※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:現代文がわかりません)
現代文がわかりません
このQ&Aのポイント
現代文がわからない方への解説として、浄瑠璃寺での馬酔木の花の経験を通じて、自然と人間の一体化を感じることができるようになると述べています。
浄瑠璃寺の廃墟を取り巻く平和な風景に、少しく悲愴な懐古的気分が漂っており、自然と文化的な遺産が一つになる第二の自然が生まれている様子を描いています。
質問文章では、現代文がわからないという悩みが述べられていますが、現代文を学ぶことにより、自然と人間のつながりや美しい風景を感じることができる可能性が示唆されています。
すいません。お手上げです・・
よろしくお願いします。
この春、僕は前から一種の憧れをもっていた馬酔木(あしび)の花を大和路のいたるところで見ることができた。
その中でも一番印象深かったのは、奈良へ着いたすぐそのあくる朝、途中の山道に咲いていた蒲公英(たんぽぽ)やなずなのような花にもひとりでに目がとまって、なんとなく懐かしいような旅人らしい気分で、二時間あまりも歩き続けたのち、ようやくたどり着いた浄瑠璃寺の小さな門の傍らに、ちょうど今を盛りと咲いていた一本の馬酔木をふと見いだした時だった。
最初、僕たちはその何の構えもない小さな門を寺の門だとは気づかずに危うくそこを通り越しそうになった。その途端その門の奥のほうの、一本の花盛りの緋桃の木のうえに、突然 (1)「なんだかはっとする」ようなもの、―― イ「ふいと」そのあたりを翔け去ったこの世ならぬ美しい色をした鳥の翼のようなものが、自分の目に入って、おやと思って、そこに足をとめた。それが浄瑠璃寺の塔の錆びついた九輪だったのである。
何もかもが思いがけなかった。 ――さっき、坂の下の一軒家のほとりで水菜を洗っていた娘に尋ねてみると、「九体寺(くたいじ)やったら、あそこの坂を上りなはって、二丁ほどだす」と、そこの家で寺を尋ねる旅人も少なくはないとみえて、いかにもはきはきと教えてくれたので、僕たちはそのかなり長い急な坂を息をはずませながら上りきって、さあもう少しと思って心もち先を急いでいた。あちこちに桃や桜の花が咲き、一面に菜の花が満開で、A「あまつさえ」 向こうの藁屋根の下からは、七面鳥の鳴き声さえのんびりと聞こえていて、――まさかこんな田園風景のまっただ中に、その有名な古寺が――はるばると僕たちがその名にふさわしい物古りた姿を慕いながら山道を骨折ってやって来た当の寺があるとは思えなかったのである。
「なあんだ、ここが浄瑠璃寺らしいぞ」僕は突然足を止めて、息をはずませながら言った。桃やら桜やら松の木の間などを、その突き当たりに見える小さな門のほうへ行った。どこかで七面鳥が鳴いていた。
その小さな門の中へ、石段を二つ三つ上がって、入りかけながら、「ああ、こんなところに馬酔木が咲いている」と僕はその門のかたわらに、ちょうどその門とほとんど同じくらいの高さに伸びた一本の灌木が一面に細かな白い花をふさふさと垂らしているのを認めると、あとから来る妻の方を向いて、(3)「得意そうに」それを指さしてみせた。
「まあ、これがあなたの大好きな馬酔木の花?」妻もその灌木のそばに寄って来ながら、その細かな白い花を仔細に見ていたが、しまいには、なんということもなしに、そのふっさりと垂れた一塊を掌の上に載せてみたりしていた。
どこか犯しがたい気品がある。それでいて、どうにでもしてそれを手折って、ちょっと人に見せたいような、いじらしい風情をした花だ。いわば、この花のそんなところが、(4)「花というものが今よりかずっと意味深かった」万葉人たちに、ただ綺麗なだけならもっと他にもあるのに、あおれらのどの花にも増して、いたく愛せられていたのだ。――そんなことを自分のそばでもってさっきからいかにも無心そうに妻のしだしている手まさぐりから僕は ロ「ふいと」、思い出していた。
僕は、それにしてもまあ何という平和な気分がこの小さな廃寺を取り巻いているのだろうと、いまさらのようにそのあたりの風景を見回していたりした。
かたわらに咲いている馬酔木よりも低いくらいの門、誰のしわざか仏たちの前に備えてあった椿の花、の七本の大きな柿の木、秋になってその柿をハイキングの人々に売るのをいかにも楽しいことのようにしている寺の娘、どこからか時々、鳴き声の聞こえてくる七面鳥――そういうこのあたりの全てのものがかつての寺だったそのおおかたが既に廃滅してわずかに残っているきりの二、三の古い堂塔を取り囲みながら――というよりもそれらの古代のモニュメントをもその生活の一片であるかのようにさりげなく取り入れながら、――そこにいかにも平和な、いかにも山間の春らしい、しかもそのどこかに (5)「少しく悲愴」な懐古的気分を (6)「漂わせている。」
自然を超えんとして人間の意志した全てのものが、長い歳月の間にほとんど廃亡に帰して、今はそのわずかに残っているものも、そのもとの自然のうちに、そのものの一部に過ぎないかのように、融け込んでしまうようになる。そうしてそこにその (7)「二つのもの」が一つになって――いわば、第二の自然が発生する。そういうところに全ての廃墟の言い知れぬ魅力があるのではないか?――そういう考えさえも今の自分にはなんとなく快い、なごやかな感じで同意せられる。
問1.A「あまつさえ」の意味を書きなさい。
問2.(1)なぜ「はっと」したのか、説明しなさい
問3.イ、ロの「ふいと」にふさわしいものをそれぞれ次から選びなさい。
ア・なんとなく イ・ゆっくりと ウ・突然に エ・懐かしく
問4.(3)僕のどんな気持ちを表しているか、説明しなさい
問5.(4)「花というものが今よ・・」はどういうことか、簡潔に書きなさい。
問6.(5)「少しく悲愴」なのはなぜか、説明しなさい
問7.(6)「漂わせている。」の主語は何ですか?
問8.(7)「二つのもの」とは何と何か、文中より抜き出しなさい。
問9.文中に何度か登場する七面鳥の鳴き声は何を象徴していると考えられるか、文中より五文字以内で抜き出しなさい。
問10.作者が、浄瑠璃寺の春を気に入った理由としてふさわしと思われるものを次から選びなさい。
ア・頭の九輪がこの世ならぬ美しい色をした鳥の翼のように見えたから。
イ・浄瑠璃寺が平和な田園風景のまっただ中にあったから。
ウ・門の所に馬酔木の花が咲いていたから
エ・浄瑠璃寺が廃墟になっていたから
お礼
ありがとうございました。