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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:縄文土器の美を 現代人は作り出せるか?)

縄文土器の美を現代人は作り出せるか?

このQ&Aのポイント
  • 現代人が縄文土器の美を再現できるかについて考えてみましょう。
  • 縄文人の土器には火焔型土器がありますが、その美しさは一部の人によって評価されるものです。
  • 現代において、縄文土器の美を超える作品は出ていないのか、または別の種類の作品で同等の美しさが表現されているのか、考えてみる価値があります。

質問者が選んだベストアンサー

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noname#146457
noname#146457
回答No.6

bragelonneさん、 >あなたは わたしがボーメのフィギュアの実物を見て 縄文土器よりうつくしいと言うまで ぶつぶつ不平を言い続けるつもりですか? >もし鈍感な人間に フィギュアの魅力をおしえてやりたいというのなら もっと言葉を尽くして 実物を それでは手に取ってみようと思わせるところまで がんばらばくっちゃあ。ただ すねているってんぢゃあ。でしょ? ? それって…逆ではないでしょうか。 bragelonneさんご自身のほうこそ、なぜボーメのフィギュアという、至極まっとうな回答が寄せられたのかをお考えになる必要がありましょう。 あるいは、火焔土器とボーメは同列と言えるのでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 ☆☆(No.4お礼欄) ~~~~  何もあなたがフィギュアのうつくしさをたたえることに反対しているわけではありません。  わたし自身は 縄文土器のほうに軍配を挙げると言っているのみ。  両方が成り立ち得ます。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この箇所を抜かして 反応されていませんか?  ご回答をありがとうございます。  冒頭の指摘に尽きるのですが どうでしょう?  どちらか一方を――絶対的に――よしとしているのではないつもりですが。  質問者はわたしですから さらに回答の寄せられるのを受け取るというのは そういう趣味嗜好としての自分寄りの姿勢になってもかまわないと考えてのことですが?  ★ ~~~~  bragelonneさんご自身のほうこそ、なぜボーメのフィギュアという、至極まっとうな回答が寄せられたのかをお考えになる必要がありましょう。  あるいは、火焔土器とボーメは同列と言えるのでしょうか?  ~~~~~~  ☆ 《あるいは》以下は 分かりません。そのためにも いろんな見方考え方をうかがおうというところです。わたしが 一たん判断をくだしたのは ですから趣味嗜好の問題としてですし また司会者でもあるけれども質問者として回答者と同じ立ち場に立ちつつ個人の意見をも表明するかたちで質問と回答というやり取りの全体を評価しておく部分もあったほうがよいと思ってのことです。  ★ なぜボーメのフィギュアという、至極まっとうな回答  ☆ これは ふたつの側面がありますね。ボーメのフィギュアじたいの言わば絶対的評価という側面がひとつ。そして 土器との対照という側面とです。  後者において すでに上に触れましたように質問者がしゃしゃり出てその評価をも表明していますが 前者の側面をおろそかにしたつもりはありません。  ただし わたし自身としては そもそもフィギュア全般についてもなじみがなく 確かにあまりよい批評者ではないという結果になっていることも事実だと思います。  そうしますと  ★ 至極まっとうな回答  ☆ であるという中身を まだわたしが気づいていないということになるのかと思います。  でも回答そのものとして まっとうな回答として受け留めていることはすでに伝えていますから そうしますとけっきょく やはりそのフィギュアの美についてわたしが 残念ながら いかんせん にぶいし にぶいままでいるということに帰着するようです。  そのように受けとめていただけるとさいわいです。  ピンと来ないものを ピンと来るまで 修行しなくちゃいけないというところまでは 正直に言えば 到りませんが。  でも それにしましても フィギュアは美であるという大前提が これでお二方において 成り立っているように見受けますが それは知らなかった者ももうそのまま受け容れなければならない常識なのでしょうか?  という釈然としないところも残ります。

bragelonne
質問者

補足

 この質問からのあたらしい発展をうながしてくれたので BA としました。  まあ あくわぼにすと氏の フィギュア論を経由してではあるのだけれど。

その他の回答 (14)

回答No.4

あなたが、直接実物を見てもいないのに、なにを凌駕するなにの話をしてるのか? 縄文土器の写真は美しいってことね。 ボーメのフィギュアの写真よりも縄文土器の写真を見続けていたいってことね。お好きに。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  あなたは わたしがボーメのフィギュアの実物を見て 縄文土器よりうつくしいと言うまで ぶつぶつ不平を言い続けるつもりですか?  何もあなたがフィギュアのうつくしさをたたえることに反対しているわけではありません。  わたし自身は 縄文土器のほうに軍配を挙げると言っているのみ。  両方が成り立ち得ます。  もし鈍感な人間に フィギュアの魅力をおしえてやりたいというのなら もっと言葉を尽くして 実物を それでは手に取ってみようと思わせるところまで がんばらばくっちゃあ。ただ すねているってんぢゃあ。でしょ?

回答No.3

>わたしの場合 どちらを長くいつまでも見ていたいと思うかと言えば まだ縄文土器のほうになります。  縄文土器の美しさをいつまでも堪能下さいませ。お好きに。  それにしても、あなたは、実物を見たことがあるのか?触れたことがあるのか?じっくりと鑑賞したことがあるのか?

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてのご回答をありがとうございます。  実物を見たことも触れたことも じっくりと――写真以外で――鑑賞したこともみなありません。  縄文土器が フィギュアになったら どうなりましょうか? どうなんでしょう?  あっ 実物を見たことがあるか? っていうのは フィギュアのほうのことですか?  ないですね。  仏像のフィギュアは たぶん一般に 小さすぎるのは うつくしいとは思わないでしょうね。昔の作品の真似だという――わるい――先入観があるからだと思います。  人形には ときどき それもただの木彫りであるとかの素朴なものに うつくしいと感じることがあったように思います。  そして フィギュアの質感には――見ていないので たぶんですが―― おそらく世代の違いから来るものと思われますが なじみが薄いというのは はっきりしています。  いづれにしましても フィギュアの美に親しむ人びとが いまは 多いのですね。その点 分かりました。留意してまいります。

回答No.2

http://gigazine.net/news/20081125_etv21c_bome/ ボーメが凌駕している。国宝級。

bragelonne
質問者

お礼

 ボーメって日本人作家なんですね。  うきよとんぼさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ○ 海洋堂のボーメ新作美少女フィギュアから「千鳥かなめ」とか「テッサ」とか「関羽雲長」とかいろいろ  ☆ なかで  ○ 関羽雲長  ☆ は 目が見えづらい。目が或る意味でいのちではないでしょうか? 分かりづらいのが わたしには 悔やまれます。  ○ 不知火 舞  ☆ 考えようによっては さまざまなんでしょうが おっぱいがでかすぎやしませんか? いきほひがあり過ぎるのも・・・。  いまでは 山本五十六や仏像が フィギュアになっているのですね。    ボーメの  ★ 国宝級  ☆ の作品は 一つひとつがそれぞれそうだということでしょうか?   縄文の火焔型土器を凌駕すると見ておられるのですね。  これはもう感覚と感覚のぶつかりあいで どちらがどちらとも言えないのでしょうね。  そうですね。わたしの場合 どちらを長くいつまでも見ていたいと思うかと言えば まだ縄文土器のほうになります。  こんなお応えで お礼に代えますが。

回答No.1

縄文式土器の情念的な印象は、アフリカの土着工芸品 (お面や装飾品)と共通のものがある。 その根源には、子供の美術作品に見られる、いわゆる プリミティブ芸術に通ずるものがあると思われる。 通常、我々が造形物を作る時は、「対象の形>自己との 相対における観察>作品への投影」という過程があるが、 そうした自己と分離した外的存在としての認識を可能にする 自我の確立が、未だの不完全な状態においては、対象と 自我が渾然一体となり、内面的な情念がそのまま造形に 投影された異形を生むのだ。 現代人が、そうした精神状態を可能にするのは、ある程度 自我が崩壊し、環境と自我が渾然一体となる必要があろう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  批判的見解を持ちます。  ★(要約) 自我 またその確立 そしてそれは近代理性によるという見方  ☆ これほどおろかな見方がありましょうか。  仮りに  ★ 対象と自我が渾然一体となり  ☆ の状態が 古代人のありさまだったとしても そこから言うところの理性人が出て来たのである。どうやって出て来たのか?  古代人の内面にもすでにあったからである。  古代人の場合には 理性も《わたし》の自覚も一般に自然環界や社会環境の中に含まれ包まれるというあり方が その人びとにとっての理性的で心やすらかな生活態度であったというに過ぎないと考えられる。  人間は社会的動物であると捉えたのは そういう歴史知性である。(自我や超自我やエスは もしどうしてもそのように分けたいのなら それでもそれらはすべて この人格そのものというべき歴史知性ないしは《わたし》に含まれており しかもそれらそれぞれが一部分ごとにはたらくというのではなく そうではなく つねに 全体としての《わたし》がその意志行為としてはたらくのであって その中にみな 統覚されてあるに過ぎません)。  あるいは 《われは目覚めた(ブッダ)》と言うのは 近代人以前の・《対象認識を対象と一体となった状態でのみおこなうに過ぎない知性と境地》だったというのでしょうか?  ★ 縄文式土器の情念的な印象  ☆ ということのようですが――そしてそれはそれとして ひとつの鑑賞であり評価でありここでの回答であると思いますが―― 問題は それゆえに現代人がその種の美を作り出すのはむつかしいということでしたら それは その結論については 何とも受け止めがたいものがあります。  何故なら端的に言えば いま現在 火焔型土器はそのものが残っているのですから ただそれを真似てつくればよいということになりませんか?  つまり言おうとすることは その結果作り上げた作品の美の完成度がどうであるかということよりも その創作態度――特にその内面における感性と理性との全体としての知性のあり方における結びつき具合い――を取り上げることによってその理由としているのはどうかというところです。  ★ ~~~~  現代人が、そうした精神状態を可能にするのは、ある程度  自我が崩壊し、環境と自我が渾然一体となる必要があろう。  ~~~~~~  ☆ ということは 縄文人は 気がちがっていたとでも言うのでしょうか? おそらく むろんそういう意図はなく まったくの善意でそういう見方を述べておられましょうが その見方の中身としては そのままでは受け容れがたい。こうなりますまいか。  ★ ~~~~  通常、我々が造形物を作る時は、「対象の形>自己との  相対における観察>作品への投影」という過程があるが、  そうした自己と分離した外的存在としての認識を可能にする  自我の確立が、未だの不完全な状態においては・・・  ~~~~~~  ☆ ほんとうにこのように考えておられましょうか? つまり  ★(要約) モノゴトは対象として 自己と分離した外的存在であり それとしてわれわれは認識するのだ。  ☆ と。  環界は 自己と相補性があるのではなかったか。  われがここに存在して その外にモノゴトがあってというふうに世界は成っているのか? そういう認識が じんるいの到達した最高の認識方法であるというのか?

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