばまだ恰好がついているかも知れませんが 実際は その想像というのは うたがいに満ちさらにはその猜疑心が敵対心にまで広がっているかも分かりません。  もし人の生きることが 自己表現であり 自己表現は それとしておのれの文体を成すとしたら おそらくそれは《わたしがわたしであるそのわたしが わたしする》動態であると見ます。  言いかえると わが自己表現の文体は 《わたしがわたしである》その自己同一性のさらに自乗として限りなくつづく過程である。   《わたし》が 数として一であるならば 一の限りなき自乗として・つまりやはり一でありつつ また多少そこから脱線しても元の一に戻りつつ 生きる。  ところが 現実は 複素数である。かも知れない。虚数の動きが 心に忍び込んで来るのかどうなのか 起きる。おまけに《一》から脱線したときには 元の動態とその軌道が分からなくなる。もはやそこでは あたかもあの悪名高きムラカミハルキ・ワールドつまりモヤモヤ・ワールドのごとく 虚数なる想像一色の世界となる。  自己表現の動態としてありつつも 実数としての意志決定が・したがって意志表明も できない。できなくなる。代わりに ひょっとするとその想像力をたくましくしてあたかも巨大な繭の中にあそぶかのような時空間をすごすということかも知れない。    もしこの現実としての複素数なるわが文体が その中で実数が消えてゼロになり 虚数のみによって成るかたちを取ったとしたら どうなるか?  《わたし》の自乗の動態は あたかも マイナス一(いち)( -1 )となる。  これでは 社会における交通(まじわり)が成らない。成し得ない。  という憶測としての発見をきょう得ました。  ご教示ください。  * おまけもしくは余分:   悪名高きモヤモヤ・ワールドは 精神分析ワールドでもありますが 日本人のあいだでは やはりむしろブディズム――その悪しき部分――に放射能源はあるのではないか?  余計でした。つまり《さとり》についてのゴミ解釈が社会の処理能力を超えて無限に造り出されていまいか? 虚数としてかんたんに誰でも言えるのですよ。  ご教示を願います。  ~~~~~~~~~~~  強引にボールをそちらのコートに入れてしまった格好ですが。

noname#148745
質問者

お礼

ありがとうございます。ですが、正直、ほとんど意味が分かりませんでした。お答えは、Aではない、Bではない、Cでもない、というお話しで、では何なのだ?というのが私の疑問です。ある程度、その連想をめぐらせる片鱗は書いてありますが、語の定義が無いので、意味が分かりません。想像力で補うことはできるでしょう。しかし私は言葉で明晰に書かれたもの以外、申し訳ないですが、相手にしたくありません。 私のこうした態度に対する反論として、明晰でない存在について、虚数云々を持ち出されるかも知れません。しかし、私はまったく関心がないので、何も思いません。「ご教示願います」とあり、どうやらボールを投げ込んできたとあるからには、私の反応を求めているようですが、何も思いません。強いて言えば、何の関係もないことを、話の連想から持ち込んできたと捉え、あなたが私と雑談をしたいのかな?、私の質問にも明晰に答えていないのに話題を勝手に変えようとするとは失礼な方だな、と思うくらいです。

noname#148745
質問者

補足

あなたとしては明晰に書いたつもりなのかもしれないので、補足しておきます。 >まづはほかの言葉として《夢》や《実行性を超えた現実》と言っています。 普通の意味で考えると、志は、上記の言葉とはかなり違ったものです。言葉をまぜこぜにしないでください、という感想を持ちました。 >《はらから》であれば―― 同胞が平仮名になっただけではないか、と思えます。意味が定義してあり、その差異を強調する形で示してくだされば、了解できたかもしれません。 >何かが培われたといった事情 「何か」では何も答えていないのと同じなのです。その「何か」を聞いているのですから。 おそらく私の質問に明晰にこたえきったわいと思い、それよりは自分の問いに答えてみよ、というところなのでしょう。しかし、こういう破格のものに、私は応答しません。これは討議論理としても、ネットのエチケットとしても当然のことに思っています。あしからず、ご了承ください。

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