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仏教の『慈悲』をほかの言語・宗教・表現に置き換えて下さい
私は、聖書をよく読みます。 また、日本の親鸞が説いた教えも大好きです。 これらは、弱者や文盲の人や罪人でも、信仰を受け入れることによってもたらされる普遍的な救いであると説いており、マクロな視点でみれば共通する教えではないか。と考えていました。 *1キリスト教世界では、死後救われるかは最後の審判までわからない…うんぬんかんぬん・・・というのはとりあえずおいといて、イエスをキリストと信じ、主を崇拝することによって得られる『現世での罪からの解放と救い』とさせてください。 *2親鸞の教えは阿弥陀様の慈悲にすがることによって、死後での救いが…うんぬん・・・ですが、これも、信仰することによって得られる現世での充足感のようなモノで捉えています。 かなり乱暴ですが、私の『慈悲』への認識は以上です。 で、質問です。 (1)慈悲を別の言葉に置き換えるとどんな単語、もしくは表現が相応しいのでしょうか。(日本語でも良いです。) 参考ウエブhttp://shinran-bc.tomo-net.or.jp/report/report03_bn06.html (2)キリスト教世界との愛の4形態と比較して説明すればどうでしょう? a.エロス 情愛にもとづく情熱的な愛(条件付かつ情熱的な愛) b.フィリア 理性的な人間の間に成立する友情としての愛(友愛) c.ストルゲー 肉親への愛情(親子の愛)、 d.アガペー キリスト教的な愛、神への崇拝 (3)質問自体が間違っている。慈悲とキリスト教世界のイエスの教えに共通点はない!!という意見をお持ちの方は、できればわかりやすい言葉で教えてください。 (1)・(2)・(3) どれかにお答えいただければ嬉しいです。 *編集部さまへ、内容が重複する点があり、本質的には一つの質問です。 削除する前にその辺に留意していただければ幸いです。
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仏陀の慈悲は、階層的な愛を鳥瞰し、表現したものです。愛にも段階があるのですね。 愛するための愛、与えるための愛(隣人を愛する愛)、生かすための愛(先生が生徒に対する愛)、許すための愛、存在する愛(救世主の愛、つまり太陽のような愛)このような階層的な愛を慈悲といっていますね。イエスさまの平面的な愛、仏教で言えば法華経にあるすべてのものに仏性があるという愛ですね。仏教には、愛にも平等愛と差別愛があるということなんです。その言葉が慈悲ですね。天上界からあらゆる階層に降り注ぐという法雨といってもいいですね。 慈悲からみれば、 欲望の愛:エロス 情愛にもとづく情熱的な愛(条件付かつ情熱的な愛) 愛:フィリア 理性的な人間の間に成立する友情としての愛(友愛) 愛:ストルゲー 肉親への愛情(親子の愛)、 平等愛:アガペー、キリスト教的な愛、神への崇拝 親鸞は、平等愛を広め、空海は差別愛を追求したのですね。仏教は、愛も広大無辺の広がりがあるのですね。古いキリスト教からはなれ慈悲の世界に入ることがイエスさまの望みでもあるのですね。
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- hw4183
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垂直なるものに上求菩提下化衆生という仏教の一つの形があります。 これは、悟りを求めて、修行する修行者、仏に向かって精進する姿勢、と 得た悟りの力で、慈悲を推し進めていく、伝道していくという事でありますが、この垂直の愛、仏から流れ出したる慈悲の光を、無我なる自分を通じて 衆生に流す、伝えていく形でありますね。またこの縦のラインに対して、 水平な愛、同じ同胞として、同じ仏子として、愛し合う、許しあう、連帯してつなぎ合う愛、隣人の愛ですね。この横のラインに各個人個人の存在がある。この交わった、一点に己の立場というものがあるのですね。 この意味が信仰をあらわす十字架、慈悲を表すいみでの十字架としての正しい意味でもある、のだと思います。 キリスト教的十字架の意味の一つに原罪の象徴としての意味も込められているとおもいますが、(また許しの意味、イエスの贖罪、他などなど) (縦の線)天なる神仏から自分、自分を通じて衆生に教えを伝える、悟りを伝える、 (横の線)隣人を愛します、他の人を愛します、同じ同胞として愛が成就いたしますように、愛が広がりますように、という十字を切ったならばまた少し違う慈悲を感じ取れるのではないかと思います。 また、縦の線が永遠の時間、大宇宙ができる前、大宇宙が消滅したあと、 アルファ~オメガ はじめ無く終わり無き時間、 時間における縁起、を表し、 横の軸が無限の空間、大宇宙をも超えた、霊界をも含んだ果て無き空間、 空間における縁起、 この交わった小さな小さな一点に、己が今、現在、存在している、生かされている、という大きなスケールでの十字架を切ったならば、仏神の偉大な、無限の慈悲を感じ取れるのではないかと思います。永遠の生命、永遠の転生は、神から分かれた魂が与えられた最大の慈悲であるから、だと思います。
お礼
大変お待たせしました。 hwさんの捉えている慈悲・祝福・救い、のイメージは共感できる所が多くかったのですが、残念な事に、仏教の救いがだんだんわからなくなってきました。 カルト問題の極端な宗派を調べてゆくうちに、親鸞と日蓮の関係をもうすこし理解することが必要と思えてきました。 一旦こちらをしめきり、新しい質問をしてみることにします。 回答、ありがとうございました。 併せて、回答を下さった全ての方にも感謝申し上げます。 哲学・思想をテーマにするとレスは多くなり、二方のみ選別してポイントを差し上げるのはとても辛いことですが、ご了承ください。
(2)マイトレーヤが普遍的な友情を表現しているので bと共通項があるようにも思われます。
お礼
マイトレーヤ、ちょっと調べてみました。 古代インドのヴェーダの契約神ミトラからの派生語 【友情ある・普遍的な友情】 確かに、そのように思います。 勉強してみます。
- ghostbuster
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こういうご質問に対して、ふさわしい回答であるかどうか、かなり疑問ではあるのですが、このところ「翻訳論」に関わっているので、そちら方面の問題意識から。 >仏教の『慈悲』をほかの言語・宗教・表現に置き換えて下さい。 というのは、仏教の鍵概念である「慈悲」ということばを翻訳してください、というご質問であるかと思います。 そもそも「翻訳」ということが要請されるようになったのは、異なる言語を有するひとびとが、その宗教を理解することの必要性から起こってきた、という経緯があります。 そういうなか、たとえば「川」という語が受け手に与える意味は、そのことばによって異なる、そのために、翻訳ということなど、土台不可能なのだ、という考え方も、相当に早くから出てくるわけです。 ところが日本では、明治時代、西洋に追いつけ、追い越せとばかりに、西周なんかが、意味の重層性を端から切り捨てながら、怖ろしい勢いで翻訳語を作っていく。そうすることで、たとえば自由であるとか、社会であるとか、個人であるとか、西洋社会が伝統的に培っていった概念を、一語一義に置き換えていったわけです。 わたしたちは未だにこの西周的発想から自由にはなっていない。 わたしは仏教のことなんて、何も知らないのですが、「慈悲」が仏教にとって、非常に重要な、中心的な思想であることぐらいは知っていますし、あるいは「慈」がサンスクリット語の「マイトリー」の漢訳、「悲」が「カルナー」の訳語、これは辞書を引いたら載っていました。 こういう重要な語彙の翻訳を考えるとするならば、もうすこし、「慈悲」ということばそのものの理解、「慈悲」という日本語を、しかも自分の日常感覚で受け取って、それを概念操作するのではなく、やはりサンスクリット語の原意から遡って、重層的に理解していく必要があるのではないでしょうか。 少なくとも、わたしは「慈悲」を >信仰することによって得られる現世での充足感のようなモノ ととらえることはできません。 あるいはまた >イエスをキリストと信じ、主を崇拝することによって得られる『現世での罪からの解放と救い』 をキリスト教の「慈悲」(このことば自体が、日本人に受け容れられやすいように翻訳されたものでしょう)、と理解できるか、という疑問もあります。 日本語聖書に訳されている「慈悲」の部分を、ラテン語聖書と対比しつつ見れば「正典」ではどのようなことばが使われているのかを知ることは、比較的容易ではないかと思います。 外国語で書かれたテクストを理解する最善の方法は、それを自分の母語に翻訳することだ、という考え方があります。わたしはこれに同意します。 このとき、翻訳というのは、単純に、あることばを別のことばに置き換えることではありません。内容と形式が一体となっている(リンゴとその皮のように)原典に、傷をつけ、剥ぎ取ってしまうものであることは確かなのです。 その暴力性を自覚すること。 そうして、剥ぎ取ったあとに、自分の限られた知識と狭い経験から、「似て見える」外皮をかぶせるのではなく、「王のマント」(ヴァルター・ベンヤミン)をかぶせること。少なくとも、その努力をすること。 これは、職業としての翻訳家だけでなく、外国語テクストを翻訳によって理解しようとする学習者ひとりひとりに要求されていることだと思うのです。 ベンヤミンは「翻訳は、原作の意味にみずからを似せるのではなくて、むしろ愛をもって細部に至るまで、原作のもっている志向する仕方を己れの言語のなかに形成しなければならない。そうすることによって原作と翻訳は、ちょうどあのかけらがひとつの器の破片と認められるように、ひとつのより大いなる言語の破片として認識されうるようになるのである」(『翻訳者の使命』『ベンヤミン・コレクション2』ちくま学芸文庫)と言っています。 仏教の「慈悲」を、キリスト教に照らし合わせて理解しようという、質問者さんの問題意識は、たいそうご立派なお考えであると思います。立派であるからこそ、一語一義的に捉えて、似た英語なりなんなりを引っ張ってくるのではなく、その思想の根源に、原典に記された言語そのものを理解することも含めて、遡っていくことが必要なのではないか、という感想を持ちました。 場違いな意見であれば、どうぞお許しください。
お礼
●すばらしい回答、ありがとうございます。 >こういう重要な語彙の翻訳を考えるとするならば、もうすこし、「慈悲」>ということばそのものの理解、「慈悲」という日本語を、…中略します) >やはりサンスクリット語の原意から遡って、重層的に理解していく必要が>あるのではないでしょうか。 まさに、その通りだと思います。 そして、私が解釈者であればghostbuster様がおっしゃるプロセスで、自信を持って世に送り出せる解答を捉える為、一つ一つ足がかりを探してゆくと思います。 ご存知のように質問をした段階で、参照ウエブの(1)模範解答を提示しています。 ★慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。 *親鸞仏教センターの模範解答に依存はありません。 でも、キリスト教と共有できる救いを仮定するには、双方に条件付けを行う必要がありました。 ●親鸞の『慈悲』を正確に捉えるならサンスクリット語のアミターバから論じなければなりません。 また、ブッタから辿り、→→→道元→法然→親鸞の流れも理解しなければなりませんし、当時の歴史・思想背景も頭に入れておく必要があると思います。 ●親鸞は平等思想に辿りつきましたけど、それは、旧仏教から見れば超越でなく愚超であり、文字通りの破戒僧でありました。 ですが、親鸞は文盲の農民にも阿弥陀如来に懇願することによって救いがもたらされると説いたわけです。つまり、彼らにも理解できるか、理解できなくとも救いがもたらされると親鸞は『慈悲』の名のもとに説いたわけです。 この背景を留意するとき、信仰思想(良い表現が思いつきません)的には知識に執着して本質を見失う可能性があり、私が選択したのは様々な見解を持つ現代に生きる人々それぞれの解釈を聞き、模索する道なのです。 ★宗教においてお互いが共有できる普遍的な信仰を模索するとき、 実際に、現代のクリスチャンがどう『慈悲』によって救いを捉えられるのか。キリスト教の排他性を超える、もしくは内包する信仰を『慈悲』の名において見つけられるのか、というのが私の興味です。 とはいえ、回答者さまのご指摘はその通りであり、本質を見失わないように注意したいと思います。 ありがとうございました。
- hw4183
- ベストアンサー率17% (15/86)
すばらしい答えが出ていますので、補足程度に、 慈悲とは一言で言うと垂直の愛です。慈悲は智慧が含まれていますね。 悟りと智慧の立場に依る愛、 愛が智慧の力によって、発展段階的な形を採るのだと思います。 親鸞さんのいう慈悲は水平ですので正確にはキリスト的愛、です。 阿弥陀様はイエス様の事です。(猫型宗教)日本でキリスト教が広まらないのは浄土門があるからですね。仏教の看板を掲げたキリスト教があったからですね。 本来の慈悲とは教えを学び実践してのみ、(サル型宗教)唯一その存在を認識できますゆえ、念仏をいくらあげても、すがり付いても、心のあり方が間違っていたら、救われませんのですね。信じたらなんびとも救われるという、可能性として希望としては正しいのですが、心の段階、悟りの段階に応じた魂の境涯というものがあるのですね。 イエス様の愛は水平の愛が基本スタンスです。もちろん救世主としての悟り、慈悲は体現しましたでしょうが、全人類に対しての、愛を教えてくださる愛の専任教師、なんですね。お釈迦様は慈悲の専任教師、人類の先生は お二人いらっしゃるのですね。 仏弟子が法灯をつなぎつなぎして千数百年、仏教的愛(慈悲)の中に水平の愛がやや不足してきたので、イエス様の愛を学んだ弟子、をかなり仏弟子として天上界から降ろしました。 質問者様の大好きな親鸞は実はパウロの生まれ変わりです。 破戒僧として自己の罪の意識とその救済はパウロ的宗教倫理の形とほぼ同じ魂の傾向性ですね。 浄土門の法然房源空は聖トマス、歎異抄を残した親鸞の弟子の唯円はマタイ、室町時代に中興の祖と言われた蓮如はアンデレです。 ちなみに、浄土信仰で念仏往生を説いた恵心僧都源信はパプテスマの ヨハネ、その後、スウェーデンボルグとして活躍しました。 どちらも霊界探訪記を得意とした霊能力者でしたね。 また、宗教改革のルターは日本では日蓮として仏教を今一度盛り上げました。また日蓮の弟子にも過去世、イエスの弟子だった方が何人かいるようですね。愛と慈悲、他力門と自力門、易行道と難行道、 このバランスが宗教の個性であり、人類が選択科目としてどちらも学んできた、わけですね。 天上界にはお釈迦様、イエス様を超えた、大毘瑠遮那仏、エロヒム神、 が存在し、地球を抱きかかえている姿、が究極の慈悲でありましょうか。 また、数千年に一度、救世主や仏陀が生まれますが、数億年に一度、 主が降臨します。片目の亀が流木の穴に顔を出したこの瞬間が今の 日本です。これこそが最大の慈悲ですね
お礼
hw4183さん、その節はどうも、今回もお世話になります。 >慈悲とは一言で言うと垂直の愛です。慈悲は智慧が含まれていますね。 >悟りと智慧の立場に依る愛、 >愛が智慧の力によって、発展段階的な形を採るのだと思います。 >親鸞さんのいう慈悲は水平ですので正確にはキリスト的愛、です。 「親鸞の説いた愛(慈悲)は水平であり、キリスト教的愛です」の下りは、私も共感できます。仏教的には基本的に降り注ぐ法雨(愛)のベクトルが垂直だが、全てのものに平等に降り注ぐので結果として平行な愛となる。と感じたのですが、あってますでしょうか。 >仏弟子が法灯をつなぎつなぎして千数百年、仏教的愛(慈悲)の中に >水平の愛がやや不足してきたので、イエス様の愛を学んだ弟子、 >をかなり仏弟子として天上界から降ろしました。 >質問者様の大好きな親鸞は実はパウロの生まれ変わりです。 >破戒僧として自己の罪の意識とその救済はパウロ的宗教倫理の形と >ほぼ同じ魂の傾向性ですね。 ★非常に面白いです。 是非は捉えようがありませんけど、輪廻転生の名において、キリスト教世界と仏教をつないで、肯定してしまうという思想は理想的ですね。 hwさんのこの捉え方は、どのような思想の影響を受けたものなのでしょうか。 差し支えなければ教えて下さい。
- kigurumi
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もう一個 宿題の提出。(これでした 前見た内容は) http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Sakura/8452/iesunennpu.htm
お礼
宿題の提出に、もう一度お礼申し上げます。 とりあえず、この本を検索してみますね。 取り寄せて、真偽を確認してみます。 kigurumiさんお好みの話題を用意しておきましたので、アバターでの登場にも期待しております。 では。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
>英語文化圏(キリスト教圏)の人にmercyでは、慈悲を捉えることは出来ないように思います。 んー よくmercyって言葉は聞きます。 無理無理無理 って事を頼むとき使われていたような。 映画では殺人者に対して命乞いをするとき使われていたような気がします。 >きっと、だからこそ参照ウェブですったもんだの末にLOVEで落ち着いた のではないかと。 このラヴなのですが、『許す』って意味なんじゃないかと。 聖書に書いてありましたが、人が罪を犯しても、相手が罪を認め許して欲しいと反省を表せば 許す って問答があったように記憶しています。 弟子が「それでもまた罪を犯したら?」って聞くとイエスは「相手がそれが悪いことだったと認めたら許しなさい」って。 じゃあ 「何回許せばいいの?」って弟子が聞くと、「相手が懺悔した分だけ許しなさい」 みたいな問答だったように思います。 つまり 相手が非を認めれば、そこには愛が干渉し、怒りを消し去るってことじゃないかと。 これをイエスは精霊といっていたんじゃないかと、私の解釈では思います。 >そちらの立場の方からの答えはどうなんでしょうかね。 どうなんでしょうね。 じーーーっ。 答えが返ってくるまで待ちましょう。 >★「同一である」箇所も感じられます。 はい イエスは他の宗教の影響も受けていたように思えるので、その思想はどこかの宗教のみの概念 とはならなかったのではないかと思えます。 つまり いい取りで、それはそれぞれの宗教の長所をうまく結合させた彼独自の思想だったんじゃないかと思えます。 それから、宿題してきました。 これかしら? http://www5f.biglobe.ne.jp/~budda/tetra/isi/ http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Sakura/8452/seiissadenn.htm
お礼
kigurumiさん、お時間を頂きました。(汗 >つまり 相手が非を認めれば、そこには愛が干渉し、怒りを消し去るって>ことじゃないかと。 >これをイエスは精霊といっていたんじゃないかと、私の解釈では思います。 非常に共感できます。信仰的にはともすれば、『相手が非を認めれば』という箇所をすっとばすことによって普遍的な愛や赦しを語る事があるように思うのですが、実際の自分の周りの人間関係に当てはめてみると、コミュニケーションの積み重ねの上に共感があり、愛と赦しに繋がってゆきます。 ★宿題、ありがとうございます。 キリスト教世界としては、認めたくない資料なんでしょうね。 考古学的には価値のあるものなんでしょうか。 すごく面白いのですが、トンデモ系なのかどうかまだ判断できません。(^^
>(1)慈悲を別の言葉に置き換えるとどんな単語、もしくは表現が相応しいのでしょうか。(日本語でも良いです。) A 抜苦与楽 この世の苦悩を癒すうるおい 解説 大乗仏教の慈悲 三種の慈悲・・衆生縁、法縁、無縁の慈悲。 衆生縁 :慈悲心を持って一切衆生を視ること、父母兄弟姉妹の如く、常に苦を抜いて楽を与えようと思う心。 法縁 :煩悩を断じた聖者が空性に達して、種種の諸法を認知すること。 無縁 :如来そのものを観ずることであるとも、如来が空そのものを観ずることであるともいいます。 無縁の中で、後者の場合は、如来は無縁の大悲といい、如何なる機縁もないのに如来はあまねく一切衆生に大慈悲を垂れることを指しています。 「観無量寿量」には、仏心とは大慈悲これなり、といい、この無縁の大悲を表しています。 >(3)質問自体が間違っている。慈悲とキリスト教世界のイエスの教えに共通点はない!!という意見をお持ちの方は、できればわかりやすい言葉で教えてください。 1)の考察より「慈悲」に関しましては共通点は無いように感じられるのですが如何でしょうか?
お礼
mineosanさん、とても丁寧な解説を頂き感謝します。 ●とりあえず、(1)の回答については、ちょっと調べながら勉強します。 不本意ながら、現在の私には理解出来ないところがあり、即レス出来ません。(^^; ★(3)について 1)の考察より「慈悲」に関しましては共通点は無いように感じられるのですが如何でしょうか? うーん、そうですね。 衆生縁:慈悲心を持って一切衆生を視ること、父母兄弟姉妹の如く、 常に苦を抜いて楽を与えようと思う心。 のくだりは、『隣人愛』に共通するような気はしますが、だからといって 共通しているといえるものではないですね。 皆さまの回答を読んでいて思ったのですが、キリスト教と仏教で、「崇拝への対象」と、「祈りをささげる人」の間で行き来する「愛」のベクトルに差があるように思うのです。 もう少し、考えて見ます。 回答、ありがとうございました。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
1) mercy です。 http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=mercy&kind=ej&kwassist=0&mode=0&ej.x=24&ej.y=5 3) どこの仏教だったか忘れましたが、イエスのいた痕跡があるようです。 従って、イエスはそこでも修行か悟りをひらき、教祖になっていたかも しれません。 その後、中東に来たのかもしれません。 そうなると、イエスの言う愛と仏教の愛は同一なのかなーって思います。 どこの宗派だったか今思い出せませんが、探せたら報告します。
お礼
kigurumiさん、回答に感謝します。守備範囲広いですね。(^^ >1) mercy です。 ●これもそのものズバリですね。 日本人がmercyを読めば、なんとなく慈悲の意味を捉える事が出来ると思うんですが、 英語文化圏(キリスト教圏)の人にmercyでは、慈悲を捉えることは出来ないように思います。 きっと、だからこそ参照ウェブですったもんだの末にLOVEで落ち着いた のではないかと。 そちらの立場の方からの答えはどうなんでしょうかね。 >3)イエスの言う愛と仏教の愛は同一なのかなーって思います。 現在の私の考えだと、共通しているところはあると思うのですが、 布教や正典の成立などに考えを広げて考察すると、 ★「同一だった」という解釈になる気がします。 でも、 ★「同一である」箇所も感じられます。その辺が頭の痛いところです。 回答、ありがとうございました。
- yuyuyunn
- ベストアンサー率41% (20359/48650)
(1)慈しみでしょう とらわれない心、差別も偏見もなく、と言うことではないですか? わたしも、キリスト教も仏教も根本的には違いがないと思います
お礼
素早い回答に感謝します。 ●そのものズバリの簡潔な回答ありがとうございます。 私も >(1)慈しみでしょう >とらわれない心、差別も偏見もなく、と言うことではないですか? で、かなりいい線いってると思います。ただ、それが回答になっているのは、なんとなく 内包している意味がわかる大多数の日本人にとってあって、 異なる文化・宗教間では、この説明だと、「単なる同情」などと勘違いされる気もするので、今回の質問になりました。 yuyuyunnさんの仰っている事、私はよくわかります。 回答、ありがとうございました。
- Quant
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(3)について 初期の仏教では、仏陀とは梵語で"めざめた"という過去分詞で、"真理を悟ったもの"という意味のようです。つまり、仏とは人のことであり、キリスト教のような神ではなかったようです。これがチベット、中国を経て日本に来る間に仏は絶対神聖なものとなり一神教に変貌してしまったようです。こういった歴史があるため、浄土真宗に限らず、大乗系仏教は少なからず一神教と共通性があるように思います。 ということで、初期の仏教とキリスト教の間には、違いがありますが、現在日本に伝わっている仏教とキリスト教には大きな違いはないと思います。 ということで(2)についていえば、慈悲=(神学的な意味の)love(神の慈愛)だと思います。
お礼
素早い回答に感謝します。 >チベット、中国を経て日本に来る間に仏は絶対神聖なものとなり一神教に>変貌してしまったようです。こういった歴史があるため、浄土真宗に >限らず、大乗系仏教は少なからず一神教と共通性があるように思います。 >ということで、初期の仏教とキリスト教の間には、違いがありますが、 >現在日本に伝わっている仏教とキリスト教には大きな違いはないと思います。 ●仰るように現在伝わっている仏教は、日本においてさまざまな発展をして独特な形になりました。、一方、現代キリスト教について考えるとき、 カトリックは日本でもカトリックであり教義は共通しているわけですが、 日本独特の感性による捉え方というものが存在する気もします。 この辺は、今度はクリスチャン寄りの視点で考えてみたいと思います。 (2)やっぱり、Love(神の慈悲)になってしまうのですね。 Loveという言葉は、英訳された聖書では共通して使われていますし、 非常に広い意味を持っているので、正確なニュアンスを伝えるのは大変でしょうね。 ありがとうございました。
お礼
素早い回答に感謝します。 >仏陀の慈悲は、階層的な愛を鳥瞰し、表現したものです。愛にも段階があるのですね。 >愛するための愛、与えるための愛(隣人を愛する愛)、 >生かすための愛(先生が生徒に対する愛)、 >許すための愛、存在する愛(救世主の愛、つまり太陽のような愛) >このような階層的な愛を慈悲といっていますね。イエスさまの >平面的な愛、仏教で言えば法華経にあるすべてのものに仏性がある >という愛ですね。仏教には、愛にも平等愛と差別愛があるということ >なんです。その言葉が慈悲ですね。天上界からあらゆる階層に降り注ぐと>いう法雨といってもいいですね。 ●一口に慈悲といっても、恐ろしく懐の深い、さまざまな愛を内包しているのですね。 >法華経にあるすべてのものに仏性があるという愛ですね。 うーん、深いです。勉強します。 愛ひとつとっても、仏典の解釈は広大無辺の広がりがあるというのは すごいですね。慈悲の世界に入ることがイエスさまの望み・・・のくだりは同感です。 丁寧な回答、ありがとうございました。