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【縄文式土器】何故全国似てますか?
こんにちは。私は遺跡が好きで、旅行のたびにいろいろな遺跡を見学に行きます。 北は三内丸山遺跡から、南は吉野ヶ里遺跡、それぞれ発掘された土器を見ると、遠く離れた土地の出土品なのに驚くほど似ています。遮光器土偶とか火炎土器とか例外はあっても、縄目のデザインや主な土器の形はまるで統一規格があったかのように似ています。 天下統一どころか山ひとつ越えれば「別の国」みたいな様子だった当時、何故全国各地でこれほど似通った土器が作れたのでしょうか?それとも誰か技術を伝える交易者のような人がいたのでしょうか?
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結論として、「文化、文明が長期間停滞していたから」であろうと思われます。 縄文時代は1万年以上続いています。弥生時代の最後から現在までは2000年に足りません。このことを考えてみますと、縄文時代はいかに長期であったかがわかります。 この間、この島国への新しい技術や文化の流入は少なかったものと思われます。 縄文土器は、焼きの温度が低かったことがその特徴です。窯ではなく野焼きのような方式で焼かれました。したがって脆く、出来上がりの形も限定されてきます。高温焼成の技術が移入されるまでは、この焼き方が長く続いたわけです。 このように技術の進歩がないと、どうしても品物は様式化してきます。型にはまってくるわけです。 そしてこの時代の人は、温和な気性の人たちであったようです。殺された傷跡のある人骨はほとんど見当たりません。弥生時代はこのような骨がたくさん出てくるのとは大違いです。 気候が温潤で、照葉樹林が生い茂り、木の実なども豊富で、うまく住み分ければ争いごとをせずとも、十分に暮らしていけたのだろうと想像できます。隣の集落とも仲良くやっていたのだと思いますし、このような集落が列島の南の端から北の端までパラパラと点在していたのだと思います。 ですから物流は結構沢山あったと考えられ、また文化の伝播も意外と早かったに違いありません。 そういうわけで火焔土器も越後・信州間くらいは、あっという間に伝わったのではないかと考えられます。 縄文時代は、当時の人たちにとっては、いい時代であったんでしょうね。
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- onbase koubou(@onbase)
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似てますか? 私もよくあちこちで縄文土器を見ますが、「地域によってやっぱりずいぶん違うな」という印象を持ちます。 確かに大枠では類似しているとは思います。 意外と知られていないのかもしれませんがすでに縄文時代にはかなりの物流があったようです。 わかり易い例で言えば産地が特定される黒曜石や翡翠、貝などが日本各地の遺跡で見つかっています。 また、Aに隣接するB、Bに隣接するCでというリレー的に交流をした結果、おおよそ似たような土器文化が成立した、ということもあるかもしれません。 土器の形が似てくるのは用途によるものです。 煮炊き、貯蔵に適した形ということからおのずと類似した形になってきます。